児童英語・図書出版社 創業者のこだわりブログ

30歳で独立、31歳で出版社(いずみ書房)を創業。 取次店⇒書店という既成の流通に頼ることなく独自の販売手法を確立。 ユニークな編集ノウハウと教育理念を、そして今を綴る。

2007年09月

私の好きな名画・気になる名画 6

「絵画の黄金時代」といわれる17世紀オランダで、その頂点をきわめたレンブラントの「夜警」は、集団肖像画の革命ともいうべき 363×438cm の記念碑的な大作です。集団肖像画というのは、16世紀からオランダを中心に盛んになったジャンルで、市民隊や同業者組合の幹部らが、自分たちの肖像画を当時の有名画家に描いてもらい、公的な場所に飾りました。たいていの場合、モデルは10人から20人、画家はその全員を満足させなくてはならず、そのため団体さんの記念写真のように描くのが常でした。そうした傾向に対し、レンブラントは「ただ立っているだけではつまらない。肖像画といえどもひとつの芸術だ。見る人により感銘を与えるために、明暗の効果を生かし、ドラマテックな描写を心がけよう」と、敢然と従来の描き方に挑戦をしました。

こうして、完成させたのがこの作品です。まさに舞台の一場面のように、自警団(火縄銃組合)が出動するさまを、銃に弾をこめる者、威勢よく旗を掲げる者、副官に指示をだす隊長の表情などを、生き生きと臨場感あふれる手法を駆使して描いてみせました。しかし、注文主18名(画面上の額に名前が記されています)の中には、顔が後ろ向き、半分しかない、他の人の手にさえぎられているといった苦情がよせられました。そして、男だけの集団になぜニワトリをぶら下げた少女がいるのだ、注文主以外の男がいるのはなぜだ、手前に犬がいるのは何事か等など、1642年の完成時はあまり評判のよいものではなかったようです。たしかに、この少女は誰もが不思議に思う存在で、以来、その解釈をめぐって論戦が繰り広げられています。亡くなったばかりの妻サスキアの面影を描きいれたという説、隊を守る女神的な存在という説、当時は結束を深める「宴会」が組合の人々に重要視されていたため、少女の腰にあるニワトリ(食べ物)と水牛の角(杯)で宴会を象徴しているという説、単に画面の色彩バランスを保つにすぎないという説、注文主である火縄銃組合の擬人像説など実にさまざまです。

そういう論争が起きるのも、それだけ、この絵を高く評価する人がたくさんいるという証拠だともいえましょう。ある高名な専門家は、この絵を世界3大名画のひとつに上げています。

なおこの絵の題名になっている「夜警」は、後世の人の命名で、正式なタイトルは「隊長フランス・バニング・コックと副官ウィレム・ファンライテンブルフの市民隊」というものです。実際は昼間の情景なのに、ワニス(樹脂などを溶かした透明塗料)のぬり重ねのために画面が暗くなってしまったために、誤った名称がつけられてしまいました。1975~76年に修復が行なわれ、見違えるほど明るいものになったということです。

たまには子どもと添い寝をしながら、こんなお話を聞かせてあげましょう。 [おもしろ民話集 15]

いまから200年くらいまえ、越後の国(新潟県) に、良寛という心のやさしいお坊さんがいました。
良寛さんは、山の中ほどの、ひと間きりの小さな家に、ひとりですんでいました。そして、昼のあいだは山をおりて、お経をとなえながら村の家いえをまわり、夜は、風の音や虫の声を聞きながら、本を読んだり、歌をつくったりしていました。

まん丸い月が山の上にぽっかり浮かんだ、静かな夜のことです。たった1枚のふとんを、すっぽりかぶってやすんでいた良寛さんは、へんな物音に目をさましました。ふとんから、そっと頭をだして音のするほうを見ると、ほおかぶりをした、へんな男がいます。どろぼうです。音がしなくなったと思うと、どうほうは、うでぐみをしたまま、へやのすみに、じっと立っています。

「せっかくどうぼうに入ったのに、取っていくものが何もなくてこまっとるわい」
良寛さんは、くすくすっと笑いだしたくなったのを、いっしょうけんめいこらえました。やがて、どろほうは、すっかりあきらめたのか、しのび足で、月の光のさしこむ戸ロのほうへでていきました。ところが、戸口まで行ったどろぼうは、ちょっと考えてから、もう一度へやの中へもどってきました。そして、そっと、ふとんに手をかけました。良寛さんがかぶっているふとんを取っていこうというのです。

