児童英語・図書出版社 創業者のこだわりブログ

30歳で独立、31歳で出版社(いずみ書房)を創業。 取次店⇒書店という既成の流通に頼ることなく独自の販売手法を確立。 ユニークな編集ノウハウと教育理念を、そして今を綴る。

2007年10月

私のこのブログにリンクしている「キャメロン会」の最近のホームページをのぞいて、ビックリしました。新たに10種類もの動画を見ることが出来るようになっているのです。

キャメロン会は、以前このブログで紹介しましたように、マレーシアのキャメロンハイランドをロングステイ先とする全国規模のボランティア組織です。キャメロンハイランドは、赤道直下にあるにもかかわらず、1300~1500m の高原にあるため、1年中20度前後で、まさに「常春」の気候、とても過ごしやすい場所です。しかも、物価は日本の何分の1かで、夫婦で1か月ホテルに滞在しても、朝食付きで10万円程度で暮らすことができます。イスラム教を信じるマレー人も親日的で、中国人、インド人他の民族の人たちとも平和に共存しているため、治安がよいのも魅力です。

10種類の動画は、次の通りです。
● タナラタ朝市風景……タナラタは、キャメロン高原にある3つの大きな町のうちの中心で、マレー料理、中国料理、インド料理、洋食など、たくさんのレストランがあります。2年前にはなかった日本食の店も出来、天ぷらや丼物、日替わり定食まであるようです。
● 総会報告会……タナラタにある、キャメロン会を後援してくれている「ヘリテージホテル」で、毎年1月末に行なわれているそうです。
● ゴルフコンペ……1日1500円程度でプレーができるため、ゴルフ好きには何ともこたえられません。現在ゴルフ会員だけでも700名を越え、今年の2月のコンペには106人が参加したそうです。
● テニス部 ● 絵画部 ● トレッキング部 ● ゲームサロン……囲碁を楽しむ光景が写っています。
そのほか、中国のお正月 ●春節 ● ヒンズー教のお祭り、地元のマレー人と交流する●婦人部の活動まで、日本にいながらにして、ロングステイの楽しさが伝わってきます。ぜひアクセスしてキャメロンハイランドでのロングステイ生活を実感してみてください。ほとんどの動画のバックに流れる歌「キャメロン讃歌」は、兄猛夫(私のブログにリンクしています)の作詞、私の作曲した曲です。

なお、私は、明日(11月1日)より11日まで、マレーシアの首都クアラルンプール(KL)と、KLとキャメロンハイランドの中間地点にあるフレーザーズヒルに出かけることになりました。世界中を旅するのが趣味の兄猛夫夫妻は、マレーシアがとても気に入り今年だけで3度目、オーストラリアからの帰りに、KLで私と合流することになっています。

そのため、しばらくの間ブログを休ませていただきますので、ご了承ください。

たまには子どもと添い寝をしながら、こんなお話を聞かせてあげましょう。 [おもしろ民話集 20]

昔あるところに、ジャンというロバを飼っている男がいました。ある日のこと、ストーブに燃やす薪をとろうと、木に登りました。木の下ではロバがいました。そこへ、馬に乗った見知らぬ人が通りかかり、ジャンにこういいました。
「おーい、そこの人! 木を切ったことはないのかね?」
「何だと? おれがこれまで切った木を全部あわせりゃ、りっぱな森ができるくらいだ」 と、ジャンは叫びかえしました。
「おまえが切ろうとしてる枝を切ったら、地面におっこちるぞ!」
「何をほざく。お前こそ、木の切りかたについちゃ、何にもわかっちゃいないんだ」

それを聞くと、男はいってしまいました。ところが、まもなくミシミシッという音とともに、ジャンは枝もろとも、地面におっこちてしまいました。(おやおや? さっきのヤツはすごい男だ。言った通りになったんだからな。もしかしたら、あの人は予言者にちがいない。あとを追って、聞いてみることにしよう) ジャンは、ロバに乗って、あの男を追いかけました。すこしすると、さっきの男が、ゆっくり馬を走らせています。

