児童英語・図書出版社 創業者のこだわりブログ

30歳で独立、31歳で出版社(いずみ書房)を創業。 取次店⇒書店という既成の流通に頼ることなく独自の販売手法を確立。 ユニークな編集ノウハウと教育理念を、そして今を綴る。

2007年11月

昨日に引き続き、「マレーシアの旅」で印象に残ったことを記します。
このブログにリンクしている、私の兄「十(とお)一(はじめ)こと酒井猛夫のブログ」(8月22日~31日)に、マレーシアの古都マラッカの記述がありますが、今回兄とホテルで合流する前に、マラッカ訪問を強く勧められていました。

そこで最新のガイドブック「マップル・マレーシア2007年版」(昭文社刊) の表紙裏広告のウェンディツアーに「日本語観光バス・マラッカ日帰り290リンギ(約1万円)」と出ていましたので、これを利用しようと、メリアホテルから5分ほどのところにある事務所を訪ねました。日本語の堪能な事務員が応対に出てくれましたが、このコースはすでに320リンギに値上げされていること、2名以上で催行されること、他に申し込み者がないので2名分料金640リンギ(22400円)ならば出発可能、といいます。ちょっと高いのでここに頼むのはあきらめ、鉄道があるはずだという情報から、タクシーの運転手に「KLステーション」と告げました。ところが降ろされたところに駅は見当たりません。いろいろな人に聞いても右だ、左だと要領を得ません。そして、上を見上げてビックリ。昨日記したペトロナス・ツインタワーがそびえているではありませんか。タクシーの運転手は、KLCC駅(プトラ線という駅がある)と勝手に解釈したことがわかりました。翌日ここに来る予定にしていたので、計画をいれかえることにしてことなきをえましたが、タクシーを利用するときはそんな注意も必要です。

ところでこの日の夜、前回購入したガイドブック(「地球の歩き方・マレーシア」ダイヤモンド社刊)に出ていた日本料理店「炉ばた大作」に行きました。日本語の堪能な中国系の板前さんに、昼間の失敗談を話したところ、「マラッカへ行くならバスを利用するのが一番便利、片道10リンギほどですよ」と、プドゥ・ラヤというバスターミナルのある場所を、私の手持ちの地図に○印してくれました。見ると、何とメリアホテルから歩いて10分もしない距離にあるのです。翌朝さっそくバスターミナルをめざしました。とても広いバス・ステーションで20~30台も止まっています。係員に「マラッカへ行きたい」と告げると、目的地別になっている改札口の番号を教えてくれ、窓口で切符を購入すると、9.2リンギ(320円)です。約170キロ、2時間もかかるところまで行くのに何と安い料金なのでしょうか。バスは予定通り、2時間ほどでマラッカのバスターミナルに到着。でも、マラッカの中心地からは遠く離れているようで、客待ちをしていたタクシーの運転手に「オランダ広場」までどのくらいの距離があるかと聞くと、5~6キロで15リンギといいます。(このようにマレーシアのタクシーは、乗る前に料金交渉するのが一般的)。こうして、バスとタクシーとあわせ約850円でマラッカに、無事着くことができました。

兄の勧める通り、マラッカは興味深い町でした。運賃が思ったより安かったので、マラッカ名物の人力3輪車トライショー(1時間40リンギの定額制)に乗ってみました。80歳という元気なワンさんが運転手。坂道になると「軍艦マーチ」を口ずさんで気合をいれるワンさんの片言の日本語まじり英語による解説つきで、イギリスから独立するまでの歴史を伝える「独立宣言記念館」、マラッカ海峡が一望できる高台の「セント・ポール教会跡」、マレーシアの原型となったマラッカ王国の宮殿を復元した「スルタン・パレス博物館」を見物。この博物館は、何層にもなる屋根が特徴の木造高床式の建物で、靴をぬいであがると、1階はスルタンに謁見する人々の様子が実物大の人形で再現されていたり、2階は数々の装飾品、3階は武器など、とても見みごたえのある宮殿でした。庭も広々と充実していて、スペインのアルハンブラ宮殿の庭を急に思い出したものでした。1時間ほどでトライショーを終了し、ゆっくりマラッカの町を散策、最後に日本にキリスト教を伝えた「フランシス・ザビエル教会」を訪ねました。教会の庭に、ザビエル像と並んで、ザビエルに日本への布教を勧めたヤジロウ像があるのが印象的でした。鹿児島出身のヤジロウは、若い頃人を殺してマラッカに逃れ、その罪をザビエルに告白したことが知り合うきっかけだったようで、この出会いがなければ、日本にキリスト教が伝えられた1549年よりずっと後になっただろうと考えながら、マラッカの地を後にしました。

