児童英語・図書出版社 創業者のこだわりブログ

30歳で独立、31歳で出版社(いずみ書房)を創業。 取次店⇒書店という既成の流通に頼ることなく独自の販売手法を確立。 ユニークな編集ノウハウと教育理念を、そして今を綴る。

2007年10月

たまには子どもと添い寝をしながら、こんなお話を聞かせてあげましょう。 [おもしろ民話集 16]

ある時、1ぴきのブタがぶつぶつ、ぷーぷー、ぷーぷー、ぶつぶつ言いながら、役場へやってきました。
「何を、ぶつぶつ、言ってるんだい」 役場の人たちがたずねました。すると、ブタは、鼻を鳴らしながら言いました。
「おいらは、もう、がまんならずに、やってきました。ぷー。よーく考えてみてくだされ。ウマやウシは、おいしそうな麦をもらう。それに、かわいたわらをしいた小屋で気持よさそうに寝る。ぷー。ところが、おいらときたら、どうだ。ぷー。食わしてもらえるのは、人間が食べた残りものばかり。それに、寝るところは、いつもどろ水にぬれてぐしょぐしょ。ぷー。これじゃ、まったく不公平じゃありませんか、ねえ、そうでしょ、ぷー」

「おまえたちは、人間の食べ残しや、どろ水が好きじゃなかったのかい。いつも、うまそうに食べて、楽しそうにどろんこ遊びしてるじゃないか」
「とんでもない。ぷー。そりゃ考え違いですよ、ぷー」
「よし、わかった。そう、ぷーぷー鳴かないでくれ」

役場の人は、みんなで相談しました。そして、ブタに言いました。
「おまえの言うとおり、まったく不公平だ。これまでかわいそうだったかわりに、これからは小麦と豆をもらって、夜は絹のふとんに寝るがいい」
ブタは、鼻を鳴らしてよろこびました。そして、大きな声でひとりごとを言いながら帰って行きました。
「小麦と豆、それに絹ぷとんに寝るんだ! ぷー」 「小麦と豆、それに絹ぷとんに寝るんだ! ぶー」

ところがこれを、やぶの中で昼寝をしていたキツネが聞きつけました。
「ブタのやつめ、おかしなこと言ってるぞ。くずと残りもの食べて、どろんこの中に寝るくせに。よし、ほんとのことを言ってやれ」
キツネは、ブタにあわせて叫びました。
「くずと残りもの、それに、どろんこの中に寝るのさ!」
ブタは、キツネのいたずらに気がつきました。そして、大きな声で言いつづけました。
「小麦と豆、それに絹ぶとんに寝るんだ! ぷー」 「小麦と豆、それに絹ぷとんに寝るんだ! ぷーぷー」

キツネも負けずに叫びつづけました。「くずと残りもの、それに、どろんこの中に寝るのさ」「くずと残りもの、それに、どろんこの中に寝るのさ!」
「くずと残りもの、それにーー」 キツネのかん高い声は、とうとう、ブタにうつってしまいました。でも、ブタは、いつのまにか自分が 「くずと残りもの、それにーー」 と言っているのに気づきませんでした。

ブタが家へもどると、みんなが聞きました。
「ぶつぶつ、ぷーぶー言って家を出て行ったけど、役場の人に、望みをかなえてもらったかい?」
するとブタは 「ええ、もちろんですとも」 と言ってから、みんなに向かって叫びました。
「くずと残りもの、それに、泥んこの中に寝るのさ! ぷー」 「くずと残りもの、それに、泥んこの中に寝るのさ! ぷー」

向こうの草かげで、キツネが、腹をおさえて笑いころげて言いました。「かっこいいこといっても、本性は出るものだ」

今日10月1日は、フランス革命の精神的導きをしたことで名高いルソーらに学び、自由民権思想を広めた明治期の思想家・中江兆民が、1847年に生まれた日です。

明治時代にわきおこった自由民権運動の、理論の面での指導者としてあおがれたのが、中江兆民です。

兆民は、江戸時代の終わりころ、土佐藩(高知県)の下級武士の家に生まれました。幼いときから学問をこころざし、19歳のころには藩の留学生として長崎へ行き、フランス語を学びました。さらに2年ごには、江戸や横浜でフランス語を学んで、フランス公使の通訳をするまでになりました。まもなく、明治政府が誕生し、政府が西洋へ留学生を送ることになると、政府の実力者のひとり、大久保利通に直接交渉して、留学生になりました。1871年(明治4年)24歳のときのことです。

およそ3年におよぶフランス留学で、思想家ルソーのとなえた民主主義の考え方を心にきざんだ兆民は、帰国して仏学塾を開きました。やがて、フランスで知り合った西園寺公望とともに『東洋自由新聞』を創刊して、自由と権利を守ることが、どんなにたいせつであるかを訴えました。そして、1882年(明治15年)にルソーの『民約論』をほん訳して、自由民権運動を進める人びとに指導者とあおがれ、東洋のルソーとよばれるようになったのです。

兆民は、次つぎと政府の政策を批判する文章を書き、国民のことを考えない政治のあり方に反対しつづけました。しかし、40歳のとき、政府ににらまれて東京を追放されてしまいます。大阪へ行った兆民は『東雲新聞』を創刊して、くじけることなく言論を武器にして政府と闘いました。

1890年(明治23年)におこなわれた第1回の衆議院選挙に立候補した兆民は、ほとんど金を使わずに当選しました。ところが、議会が開かれると、政府を批判すべきはずの野党の人たちが、政府に買収されているのをまのあたりにしました。胸のなかがはげしい怒りでいっぱいになった兆民は、きたない政治の世界に失望して議員をやめてしまいました。そのご、理想とする政党をつくるために、実業家となって資金を得ようとしましたが、ことごとく失敗してしまいました。

1901年、医師からがんにおかされており1年半しか生きられないと告げられた兆民は、最後の気力をふりしぼって、『一年有半』『続一年有半』を遺書のつもりで書き、その年に静かに息をひきとりました。高い理想を掲げ、著作活動によって日本の近代化に貢献した兆民でしたが、印ばんてんに腹がけ、ももひき姿で講演したり、夏の暑い日に井戸の中に鍋でつるしたかごに入って読書するなど、奇行の人でもありました。

なおこの文は、いずみ書房「せかい伝記図書館」(オンラインブックで「伝記」を公開中)32巻「伊藤博文・田中正造・北里柴三郎」の後半に収録されている7名の「小伝」から引用しました。近日中に、300余名の「小伝」を公開する予定です。ご期待ください。

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