「先ほどは失礼しました。あなたさまは、予言者ですね。すみませんが、ひとつだけお尋ねしたいことがあります。私は、いつ死ぬんでしょう」 「それは簡単なこと。あんたは、そのロバがくしゃみを3回したら死ぬよ」 というと、男は行ってしまいました。

(ハハァ、おれのロバはくしゃみなんて1度もしたことはない。ということは、おれは長生きできるってことだな) ジャンは、とても幸せな気分になって、家路につきました。ところがどうしたことでしょう。ロバがトコトコ歩きだしたとき、口を大きくあけると 「ハックショーン」 と、大きなくしゃみをしたのです。ジャンはびっくりぎょうてん。ロバからおりると、両方の手をロバに押し当てました。発作がおさまったようなので、また家へ帰ろうとしましたが、ロバに乗って行く気になれません。乗るかわりに、ロバがくしゃみをしそうになったらやめさせようと、ロバの脇を歩きました。

しばらくして、ジャンは耕したばかりの畑のそばを通りました。ジャンは立ちどまり、豊かな茶色い土を感心しながらながめ、来年にはどんなにかみごとな小麦がとれるだろうと、うっとりとしました。そのとき、「ハックショーン!」 ロバが2度目のくしゃみをしたのです。ジャンはかぶっていた帽子をぬぐと、ロバの鼻をしっかり押さえました。(ああ、あと1回くしゃみしたら、おれは死んじまう。あの男は悪魔だったんだ)

ジャンは、いいことを思いつきました。丸い小石をひろい、ビンの口にコルクの栓をするように、ロバの両方の鼻に小石でフタをしたのです。(そうーら、くしゃみが出きるものならしてみろ!) すると、「ハックショーン!」ロバの鼻から小石が鉄砲玉のように飛び出して、2つの小石がジャンの顔に命中したのです。「あっ!」 ジャンは叫びました。「おらは死んじまっただぁー! オジャンになったー!」 といったまま、道路に伸びてしまいました。

こうすれば子どもはしっかり育つ「良い子の育てかた」 57

さまざまな遊び場を設けた 「子どもサークル」 でのことです。

積木の遊び場で、2組の親子が木の積木をいろいろな形に積んだり並べたりして遊んでいました。
一方の母親が言いました。「せっかく、大きなおうちを作ったのに、どうしてすぐこわしてしまうの? もう、つくってあげませんからね」 と言って積木遊びをやめてしまいました。
もう一方の母親は、子どもがどんなにこわしても、やめようとはしません。それどころか、母親もわざとこわしたりして 「さあ、今度は何をつくろうか」 「何がいいかなあ」 などと語りかけながら、子どもといっしょに 「うわー、東京タワーだ」 「大きな船だ」 「積木かいじゅうだ」 などと遊び続けました。

おそらく、すぐやめてしまった母親の方は、「子どもと遊んでやる」 ことしか知らず、子どもがこわしてはつくり、こわしてはつくりすることの大切な意味に気づいていなかったのでしょう。いつまでも遊び続けた母親の方は、それをちゃんと知っていたのです。「子どもと遊んでやる」 のではなく 「子どもといっしょに遊ぶ」 ということも。

家庭でどんなにりっぱな積木を買い与えても 「せっかくつくったのに、こわしちゃだめじゃないの」 ではダメなことを知っておきたいものです。

私の好きな名画・気になる名画 10

名画を描いた画家の多くは、若くして画才を認められ、その才能を着実に開花させました。しかし、ゴッホは、そんな 「生まれながらの画家」 とは、およそかけ離れた存在でした。ゴッホは、16歳の頃に画商となって、数年間は絵に関する仕事に従事しました。しかし解雇され、その後は書店に勤めたのち、語学教師、牧師や伝道師を志すも挫折、こうして彼はありきたりの仕事にはみんな失敗しました。心があまりにきれいで、がんこなゴッホの魂を受け入れてくれる職場はありませんでした。ただ1人彼をうけいれたのは4歳年下の弟テオでした。テオは一人前の美術商になっていて、兄の純粋な魂をよく知っていました。そのテオの勧めで、1880年、27歳になったゴッホは、画家になる決心をするのでした。