先週も記しましたように、11月1日から11日まで、2年半ぶりにマレーシア旅行を楽しんできました。
マレーシアへ行ったことがない人にとっては、タイやフィリピンと同じような国と思うようで、「マレーシア」へ行ってきたというと、「お腹は大丈夫?」といわれます。たしかに、7、8年前、タイのバンコック、フィリピンのマニラから帰国後、1か月近くも食中毒にやられ、ひどい下痢に苦しめられたことを、いろいろな人に話したせいなのかも知れません。
今回は2度目のマレーシアでしたが、衛生面ではまったく問題がないばかりでなく、首都クアラルンプール(KL) は、世界の大都市と遜色のない大都会です。10年ほど前に完成した KLのシンボルとなっているペトロナス・ツインタワー(88階建・452mの高層ビル)には、ニューヨークの5番街、パリやローマのブランド品街にあるような店はほとんど出店しているばかりか、日本の伊勢丹も入っていて、食料品売場をはじめ、ここは日本ではないかと思うほどの豊富な品揃えです。

最初に訪れた2年半前から今回は、さらに一段と活気に満ちていました。泊まったメリアホテルのあるKLで最もにぎやかなブキィ・ビンタンの、500店も入っている大型ショッピングモール「スンガイワンプラザ」では、1階にステージが設けられ、さまざまなミュージシャンの演奏にあわせ、ダンサーや歌手が次々に踊り歌うのを、ステージ前はもちろん、吹き抜けの2階、3階からも一般客が声援をおくる光景を見て、何とエネルギッシュで、楽しさにあふれる空間をこしらえたものかと、感嘆する思いでした。時おり、ダンス自慢の若者たちが随時ステージにあがって競いあうさまを地元のテレビ局が放送しているのか、この時は一段と盛り上がりを見せていました。大通りをへだてホテルのすぐ前にあるショッピングモール「タイムズスクウェア」には、デパートや900以上の専門店、60以上の食堂やカフェ(日本料理の店も4店ほどあり)、ボーリング場やマルチプレックス映画館、さらに室内遊園地があって、ジェットコースターが食堂の上を走っていくのには、度肝をぬかされました。

KLは緑豊かな街でもあります。ツインタワーの前の KLCC公園の児童公園には、幅30mほどの滝の下に大きな人工池があり、幼児から小学生くらいの子どもが楽しげに水遊びをしていました。日本の7、8月の気候が1年中続く常夏の都市に水遊びは欠かせないのでしょう。数人の監視員が見守っていて、危険な遊びをする子どもにはすぐさま注意をうながすので、親は安心してくつろいでいるのは、特に印象的でした。
30万坪もあるレイク・ガーデンは、国立博物館や美術館をはじめ、世界最大というバードパーク、東南アジア最大のバタフライパーク、数10頭のシカが遊びまわるディアパークなど、たくさんの施設が点在する KLのオアシスともいえる広大な公園です。全部を回るのは、とても1日では足りないというので、オーキッド・ハイビスカスガーデンを訪ねました。心地よい木陰に休みながら、南国の花々を堪能してきました。ペルダナ湖というボート遊びもできる湖も見ておきたいと、道行く人に尋ねましたら、園内を回るシャトルカーの停留所を教えてくれました。園内を時速15キロほどで1時間かけてゆっくり走る、まるで「おとぎの国の列車」のようです。運賃を聞くと、50(フィフティ)といいます。50リンギは高いなと思ったら、何と50セント(17円)だそうで、子どもは20セント(7円)と聞き、ますますこの国が気に入ってしまいました。

こうすれば子どもはしっかり育つ「良い子の育てかた」 60

ある駅の近くでのことです。もうすぐ電車が入るのか、歩いていた人たちが、いっせいに走りはじめ、5歳くらいの女の子の手をひいていた若い母親も、かけだしました。すると、ひきずられるようにしていた女の子の、片方のくつがぬげてしまいました。

これを、うしろから見ていて、きっと、あの母親の口からとびだすにちがいないと思ったのは 「なにしてるの」 という言葉でした。
ところが、この予想は全くはずれました。
「ごめんね。ママが、お家をでるのが、おそかったのね。ママが悪かったのに、走らせたりして、ごめんね。ゆっくり行って、この次の電車に乗りましょう。ごめん、ごめん」 母親は、ひろってきたくつをはかせながら、4度も 「ごめん」 と言ったのです。
これを見ていて、最近の母親も、なかなかすてたものじゃないぞ、と嬉しく思ったものでした。

親は自分の気がせいているとき、あるいは気がいらだっているとき、子どもに 「なにしてるの」 「早くなさい」 「ぐずぐずしないで」 などという言葉を投げかけてしまうことが少なくありません。子どもがころんだときも 「なにしてんの」 と言いがちです。
でも、たいていの場合は、親の身勝手な叱り方です。親に 「急ぎなさい」 とせかされて仕方なく急ぐうちにころんで痛いめにあい、そのうえ 「なにしてんの」 と叱られては、子どもはたまりません。

先の母親のように、子どもの心、子どもの立場、もっといえば子どもの人格を、いつもあたたかく考えていたいものです。

たまには子どもと添い寝をしながら、こんなお話を聞かせてあげましょう。 [おもしろ民話集 23]

