児童英語・図書出版社 創業者のこだわりブログ

30歳で独立、31歳で出版社(いずみ書房)を創業。 取次店⇒書店という既成の流通に頼ることなく独自の販売手法を確立。 ユニークな編集ノウハウと教育理念を、そして今を綴る。

2007年08月

こうすれば子どもはしっかり育つ「良い子の育てかた」 50
 
「うちの子は、負けずきらいで困ります」 という言葉をよく耳にします。ところが 「困ります」 という言葉の裏側に 「そんな強い心を持った子なんですよ」 と言った、むしろ、わが子自慢のにおいが感じられることがあります。

「負けずきらい」 ──たしかに強さを秘めた言葉です。

でも、子どもにこの言葉をあてはめる場合、十分に見きわめなければならないことがあります。それは、子どもの負けずきらいの中には、「人よりも自分がほめられたい」 「人よりも自分が認められたい」 「人よりも自分が人気ものになりたい」 「人よりも自分が注目されたい」 などという見栄っぱりなものに支えられていることが少なくないからです。
つまり、これは自分を人よりよく見せようとする淡い願望の表れにすぎず、ほんとうの意味での 「負けずきらい」 ではありません。

口先だけで人に負けることをきらう子どもは、やがては、わがままな人間として人にきらわれるようになったり、その果てに自分から落ちこんでしまうことにもなりかねません。
[人に負けるのがいやなら、人以上に努力する]──これがあれば、かりに人に負けたとしても、ただ人に負けたのを悔しがるのではなく、自分の努力が足りなかったことをこそ悔しがるようになり、自分に勝った人間を憎んだりうらやんだりするのではなく、その人間を尊敬するようにさえなります。これが、ほんとうの 「負けずきらい」 だと思うのですが、いかがでしょうか。

私の好きな名画・気になる名画 1

スペインの首都マドリッドに「プラド美術館」があります。「ラス・メニーナス」(女官たち)は、たくさんある大作の中でもひときわ大きな作品(3.18m×2.76m)です。はじめてこの絵に対面したのは、昨日記した通り、1987年の海外旅行の時でした。当時はまだ、旅行会社が主催する添乗員の同行してくれるツァーというものがなく、いずみ書房の営業コンテストで優秀な成績を残してくれた人たち7名を連れて、私が添乗員的役割を担ったはじめての海外旅行でした。その悪戦苦闘の旅行のてんまつにつきましては、後日稿を改めて記述することにします。

私がこの作品に出合った時は、ベラスケスの代表作という程度の知識で、詳しい背景をあまり知りませんでした。でも、見た瞬間、何と不思議な絵だろうという強い印象を受けたことは事実です。この絵を描いたベラスケスが左端にいて、真ん中に少女とお付の若い2人の美女、右には中年の女性の何とも場違いな大きな顔、それでいて群像たちには何ともいえないあたたかさと調和があります。今から考えて見ますと、この絵との出会いが西欧美術の魅力にとりつかれた瞬間だったといえるかもしれません。

帰国後、いろいろな画集を買いこみ、たくさんの美術書を読んでみてわかったことは、この作品がベラスケスの代表作というだけでなく、美術史上でも記念碑的な作品だと知ってびっくりしました。それは、次のような理由からです。
まず、中央に立っている少女は5歳の王女マルガリータ。ベラスケスが、マルガリータの父親である国王フェリペ4世と、母親の皇后マリア・アンナを描いているアルカザル宮殿内の画室に、王女とそのお付の人たちが訪ねてきたところを描いたというめずらしい構図の絵なのです。王と皇后は画面の外、ちょうど私たちがこの絵を見ている位置にあって、その姿はマルガリータ王女の左上にある鏡に映っています。つまり、この絵は王様の位置から、王の目に映った光景を、絵を描いているベラスケスが描くという、じつに斬新な構図だということがわかります。

この絵のタイトルとなっている女官たちは、マルガリータ王女の左にいるマリア・アウグスティナ・サルミエントと右のイザベラ・デ・ベラスコ、さらに右にいる顔の大きな女性は小人の道化マリバルボラとお遊び相手の少年ニコラス・デ・ペルトゥーサ。ペルトゥーサは寝そべっている大きな犬の背中に足を乗せています。この人たちは、この絵のおかげで350年以上たった今も、名前までしっかり記録されているのは興味深いところです。さらに後ろの方に付き添いの老女と廷臣が話していて、ずっと遠くにいる廷臣が、扉を開いて光を入れている様子まで、まるでスナップ写真のように、ごく自然な日常の一瞬として見事に、そして的確に描かれています。これが、ベラスケスの天才といわれるゆえんなのでしょう。

ここに描かれているマルガリータ王女は、15歳の時神聖ローマ帝国(オーストリア)のレオポルド1世に嫁ぎ、21歳の若さで死去しています。ベラスケスはマルガリータの3歳から8歳までの肖像画を3枚描き、見合い写真がわりにウィーンに送られました。これらの3枚とも名画の誉れ高く、「ウィーン美術史美術館」の目玉になっています。
そのためかこの絵は、ベラスケスがマルガリータ王女を描いている時に、国王夫妻が部屋にはいってきた瞬間を描いたという説もありますが、王宮内の生活のひとこまを描いたということで、どちらでもよいのかもしれません。