「おやおや、このふとんがほしいらしい。家にはふとんもないのじゃろう。小さな子どももいるのかもしれん。よしよし、それでは眠ったふりをしておいてやろうか……」
良寛さんは、うすく目をあけたまま、わざとのどの奥をならして、いびきのまねをしてやりました。どろぼうは、良寛さんの足のほうから、ふとんをひっぱりはじめました。少しひっぱってはやめ、また少しひっぱってはやめ、良寛さんのいびきをたしかめながら、そっと、ひっぱっています。

「ひっぱらずに、はがせば早いのに……。まあいいわい、好きなようにさせてやろう」
良寛さんは、ふとんが、するする、するするとずりおちていくのを、心のなかで 「ほれ、もう少し、ほれ、もう少し」 と言いながらまちました。良寛さんのからだが、すっかり現われると、どうほうは、たぐりよせたふとんをかかえて、戸口のほうへいきました。そして、戸□のところで、なにもかけずにねている良寛さんをふりむき、あとは、月の光のなかへ、かけだしていきました。

「やれやれ、かわいそうな、どうぼうじゃった。はようかえって、ねなされや」
月の光が山にいっぱいです。良寛さんの小さな家にもいっぱいです。良寛さんは、心のなかで 「でも、あの美しい月を取られなくてよかったわい」 とつぶやきながら、両手で顔をつるりとなでて戸をかたりとしめました。

 

こうすれば子どもはしっかり育つ「良い子の育てかた」 53

これは、ある幼稚園の先生から聞いた話です。

父母会の席で、宏美ちゃんという4歳の女の子が、とてもよく気がつき、思いやりがあり、いつも大きな声で 「ありがとう」 と言うので、先生は、その母親に家でのしつけをたずねたそうです。すると、30歳くらいの母親が 「とくに、きびしいしつけなどしていません」 と前置きして、次のように答えてくれたそうです。

「家では、可能なかぎり、どんなことでも手伝わせます。少し無理かなと思うようなことでも、それから、ほんとうは手助けにはならないとわかっていても、手伝わせます。廊下のぞうきんがけでも、ぞうきんをしぼることも廊下をふくことも、全部、わたしといっしょにやらせます。そして、ときどき、半分はわざと、お母さんはほかの仕事で疲れたから宏美ちゃん、やってくれないかなあ、などとたのみます。そして、どんな小さなことでも何かをしてくれたときは、私が、はっきり、宏美ちゃんありがとうと言います。また、おかげで助かったわとお礼を言います。ただ、これだけのことですが、いつのまにか、思いやりのようなことや、ありがとうとはっきり言うことなどを身につけてくれたようです」

とくにしつけはしていないと言われながらも、これ以上のしつけはないのではないでしょうか。「子どもが失敗したときは?」 という問いには、「手伝いの失敗は、どうして失敗したのかなあと言葉をかけて少し考えさせるだけで、とがめません。皿を割ろうが、じゅうたんに水をこぼそうが、これで宏美が何かを学んでいくことに比べれば、なんでもないことです」 と、答えていました。

口先だけで教えたり導いたりするのではなく、母親と子どもが心を溶けあわせたなかで、子ども自身に自分で学ばせていく──この日の父母会は、多くのお母さんがこの母親に学んだようです。

今日9月25日は、江戸後期に長崎のオランダ商館つき医師として来日したシーボルトが、すぐれた西洋医学を広めるも帰国の際に禁じられたた日本地図などを持ち去ろうとしたことで、1829年、江戸幕府から国外追放を申し渡された日です。

シーボルトは、1796年南ドイツにあるビュルツブルクの外科医の名家に生まれ、その地の大学に学びました。医学ばかりでなく、自然科学、博物学などさまざまな学問に興味を持ち、1822年にオランダ東インド会社の外科軍医に任命されて、ジャワ勤務ののち、長崎の出島商館の医師として働くことになりました。まだ、27歳の時です。

当時、鎖国を守る江戸幕府は、外国人はオランダ人のほかは認めず、長崎の出島だけに限っていました。しかし、シーボルトの医術の高さが評判になると、長崎奉行が幕府に願い出て館外にもでられるようになり、やがて長崎郊外の鳴滝に日本人名義で土地と家屋を買い取り、そこを校舎兼診療所にして、講義と治療をするようになりました。これが名高い「鳴滝塾」で、海外の知識に飢えていた青年たちは、こぞって長崎に集まり、シーボルト先生に教えを受けにはせ参じました。たくさんの門人の中に、後に開国論者として蛮社の獄に倒れた高野長英や、小関三英、伊藤玄朴といった人たちがいました。好奇心の旺盛なシーボルトは、日本の地理や歴史、風俗や習慣、動植物の生態などにも興味を示し、シーボルトを慕う門人たちはこぞって研究資料を提供しました。

