児童英語・図書出版社 創業者のこだわりブログ

30歳で独立、31歳で出版社(いずみ書房)を創業。 取次店⇒書店という既成の流通に頼ることなく独自の販売手法を確立。 ユニークな編集ノウハウと教育理念を、そして今を綴る。

2007年09月

もう、7、8年も前のことです。いずみ書房の応接室のソファが、あまりにも長く使いすぎたため、革がヒビ割れし、中からアンコが出てきてしまいました。お客さんを迎える大事なソファなので、すぐに新しいものを見つけなくてはなりません。そこで、日本最大の家具展示場のある有明の「大塚家具」へ出かけました。急を要するため、私の直感を頼りに、即決する覚悟でした。

日本最大というだけあって、品揃えはさすがです。尾花さんという中年の女性担当者がついて案内してくれます。まず、数十点もあるソファをざっと見て周り、気になった数点にしぼりこみ、そして最終的に、黒革の品格あるソファーセットを購入しました。商品はまもなく会社に届いて、みんなからの評判もよく、満足しておりました。

1か月後、当日の担当者だった尾花さんから、次のような手紙をもらいました。
「この度は、お買い上げいただきまして誠にありがとうございました。
オフィスに置かれていかがでしたでしょうか。
お買い上げいただきましたソファーとアームチェアは、有名な芸術家であり、建築家でもあるル・コルビュジエのデザインによるものです。コルビュジエは、1887年スイスに生まれました。芸術家、建築家としてパリで活躍し、「家は住むための機械である」と主張したことはよく知られています。無駄をはぶいた機能的で幾何学的な建築を追求し、住宅に置かれる家具についても、建築空間を構成する重要な要素と考えました。
お買い上げの商品は、1928年にデザインされたもので、「グラン・コンフォール」(大いなる快適)という名前がついております。単純な構成で、最大の快適を形づくるル・コルビュジエの狙いがうかがえます。
まさに、オフィスびったりのデザインと機能だと確信しております。末永くご愛用いただければ幸いです。
また、何か探されるものがありましたら、ご来館くださいませ。お待ちしております。」

この手紙をもらって、大塚家具という会社の社員教育はさすがだなと感銘し、当社の営業マンも、こういう心構えであってほしいと、研修に使わせてもらってきました。数年たった今も私の手元にあります。

ところで、つい先日の新聞記事やテレビ報道をみてビックリしました。
「ル・コルビュジエの建築を世界遺産に推薦」という見出しがつき、日本では「国立西洋美術館」が唯一のコルビュジエ作品なのだそうで、フランス政府から文化庁や同館に話が持ちこまれたというものです。文化庁によると、仏政府はフランス、スイス、ドイツ、ベルギー、アルゼンチン、インド、日本の7か国計23件の作品について「ル・コルビュジエの都市建築作品」として世界遺産登録を目指している、7か国連盟でユネスコに推薦したい意向……、というものです。

そんな世界的に有名な人のデザインしたものだったとは、私の鑑識眼もまんざらではないとニンマリするとともに、誰もほめてくれないので、自分をほめてあげました。

なお、一昨日(18日)の読売新聞夕刊には、皇后さまが六本木の森美術館で開かれている「ル・コルビュジエ展 建築とアート、その創造の軌跡」を鑑賞されたと、カラー写真入りで紹介されています。

今日9月19日は、俳誌「ホトトギス」や歌誌「アララギ」を創刊し、写生の重要性を説いた俳人・歌人・随筆家の正岡子規が、1902年に亡くなった日です。

柿食へば鐘が鳴るなり法隆寺

柿を食べていると、法隆寺の鐘がゴォーンと鳴ったという、それだけの句です。しかし、静かでもの悲しい秋のようすが、五・七・五の17文字で、みごとに、とらえられています。

この俳句をよんだ正岡子規は,1867年、四国の松山に生まれ、5歳のときに父を失ってからは、母と祖父に育てられました。とくに祖父には、6歳のころから漢学(中国から伝わってきた学問)を教わり、10歳をすぎた子規は、早くも、漢字ばかりの詩をつくって、人をおどろかせるほどになっていました。