ある日、ヤギが夕立にあって、ずぶぬれになってしまいました。ライオンが窓から、ずぶぬれのヤギを見て「私の家で、雨やどりをしたまえ」と、声をかけました。ヤギは感謝して、ライオンの家へ入りました。

ライオンは「ヤギ君、そこへお座りよ。雨やどりの間、ギターをひいてあげよう」と、ギターの伴奏にあわせて、歌いだしました。

♪ 雨の降る日は 家にいて おいしい肉の おいでを待つのさ……

ヤギは、「おいしい肉」が何なのかわかって、ビックリしましたが、落ちついて言いました。
「ライオンさん、とてもお上手ですね。私にもちょっと、ギターをひかせてくれませんか」
ライオンは上きげんで、ヤギにギターを渡しました。ヤギは、ギターをひきながら、こんな歌をうたいました。

♪ きのう殺した 1万匹のライオン 今日は何匹殺そうか

これを聞いて、ライオンはびっくりしました。そして、奥さんを呼ぶと「おい、たきぎを取ってこい!」奥さんは、雨の中をたきぎ取りとはと驚きました。すると、ライオンは小さな声で、奥さんに「帰ってくるな!」と、ヤギに聞えないように言いました。

ヤギは、今度はもっと大きな声で、♪ きのう殺した 1万匹のライオン…… と、歌います。
ライオンは、今度は息子を呼びました。「森へ行って、お母さんを探して来い」そして、小さな声で「帰ってくるな」とつけたしました。

ヤギは聞えないふりをして、さらにもっともっと大きな声で、♪ きのう殺した 1万匹のライオン…… と、歌います。

ライオンは、もうこわくて、いても立ってもいられません。
「ヤギさん、ちょっと、ウチのやつらを探してくるから、ゆっくり休んでくれたまえ」というが早いか、家から出て行きました。

ライオンがみえなくなったとたん、ヤギはギターを放り出して、いちもくさんに逃げ出しました。

今日11月26日は、日英同盟、日韓併合の立役者であり、日露戦争が終結したポーツマス講和会議の全権大使を務めた外交官・小村寿太郎が1911年に亡くなった日です。

1904年に、日本とロシアのあいだで起こった日露戦争は、陸軍が満州(いまの中国東北部)でロシア軍を退却させ、海軍が日本海でロシア艦隊をげきめつして、日本が勝ち進みました。しかし、1年もたつと、兵力も武器も底をつき、戦争をつづける力を失いかけていました。そこで日本は、アメリカに戦争を終わらせるための仲だちをたのみ、1905年8月にアメリカのポーツマス軍港で、ロシアと話し合いをすることになりました。

このとき、日本の全権としてポーツマスにのりこんだのが、明治政府の外交官、小村寿太郎です。

寿太郎は、1855年、日向国(宮崎県)の飫肥藩につかえる身分の低い武士の子として生まれました。無口で忍耐強く、ひとりで静かに本を読むのがすきな少年でした。

寿太郎は、15歳で大学南校(いまの東京大学)に進みました。そして、卒業後、文部省の留学生にえらばれてアメリカへ渡り、25歳で帰国すると4年ほど司法省で裁判所の仕事をしたのち、外務省へ入りました。でも、37歳までは目だたない仕事がつづき、外務省の役人としてはめぐまれませんでした。

寿太郎が外交官のスタートをきったのは、38歳のときに外務大臣の陸奥宗光にみとめられて、清国(中国)におかれていた日本公使館の、代理公使に任命されてからのことです。それは、日清戦争が起こる1年まえのことでした。

そののちの寿太郎は、朝鮮、アメリカ、ロシアなどの公使をつとめながら、むずかしい外交の役を果たし、とくに、南へ領土を広げようとするロシアをおさえることに力をつくしました。

46歳で、桂太郎内閣の外務大臣に迎えられました。ところが、ロシアは、満州や朝鮮へ手をのばそうとするのをやめず、ついに、日露戦争が始まってしまいました。そして1年ののち、寿太郎がポーツマスの講和会議にのぞむことになったのです。

会議は20数日もつづき、寿太郎は、日本に少しでも有利な条件で講和がむすばれるように、全力をつくしました。しかし、戦争をつづける力がない日本を救うためには、ロシアの示す条件も受け入れて、調印を終えるよりしかたがありませんでした。

日本へ帰ってきた寿太郎は、国民から「国賊だ」「小村は腰ぬけだ」 と、ののしられました。国民は、政府や寿太郎の苦しみを知らなかったのです。寿太郎は、国の実情はけっして口にせず、なにひとつ、べんかいもしなかったということです。

寿太郎は、そのご、1910年の韓国併合にも努力し、明治時代の幕がおりる前の年に亡くなりました。まだ56歳でした。

以上の文は、いずみ書房「せかい伝記図書館」(オンラインブックで「伝記」を公開中)33巻「牧野富太郎・豊田佐吉」の後半に収録されている14名の「小伝」から引用しました。近日中に、300余名の「小伝」を公開する予定です。ご期待ください。

↑このページのトップヘ