児童英語・図書出版社 創業者のこだわりブログ

30歳で独立、31歳で出版社(いずみ書房)を創業。 取次店⇒書店という既成の流通に頼ることなく独自の販売手法を確立。 ユニークな編集ノウハウと教育理念を、そして今を綴る。

2007年09月

世界中で愛されているコンパクト判絵本「ピーターラビット」シリーズ23点の生みの親ビアトリクス・ポターの自伝映画「ミス・ポター」が、9月15日から、日劇3ほか全国東宝洋画系約300館でロードショー公開されます。あらすじは、次の通りです。

1902年のロンドン。上流社会の女性が仕事を持つことなどあり得なかったビクトリア朝の時代に、絵本作家をめざした32歳の上流階級育ちの独身女性ビアトリクス・ポターは、ピーターラビットを描いたスケッチブックを片手にさまざまな出版社に売りこみをしますが、断られ続けます。ある日、ようやくフレデリック・ウォーン社主兄弟に出版を了承してもらえました。失敗してもかまわない仕事として、編集未経験の末弟ノーマンにこの仕事を押しつけたのでした。でもノーマンは「ピーターラビット」をとても気に入り、ポターの主張する、これまでの常識をくつがえすコンパクト判(文庫判より一回り小さいサイズ)とするなど、すべての要求を受け入れて出版。500冊も売れれば上出来という兄たちの予測を大きく裏切り、たちまちベストセラーになりました。次々と刊行するシリーズも好評、ポターとノーマンは互いに惹かれあい結婚を約束するまでに至りました。ところが身分が違いすぎると母は猛反対、何日も口を聞かない娘に父は一つの提案をします。[毎年のように夏を過ごす湖水地方(イングランドの北西部・ピーターラビットの舞台)で過ごし、夏が終わっても気持ちが変わらなければ結婚を許そう]というものでした。遠く離れた距離を埋めるように文通する二人。ところがこの恋は、ノーマンの病死により突然終わりを告げます。悲しみにうちひしがれながら、ポターはロンドンを離れ、創作の源であり、魂の故郷ともいえる湖水地方に移り住みます。そして、ヒルトップ農場を購入するなど、美しい自然はポターの心の傷を癒すのでした。ところが、そんな湖水地方に、農地を買い上げて自然を破壊しようとする開発業者が現われました。今や世界的なベストセラー作家となったポターは、莫大な資産を得ていました。その資産を使い、農場の競売で破格の値でせり落とそうとする開発業者を打ち負かしました。そして、天国から見守るノーマンと、自然を守ろうとするポターに賛同するウィリーの助けを得て、ポターは第2の人生を、力強く歩みはじめるのでした……。

こうして、1943年77歳でなくなるまでに、ポターが湖水地方に購入した土地は4千エーカー(約490万坪)と15の農場です。遺言により、ポターのすべての資産は、世界的な自然保護団体ナショナル・トラストに寄贈。そして、その後の印税も「湖水地方の保護」のために使われています。ピーターラビットたちの生きていた100年前の姿を、いつまでも続けてほしいというポターの願いがこめられているのです。

私は去る5月、この映画を早々と鑑賞しました。当社がここ10数年間、毎年「ピーターラビット・カレンダー」をフレデリック・ウォーン社から大量に仕入れていることもあり、特別に試写会に招待されたものでした。ポターについては、すでに何冊かの本を読んで知ってはいましたが、いろいろな角度から映し出される 「湖水地方」の美しさは格別で、いずれ訪ねてみたいと思ってしまいます。子ども部屋にウサギやネズミ、トカゲやヤモリなどの小動物を飼っていた子ども時代の回想シーンや、競売にかかる農場や土地を、開発業者と駆けひきをしながらついに競り落とすポターの迫力も見ものです。

「ピーターラビット」シリーズは世界111か国で出版され、23作品の合計は1億冊を越えるそうです。日本での出版は1971年、福音館書店から石井桃子さんの訳で刊行を開始しました。当時、文庫判の絵本シリーズの構想を練っていた私には、日本語版「ピーターラビット」絵本シリーズの成功は、「レディバード絵本シリーズ」との出会いとともに、とてもはげみになったものでした。この2つの絵本シリーズの版元「フレデリック・ウォーン社」「レディバード社」共に、現在は「ペンギンブックス社」の一事業部になっているのには、何か因縁めいたものを感じてしまいます。

たまには子どもと添い寝をしながら、こんなお話を聞かせてあげましょう。 [おもしろ民話集 13]