12歳で中学へ進んでからも、自分たちの回覧雑誌に、さかんに漢詩を発表しました。ところが、まもなく、政治家をこころざすようになりました。板垣退助らがとなえていた、民主政治を求める自由民権運動に、若い心をもやしたのです。

16歳で中学を退学して東京へでた子規は、つぎの年から大学予備門(のちの第一高等学校)に学び、23歳の年に東京帝国大学(東京大学)へ進みました。政治家への夢をすてて、俳人への道を歩み始めたのは、この青春時代です。のちの文豪夏目漱石と交わり、随筆を書き、和歌や俳諧を学ぶうちに、なかまたちと俳句をつくりあって楽しむようになりました。でも、この青春時代に、すでに、結核でたくさんの血をはいています。

子規は、25歳で大学をしりぞき、日本新聞社へ入って俳諧の話を連載しながら、俳句革新運動を始めました。芭蕉や蕪村の句をのぞけば質が低かった江戸時代までの俳句を、もっと、文学の香りの高いものにしなければいけないと考えたからです。子規のこの熱意は大きな反きょうをよびおこし、古い俳句にしがみついていたおおくの俳人たちの目を、さまさせました。

1895年の3月、子規は、まえの年から始まっていた日清戦争の従軍記者として、大陸へわたりました。しかし、5月、帰りの船の上で血をはいてたおれ、そのごは、脊椎カリエスの身を病床に横たえるようになってしまいました。

俳人子規の花が、さらに大きく開いたのは、これからです。自分の死が近いことを知った子規は、新聞に『歌よみに与ふる書』を連載して、こんどは短歌革新を説き、さらに、自分のけいけんをそのままうつす写生文を書いて文章革新もとなえ、いっぽうでは、新しい自分の句をたくさん生みだしていきました。

痰一斗糸瓜(へちま)の水も間に合はず

これが、病床で『墨汁一滴』『病牀六尺』などの随筆を書き残して、35歳の生涯を終えた、俳人子規の最後の句でした。

なお、正岡子規の作品は、「青空文庫」で、「歌よみに与ふる書」「墨汁一滴」など26点を読むことができます。

この文は、いずみ書房「せかい伝記図書館」(オンラインブックで「伝記」を公開中)34巻「夏目漱石・野口英世」の後半に収録されている14名の「小伝」から引用しました。近日中に、300余名の「小伝」を公開する予定です。ご期待ください。

たまには子どもと添い寝をしながら、こんなお話を聞かせてあげましょう。 [おもしろ民話集 14]

あるところに、まずしい男がいました。男は町まで花を売りにきて、花が売れのこったときはいつも、「乙姫さまにさしあげます」と、川へ花を投げこみながら言いました。

ある日のこと。花を売ってもどってくると、大水で川を渡れません。困っていると、川の中から大きなカメが現れて、背に乗れ、乗れというしぐさをしました。男は、きっと川の向こう岸までつれて行ってくれるのだと思って、大ガメの背に乗りました。ところが、カメが男をつれて行ったのは、乙姫さまの御殿でした。いつも美しい花をくれるので、乙姫さまが、お礼をくれるというのです。

「おまえに一人の男の子をさずける。この子は、鼻はでているし、よだれはたれている。だが、だいじにすれば、おまえの望みはどんなことでもかなえてくれる。いつまでも、かわいがるがいい」 こう言って乙姫さまがくれたのは、「とほう」 という名の男の子でした。

男は、とほうと大ガメの背に乗って、家へ帰ってきました。そしてさっそく、とほうに、たのみました。「おまえが来たので家がせまい、もっと大きな家にしてくれないか」 。とほうは、目をつぶって手を三つたたきました。すると、家は、あっというまに新しい大きな家にかわりました。