ブリッセルの小ホテルにこもって、教習本をみながらデッサンをはじめ、1881年モーブという親類の画家に油絵の手ほどきをうけ、ついに1885年に 「ジャガイモをたべる人びと」 という、手ごたえのある作品を描くまでの、馬車ウマのような努力は、弟テオへの手紙でよく知られています。テオが兄の手足になって生みだしたものがゴッホの作品であり、ゴッホが弟の期待に応えようと書きつづったのが 「テオへの手紙」 です。その手紙のなかで、この絵について、ゴッホは次のように言っています。「ランプの灯のしたでジャガイモを食べるこの人びとは、皿をとるそのおなじ手で土を掘ったのだ。それを私は描こうと思った。これこそ、ほんとうの百姓絵だと、やがて世間はさとるだろう」。ゴッホの絵は、それから5年後に生涯を閉じるまで売れた絵は1枚きりでしたが、いつもそんな誇りに満ちて描き続けたのでした。

1886年ゴッホは、テオの世話でパリに出ます。そのまえから日本の浮世絵のみごとな単純化を知っていた彼は、パリで印象派の画家につきあうと、いっぺんに色が明るくなりました。そして、ゴッホの絵が大きく開花するのは、1888年、南フランスの明るいアルルにいってからでした。15か月間のアルル生活で描いたゴッホの作品はおよそ190点、ヒマワリ、花さく果樹園、つり橋、オリーブ畑、糸杉など、どれもこれも傑作ぞろいといってよいでしょう。

この「アルルの寝室」もその1枚です。ゴッホは、アルルに移った時から、ここにパリで出あった仲間たちを呼び集め、いっしょに生活しながら絵画制作にはげむという夢をもっていました。そして、この「南仏のアトリエ」に居をかまえ、パリのたくさんの友人たちに、ここで共同生活をしようと、誘いの手紙を書きました。しかし、アルルにやってきたのは、ゴーギャンただひとりでした。それも、テオの金銭的な援助があったからでした。まもなく、やってくるゴーギャンに宛てた手紙に、この絵のことが書かれています。

「最近、私の寝室を描いた30号の油絵をしあげました。単純で何もない室内を描くのは楽しい仕事でした。色面は平坦ですが、大きなタッチでたっぷり塗ってあります。壁はうすい紫、床は色あせたような粗い赤茶、イスと寝台はクローム・イエロー、枕と敷布は薄緑がかったレモン色、毛布は血のような赤、テーブルはオレンジ、洗面器は青、窓枠は緑です。さまざまな色によって、絶対的な休息を表現しようとしました。白い部分といえば、黒い枠に囲まれた鏡の面だけです。あなたが来られたら、この作品もほかのものといっしょに見ていただきたいと思います」と、到着を待ちわびていることがよくわかります。

しかし、よく知られているように二人の共同生活はわずか2か月で終わってしまいました。ゴッホの非妥協的な性格と、それに輪をかけたような激しい自己主張の持ち主のゴーギャンでは、破綻は目に見えていました。ゴッホはゴーギャンの言動が気にさわってカミソリで切りつけます。そして、それをひどく悔やんで自分の耳を切り落としてわびる、ということになってしまったのです。

アルルの病院から、サン・レミの精神病院へ。そして1890年、パリから北へすこしいったオーベルという美しい村に移りすむゴッホ。
「ものを見るということは、ものを信ずるということだ」こんな手紙につづけて「いま夢中になっているのは、丘にむかった、とほうもなくひろがった麦畑の平野の絵。海のような。じつに微妙な色の。これをかいている私の気持ちの静けさは、どうやらあまり大きすぎます」。そこへ、いきなり激しい病魔がおどずれてきました。写生に出たゴッホは、しぶんの胸にピストルの弾丸をうちこんでしまったのです。