むかし、あるところに、意地の悪い大男がすんでいました。でも、その大男の家の庭には、春になると美しい花がいっぱいに咲きました。

あるときのこと、大男は遠くの町へでかけて、家をるすにしました。するとそのあいだに、おおぜいの子どもたちがやってきて、美しい庭で、楽しくあそびました。ところが、町からかえってきた大男は、これを見ると、たいへんおこりました。そして、子どもたちを庭から追いだすと、庭のまわりに、見上げるほど高いへいをつくりました。それだけではありません。へいの外に 「この中に入るな」 という、立てふだをたてました。

ところがつぎの年、寒い冬がすぎて、もうすっかり春になったというのに、大男の家の庭には、いつまでも冬がのこっています。花も咲きません。小鳥も飛んできません。あたたかい風もふいてきません。花も、小鳥も、風も 「この中に入るな」 と書いた立てふだを見て、にげだしてしまったのです。

「春のやつ、ここにだけ、どうしてやってこないのだ」 大男は、寒い庭に立って、ブルブルふるえながら、おこりました。でも、いく日かたって、高いへいを見あげたとき、ふと、立てふだのことに気がつきました。「そうか、そうだったのか」 大男は、立てふだを、ぬきとりました。そして、しめきっていた門も、いっぱいに開けました。

さて、つぎの日の朝。大男は、子どもたちの声で、目をさましました。庭をのぞくと、おおぜい子どもがやってきて、木のぼりをしてあそんでいます。でも、たったひとりだけ、木にのぼれなくて泣いている子がいます。大男は、庭へおりていきました。泣いている男の子を、木にのぼらせてやろうと思ったのです。

ところが、大男を見つけた子どもたちは、いっせいに、木からとびおりて、にげだしました。残っているのは、泣いていた男の子だけです。大男は、その男の子をそっとだきかかえて、木にのぼらせてやりました。そして、やさしい声でいいました。「これから、この庭はおまえたちのあそび場だよ」 すると、どうでしょう。木の枝にパッと花が咲いたではありませんか。庭にも美しい花が咲きました。小鳥のさえずりもきこえてきました。さっきにげた子どもたちも、みんな、もどってきました。

大男はこの日から、すっかりやさしい人間になりました。庭のまわりの高いへいも、すっかり、こわしてしまいました。大男の家の庭は、子どもたちの天国です。春だけではありません。あつい夏も、寒い冬も、やっぱり天国です。泣いていた子どもを木にのぼらせてやったときから、こんどは春が、庭から立ちさらなくなったのです。

それからのちの大男の家の庭は、1年じゅう、美しい花と、かわいい子どもたちの声と、大男の笑い声でいっぱいでした。

こうすれば子どもはしっかり育つ「良い子の育てかた」 52

乳のみ児を背負い、もう一人3才くらいの子を連れた母親が電車に乗りこんできました。車内の席はすっかり埋まり、すいているところはありません。すると、若い男の人が 「どうぞ」 と声をかけて席を立ちました。ところが、その母親はうなずく程度に頭を下げたと思うと 「あら、よかったね、おじさんが代わってあげるって」 と言いながら、3才くらいの子どもをすわらせました。自分は立ったままです。

これは乗り物の中でよく見かける光景ですが、見ているだけで腹が立ってしまいます。一つは 「赤ちゃんをおぶって大変だろう」 と思って席を代わってくれた人に対する、この母親の無神経さへの腹立ちです。もう一つは、子どものかわいがり方に対する腹立ちです。

こんなときは、もしも、子どもがすわろうとしても、それをきっぱり制し 「お母さんが赤ちゃんをおぶっているから、代わってくださったのよ」 と子どもは立たせておく──これが正しいしつけというものではないでしょうか。少なくとも、代わってくれた人への礼儀として、まず自分が座り、子どもがぐずってきたら交代するくらいの心配りをしてほしいものです。

今日9月7日は、「宮本武蔵」「新・平家物語」「新書太閤記」など人生を深く見つめる大衆文芸作品を数多く生み出して、国民的作家として高く評価されている吉川英治が、1962年に亡くなった日です。

『鳴門秘帖』や『宮本武蔵』は、今も若い人から老人まで、はば広い人気があります。その作者吉川英治は、1892年神奈川県に生まれました。父は会社を経営していたので、小さいときには家も豊かでしたが、英治が11歳のとき、父は事業に失敗しました。ある日、学校から帰ってきた英治に、父が言いました。

「もうこんな大きな家に住めなくなった。おまえは長男だから、1ばん先にはたらきにゆけ、いいな」

「はい」と答えたものの、英治は悲しくて大声で泣きだしてしまいました。

それからの英治は、家の生活を助けるためにいろいろな職業につきました。印章店の小僧、少年活版工、税務監督局の給仕、雑貨商の店員、横浜ドックの工員などです。それでも家の生活は苦しく、何も食べない日さえありました。ドックの工員もほんとうは20歳以上というきまりでしたが、18歳の英治は20歳とうそを言って入ったのです。ドックの仕事はつらく危険なものでした。それでも、気のいい親切な仲間のあいだで英治はがんばりました。