男は、また、とほうにたのみました。「新しい敷物がなくてはおかしい。それに、新しい着物も……」 。とほうは、また目をつぶって、手を三つたたきました。どこの部屋にも敷物がしかれ、かごの中は、今まで着たこともないような着物でいっぱいでした。

男は、また、とほうにたのみました。「おれは、お金がない。お金を千両ほどだしてくれないか」 。とほうは、また目をつぶって、手を三つたたきました。すると、千両箱が一つでてきました。男は金貸しになって、村いちばんの大金持ちになりました。

なん年かたつうちに、男は、村じゅうの人から、だんな、だんなと呼ばれるようになりました。そして、毎日のように、あっちの家からも、こっちの家からも招かれるようになりました。ところが、こうなってみると、一つだけ困ったことがありました。とほうが、鼻もよだれもたらしたまま、どこへ行くにもついてくるのです。わからないように逃げだしたと思っても、いつのまにかついてきているのです。

男は、とほうに言いました。「その鼻をかんだらどうだ」 「ときには、よだれをふいたらどうだ」 「きたない着物も着がえたらどうだ」 。でも、とほうは、鼻もよだれもたらしたまま言いました。「この鼻はかめません。よだれはふけません。着物をとりかえることはできません」 男は、なにかうまいものでも食べさせれば、とほうの気も変わると思って、「好きなものはなんだ」 とたずねました。でも、とほうは鼻もよだれもたらしたまま首を横にふるばかりです。

男は、やれやれという顔をして言いました。「おまえには、たいそう世話になったが、もう、ひまをやるから、乙姫さまのところへ帰ってくれないか」 すると、とほうは悲しそうに男を見て、家を出ていきました。ところがその瞬間、家も着ているものも、むかしのままにもどってしまいました。村の人は、もうだれ一人、だんななどとは呼んでくれませんでした。

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「とほうに暮れる」っていう言葉を知っているかな。どうしていいかわからない、こまってしまったなぁ、という時に使います。どうしてこういうようになったかというお話でした。

私の好きな名画・気になる名画 4

名画を語る場合、レオナルド・ダ・ビンチの「モナリザ」を、欠かすことができません。世界一有名な絵といってもさしつかえないほどです。でも、この絵が描かれた年、場所、モデルの名前さえ、正確にわかっておりません。タイトルの「モナリザ」というのも、本人がつけたものでなく、後に、16世紀の伝記作家バザーリという人が著書の中で、モデルはフィレンツェの名士フランチェスコ・デル・ジョコンドの妻リザで、女性に対する尊称「モナ」を付けて命名したということです。そのため、モデル説は実にさまざまです。

monariza.bmp

一例をあげますと、画家晩年の肖像画とモナリザの目・鼻・肩の位置がほぼ同じ比例で描かれているため、本人をモデルに理想の美女をえがいたという説。レオナルドの描いた肖像画デッサンで、横顔がとてもよく似ているマントバ公妃イザベラ・ディスケ説。パトロンだったジュリアーノ・デ・メディチの愛人説、レオナルドの生後すぐに別れた実母説などで、ごく最近でも美術評論家の高草茂氏は「モナリザは聖母マリア」(ランダムハウス講談社刊・6月15日ブログ参照)を著わし、聖母マリア説をとなえています。

いずれにしても「モナリザ」が、神秘的で気品にみちた表情、微笑んでいるようにも、悲しんでいるようにもみえる不思議な魅力に、500年たった今も、たくさんの人々のこころをとらえるためなのでしょう。向かって左側の顔の表情と右側の表情を微妙に描き分ける手法、絵の具を何度も塗り重ねて、人物の輪郭線をぼかす「スフマート」といわれる技法、遠くの風景は手前より、光の屈折によりだんだん青みがかり、うすくなるという「空気遠近法」を駆使するなど、科学者としての研究成果と画家のテクニックを、この絵の制作にすべて出しつくしたものと思われます。