1826年、シーボルトは将軍徳川家斉に会見する長崎商館長にしたがって、江戸へ出ました。この旅行はシーボルトにとって、日本の各地を広く見学できるだけでなく、日本の自然や人文を実際に研究できるよい機会でした。江戸に3か月、京都と大坂(大阪)に数日とどまっている間に、蘭学者ばかりでなく、オランダや西洋に関心を持つ人たちと親しく会見し、見聞を深めました。とくに幕府の天文方を勤める高橋景保は、熱心にシーボルトのもとに通って、シーボルトの持っている本と伊能忠敬の作った地図などと交換しました。しかし、これが事件の原因になってしまったのです。

1828年8月、シーボルトは任期を終え、帰国間近になったとき、いわゆる「シーボルト事件」が突然おこりました。高橋がシーボルトに、大切な地図などを贈ったことを知った幕府は、江戸と長崎で、関係した幕府の役人や門人数十人をとらえて厳しく罰し、高橋は、牢の中で病死しました。シーボルトは帰国も延ばされ、1年間出島に閉じこめられた上、厳しい取調べをうけました。せっかく集めた研究資料の数々もとりあげられ、提供した門人や知人も獄に入れられたり苦しむ姿を見て、自殺をしかけたともいわれています。

帰国したシーボルトは、大著「日本」をはじめ「日本植物誌」「日本動物誌」などの本を著し、いずれも当時の日本の姿をしっかり記述した書としてヨーロッパの人たちの評価は高く、とくに日本にすぐれた地図があることに驚きました。世界地図の中に「間宮海峡」の名を残したのも、シーボルトだということです。

私の好きな名画・気になる名画 5

もうもうとたちこめる煙を背に、上半身をさらけ出し「自由・平等・博愛」を意味する青・白・赤の三色旗を掲げ、武器をもつ人々を先導する自由の女神。この躍動感あふれる「民衆を導く自由の女神」は、ロマン主義派の代表的画家ドラクロワの代表作で、260×325cm のとても大きな絵です。そして、「フランス革命」を象徴する絵画として教科書にも登場するため、良く知られています。でもこの革命は、バスチューユの監獄に民衆がおしよせた1789年の「フランス革命」ではなく、1830年の「七月革命」を描いた作品です。

フランスは、共和制を確立するにいたるまでに90年近い年月がかかりました。ルイ14世のブルボン王朝を倒した1789年のフランス革命後、第一共和制も長く続かず、ナポレオンが皇帝となって第一帝政が始まり、ナポレオン失脚の後にブルボン王朝が復活しました。ルイ18世に続いて即位したシャルル10世は、報道の自由を制限するなど悪政の限りをつくし、これに反発した市民は怒りを爆発させ、武器を手に蜂起したのが「七月革命」でした。

どちらかというと行動派ではないドラクロワは、この「七月革命」には参加しませんでした。しかし、祖国のために銃を持って戦わなかったかわりに、絵を描くことを決意して、民衆蜂起のありさまを描いたのがこの作品です。フランス国旗の左下、山高帽をかぶって銃を掲げているのがドラクロワ本人だといわれ、ベレー帽の男、幅広ズボン、つなぎの服の人などさまざまな衣服を描くことにより、この革命があらゆる階級や職業の人に支持され、参加していることを表現しました。そして、その中心に「自由の女神」という想像上の神様をすえることによって、聖戦を意味づけたものと思われます。

ドラクロワは、何千点というほどの作品や、デッサンを主とした画帳を60冊も残しています。そして、若い画家に「5階の窓から飛び降りる人を、地面につくまでにスケッチしてしまうくらいの腕がなくては、立派な絵は描けない」というほど、素晴らしい速さで見事な作品を仕上げたようで、この作品の下書きもたくさん残されています。それを見ると、当初「自由の女神」は、正面を向いたり空を見上げたり、さまざまな方向を見ています。最終的に、振り返るように左に顔を向けることにより、絵に大きな広がりを生みだし、男たちを鼓舞する構図となって、完成度の高い名作となったに違いありません。

この絵は、七月革命後にルイ・フィリップを王とする新政府に買い上げられましたが、やがてルイ・フィリップも民衆を弾圧するようになり、絵はリュクサンブール美術館に数か月展示された後倉庫にしまわれ、ドロクロワの手にもどり、第二共和制がはじまった1848年にふたたび展示され、またもどり、政権交代のたびに居場所を変え、ようやくルーブル美術館に常設展示されるようになったのは、1870年「二月革命」により第三共和制がスタートして4年後のことでした。まさに、昆虫が何度も脱皮をくりかえして一人前になるような、フランスの激動する時代を象徴しているようでもあります。

なお最近の調べでは、ドラクロワの父は、ナポレオン執政時代の大使シャルル・ドラクロワですが、実の父親は有名な外交官タレーランであることが明らかになりつつあります。

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