1890年、37歳。オーベルの麦畑の小さな墓に埋められました。テオは母へ手紙を書きました。
「人生の荷は兄には、あまり重かった。しかし、いまになって、みんな彼の才能をほめあげているんです。ああ、お母さん、じつに大事な大事な兄だったのです」

テオも、翌年の1月、ゴッホと同じように気を狂わせてユトレヒトの病院で終えました。彼もまた、兄の隣へほうむられたのでした。

 なお、ゴッホの生涯に興味のある方は、いずみ書房のホームページで公開しているオンラインブック 「せかい伝記図書館」 の 「ゴッホ」 の項をご覧ください。

今日10月25日は、画家であり、彫刻家であり、また歴史家、詩人、学者でもあった情熱的芸術家ピカソが、1881年に生まれた日です。

「物を、目に見えたとおりにえがく必要はない。目で見て自分の心で感じたもの、考えたものを、自由にえがけばよい」

ピカソは、ほとばしる情熱のままに芸術を愛しつづけた、20世紀最大の画家のひとりです。

スペインの古い町マラガで、1881年に生まれたパブロ・ピカソは、小学校へ通いはじめても、学校がきらいでした。夢中になったのは絵をかくことだけです。父が美術学校の先生でしたから、自然に、絵を愛する心に灯がともったのかもしれません。

16歳のとき、すばらしい成績で、首都マドリードの王立美術学校へ入学しました。でも、ピカソの才能は、形にはまった授業に満足できず、しだいに学校から遠ざかってしまいました。

「もっと新しいものを学ばなければだめだ。パリへ行こう」

19歳で、芸術の都パリへでたピカソは、若い芸術家たちと交わり、美術館へ通い、個展を開いて、画家への道を歩みはじめました。そして、初めは、貧しい母親、老人、浮浪者などに心をよせて、人生の孤独と悲しみを青色でえがき、つぎには、旅芸人やサーカスの道化師たちをモデルにして、人間が悲しみをおさえて生きるすがたを、こんどは桃色でえがきました。ピカソの、心でとらえるえがき方が、色を変えさせたのです。

ピカソが、ほんとうに注目されるようになったのは、26歳の年に『アビニョンの女たち』を完成させてからです。絵のなかの女たちの顔やからだは、ひどくゆがんでいます。ピカソが、自分の心でとらえた女を、えがいたからです。おおくの画家たちから「ピカソは気がくるったのだろう」とさえ、思われました。しかし、ピカソは平気でした。やがて、この絵のえがき方はキュビスム(立体主義)とよばれるようになり、20世紀の新しい美の世界を生みだしていきました。

そのごのピカソは、目で見たままの写実主義の絵をかいたかと思えば、人体を怪物のように変形させた絵や、何がえがかれているのかわからないような、超現実的な絵もかきました。また、第2次世界大戦や朝鮮戦争が始まったときは『ゲルニカ』『戦争と平和』などの大作を発表して、戦争をおこした人びとに、はげしく抗議しました。

ピカソは、絵のほかに、版画、彫刻、陶器などの制作にもいどみ、さらに、舞台装置も手がけ、詩や戯曲も書き、からだのなかの芸術愛の火をもやしつくして、1973年に91歳で亡くなりました。つねに新しいものを求め、つねに飛躍しつづけた、はげしく大きな生涯でした。

以上の文は、いずみ書房「せかい伝記図書館」(オンラインブックで「伝記」を公開中)16巻「アムンゼン・チャーチル・シュバイツァー」の後半に収録されている7名の「小伝」から引用しました。近日中に、300余名の「小伝」を公開する予定です。ご期待ください。

なお、ピカソが生涯に制作した作品には、13,500点の油絵と素描、100,000点の版画、34,000点の挿絵、300点の彫刻と陶器があり、最も多作な画家であるとギネスブックに記されています。

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