この絵は、パリのルーブル美術館にあります。イタリア・ルネッサンスの代表的な画家でありながら、晩年のレオナルドはイタリアではあまり大事にされず、フランスのフランソア一世に温かく迎えられ、アンボワーズに近いクルー城で、1519年永眠しました。67年の生涯でした。最後まで自分の手元においた3点の絵画のうちの1点が「モナリザ」でした。レオナルドにとっても、もっとも手放しがたい作品だったからに違いありません。

私はこの絵に、1991年、1999年、2006年と3度対面しています。しかし、いつもたくさんの人に取り囲まれ、77cm×53cmの小さな絵なのに、防弾ガラスにおおわれ、人の肩越しで見る絵は、正直いって興ざめなところがありました。作者や美術館に失礼かもしれませんが、よく出来た複製画や、印刷の美しい画集でじっくり鑑賞したほうがよさそうです。

今日9月13日は、世界的な名著 「随想録」の著者として、400年以上たった今も高く評価されているフランスの思想家モンテーニュが、1592年に亡くなった日です。

フランスの思想家、モンテーニュの『随想録』(エセー)は、哲学としても文学としてもすぐれた作品です。豊富な知識と、モンテーニュ自身の生活体験によって書かれたもので、人間の心をするどくみつめています。人間性と人間の生き方を探求したモラリストの文学として、近代の文芸や思想に、えいきょうをあたえました。

モンテーニュは、1533年、フランスのボルドーに近いモンテーニュ村に生まれました。商人から貴族になった家がらで、父はボルドーの市長をつとめた人です。モンテーニュの教育には、幼児期から力がそそがれ、難しいラテン語をわずか2歳ではじめたといわれます。6歳から13歳までギエンヌ学校に学び、そのごは父のような役人になるために、法律を勉強しました。1554年、21歳のモンテーニュは、ギエンヌの裁判所で官職についたのをはじめとして、38歳になるまでつとめをつづけました。

1569年にモンテーニュは、スペインのレーモン・スボンが書いた『自然神学』という本を、ほんやくして出版しました。この本は、人間生活の自然な心をとおして、神の存在を説きあかそうとするもので、モンテーニュの思想の土台になりました。

そしてモンテーニュは、自分自身をみつめ、世の中や人間を深く観察するようになっていきます。人間のおろかさや弱さをすなおにわきまえ、思いあがってきめつけることをせず、つねに物事を冷静に考えようとしました。

モンテーニュは、古めかしい考えがはばをきかす官職の生活に、いや気がさして、ふるさとへ帰っていきました。モンテーニュ村のやしきのなかに「世すて人の塔」を建てて、ひきこもりました。高さ13メートルほどの円筒形の建物です。下から順に礼拝堂、自分だけの寝室、書斎などがつくられ、書斎の窓からは、家族の住む家庭のようすがながめられます。役人をやめて著作生活にはいったモンテーニュは、この塔で10年ちかくも暮らしました。そしてめい想にふけりながら『随想録』を書きつづけ、1580年に2巻をまとめあげました。

『随想録』を出版したよく年の1581年に、モンテーニュはボルドーの市長にえらばれ、4年間つとめました、キリスト教の旧教徒と新教徒があらそいあって、世のなかがゆれうごいていた時代です。モンテーニュは,新教と旧教のあいだをうまくとりもって、ボルドー市の平和をたもつことに力をつくしました。市長をやめると、モンテーニュはふたたび文筆生活にもどり、1588年に『随想録』の第3巻を出版しました。

なお、「ウェブ石碑名言集」というサイトでは、モンテーニュの「随想録」に出てくる簡潔で的確な名言「泣くことも一種の快楽である」「賢者が愚者から学ぶほうが、愚者が賢者から学ぶことより多い」など約70種を味わうことができます。

この文は、いずみ書房「せかい伝記図書館」(オンラインブックで「伝記」を公開中)5巻「ミケランジェロ・レオナルドダビンチ・ガリレオ」の後半に収録されている7名の「小伝」から引用しました。近日中に、300余名の「小伝」を公開する予定です。ご期待ください。

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