しかし、船腹にペンキをぬっていたある日、乗っていた板もろとも12メートルの高さから、ドックの底につい落してしまいました。気がついたのは病院のベッドの上です。

幸い命はとりとめ、退院の日もあと数日となりました。

「英ちゃん、長いあいだよくはたらいてくれたね。もう、おまえは、自分の道を進まなければ……」

母は英治が東京へ出たいと思っているの知っていたのです。

19歳で上京した英治は、細工師の仕事を学びながら、小説を書くようになりました。そして講談社のけん賞小説に3編が同時に当選するというような才能を示しました。それから次つぎと書いた小説によって、英治は大衆小説の花形作家として認められるようになりました。

『宮本武蔵』『新書太閤記』『新・平家物語』が吉川英治の代表作です。少年少女のための小説としては、『神州天馬侠』『天平童子』などがあります。とくに、人生のさまざまな苦難をきりひらき、ひとすじに剣のみちにはげむ青年武蔵の姿をえがいた『宮本武蔵』はくりかえし映画や劇にもなっています。それは、宮本武蔵が遠い歴史上の人物であっても、現代に生きる人びとの心につよい共感をあたえるからにほかなりません。

吉川英治は68歳のとき、文化勲章をうけ、その2年ごにこの世を去りました。

なおこの文は、いずみ書房「せかい伝記図書館」(オンラインブックで「伝記」を公開中)36巻「宮沢賢治・湯川秀樹」の後半に収録されている14名の「小伝」から引用しました。近日中に、300余名の「小伝」を公開する予定です。ご期待ください。

今日9月6日は、「東海道五十三次」などの風景版画の傑作を生み、フランス印象派の画家やゴッホ(広重の作品を3点以上模写)、ホイッスラーらに大きな影響を与えた、安藤(歌川)広重が1858年に亡くなった日です。

安藤広重は、江戸時代の末期に活躍した浮世絵師です。四季おりおりの風景を心から愛し、ここに住む農民や町人のくらしぶりをありのままに表現しました。数かずのすぐれた風景版画はたくさんの人びとに親しまれ、世界にも広く知られています。

広重は幼名を徳太郎といい、1797年、江戸(東京)の下町に生まれました。安藤家は代だい、定火消同心という、江戸城や町内の消防を家業にしてきました。小さいときから絵が大すきで、14歳になると、浮世絵師の歌川豊広を訪ねて弟子入りしました。将来はりっぱな絵師になるつもりだったからです。豊広は、少年徳太郎が並外れた才能の持ち主であることを見ぬき、自分の名前の1字をとって、広重と名のらせることにしました。

広重は、はじめ役者絵や美人画などをかいていましたが、狩野派の絵や水墨画の画法、西洋画の遠近法などを勉強しているうちに、やがて風景画の力をいれるようになりました。

広重が34歳のころです。葛飾北斎の『富嶽三十六景』が大評判となりました。広重はこの絵に強いしょうげきを受けました。大胆な構図と独特の色の使い方で、風景をみごとにえがいていたからです。

その広重にも、まもなく名声をあげる機会がおとずれました。江戸から京都までの東海道を往復することになり、このときのスケッチをもとに『東海道五十三次』を発表したのです。東海道にある53の宿場に、日本橋と京都三条大橋を加えた55枚のつづき絵でした。夕ぐれ近く宿場をめざして道をいそぐ旅人の姿、風呂からあがったばかりの旅人が2階の手すりにもたれてすずんでいる風景、道をゆく飛脚や馬をひく馬子たち、雪げしきや富士山の美しいながめ、黄いろい稲の穂波……。次つぎと移りかわる土地の風景を、きめこまかく描いた風景版画は、たちまち江戸の町で評判になりました。こうして、版画とともに、無名だった広重の名はいちどに広まったのです。

広重は、そのごも各地に旅をして『近江八景』『京都名所』『金沢八景』『木曾街道六十九次』などの名作をのこしました。特に自分の生まれた江戸の風景はおおく『東都名所』『江戸近郊八景』『名所江戸百景』など100種類以上もあります。江戸の町とそこに住む人びとの生活、そして旅を愛した広重は、61歳で亡くなるまで絵をかきつづけました。

広重の絵は、北斎の絵とともに、ホイッスラーをはじめフランスの画家たちに大きな影響を与えています。町人の絵として評価の低かった浮世絵に高い価値を認めたのは、西洋人でした。

なおこの文は、いずみ書房「せかい伝記図書館」(オンラインブックで「伝記」を公開中)30巻「渡辺崋山・勝海舟・西郷隆盛」の後半に収録されている7名の「小伝」から引用しました。近日中に、300余名の「小伝」を公開する予定です。ご期待ください。

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