2003年10月、私はこの絵と16年ぶりに再会しました。阪急交通社主催の「スペイン大周遊」というツァーに、肺がんを再発した妻を連れ、兄夫妻と4人で参加しました。万一ツァーを途中で離脱せねばならない最悪の事態に備え、メキシコに7年半暮らしたことのある、スペイン語の堪能な兄夫妻がいっしょなら心強いと思ったからでしたが、なんとか8日間を持ちこたえることができました。
私たちは、「プラド美術館」をじっくり時間をかけて鑑賞したいため、マドリッド郊外にあるドンキホーテに出てくるような「風車見学」をキャンセルし、ツァーとは別行動をとりました。私は妻を車イスに乗せ、たくさんの名画を堪能しました。そしてなつかしいこの絵の前に立ちました。妻は私の解説に大きくうなずき「いい絵だね。この中で一番好き」とつぶやいたのを思い出します。それから1年も経たずに亡くなってしまいましたが、この絵を見せてあげたことは良かったと今も思っています。

私の趣味は何かと聞かれれば、名画・名曲鑑賞、作曲(といってもギターで和音を弾きながらメロディをこしらえる程度)および読書といってよいでしょう。

名画の鑑賞は、高校も大学も自宅から上野を経由したこともあり、上野公園にある国立西洋美術館にはよくでかけたものでした。美術館の庭には、ロダンの代表作「考える人」「地獄の門」「カレーの市民」などが飾られ、展示室にあるたくさんの作品を含めロダンの彫刻作品はとても充実しているように思いました。しかし、絵画ではルノアール、モネ、クールベ、マネ、ゴッホ、ドラクロアら著名画家の作品もありましたが、ほとんどが小品でしたので、強く魅かれる絵というものは、あまり多くありませんでした。

名画鑑賞にめざめたのは、ちょうど20年前の1987年、はじめてロンドン、ローマ、マドリッドを訪れた時でした。ロンドンではほとんど時間がとれず、ナショナル・ギャラリーも大英博物館も見ることはできませんでしたが、ローマの「バチカン美術館」で延々と2キロも続くとてつもない規模の美の回廊と「シスチナの礼拝堂」であのミケランジェロの天井画・壁画の大作に出合って度肝をぬかれたこと、マドリッドの「プラド美術館」で、ベラスケスの「ラス・メニーナス」やゴヤの「裸のマヤ」「着衣のマヤ」などに出あって、強烈なインパクトを受けて以来といえるかもしれません。

そこで、これからしばらく毎週1回程度、「私の好きな名画・気になる名画」 というテーマで、1点を紹介していきたいと思います。絵画鑑賞は出会ったときの印象が大事で、あまり絵の背景とか絵をどう解釈するかといった事柄は不要だという人たちがいます。でも、私の名画鑑賞がどんどん高じてきたのは、絵の背景を知ることによっていっそう深まってきたといって過言ではありません。そんな点をお含みの上、おつきあいをいただければ幸いです。

なお、名画の画像の多くは、ネットの「サルバスタイル美術館」にリンクさせてもらう予定です。

こうすれば子どもはしっかり育つ「良い子の育てかた」 49
 
子どもというのは、道を歩いていて、ちょっとした土の山があれば登りたがり、穴をみつければわざと足を入れてしまうほど、好奇心が旺盛です。

こんなときの子どもに対する母親の態度は、およそ2つの型に分けられます。
1つは、「だめでしょ」 「あぷないでしょ」 「けがでもしたらどうするの」 などと言って、制止し、保護するタイプ。
2つめは、「そう、そこへのぼってみたいの」 「ガンバッテやってみよう」 などと、子どもの意思に寄りそい、注意すべきことだけを教えて、あとは、子どもにできるだけ自由にふるまわせるタイプ。

これを見ていて、いつも思うことがあります。それは、子どもにとって、どちらが幸せなのだろうかということです。
前者はきっとケガもなく、失敗も少ないでしょう。一方、後者は生キズがたえず、失敗も多いことでしょう。
一見、ケガもなく失敗も少ないというのは、理想的にみえるかもしれませんが、はたしてそうでしょうか。
前者は小さなケガはなくとも、運動神経の発達にブレーキをかけてしまい、それは大きなケガにつながりかねません。
生涯のキズ、心のキズにつながるようなケガには注意しなければなりませんが、それ以外のスリキズ程度のケガはおそれる必要はありません。むしろ、進んで冒険をさせ 「小さなケガが大きなケガを防ぐ」 ぐらいの心の余裕をもって、子どもと接っしてみてはいかがでしょうか。

失敗を防ぐことに努めるのではなく、失敗しながら学び成長していく、子どもの姿を見守っていきたいものです。

今日8月20日は、江戸時代の末期、長州藩に非正規軍「奇兵隊」を組織して幕府軍と戦った志士・高杉晋作が、1839年に生まれた日です。

新しい日本の夜明けをひらいた明治維新にいたる道のりのなかで、長州藩(山口県)のはたした役割は大きなものでした。幕府をおいつめるたたかいに、大胆に、しかも細心の戦略をねって第一線で活躍した長州藩の中心的志士が、高杉晋作です。

晋作は、1839年、長州藩の萩城下に150石どりの格式高い高杉家の一人息子として生まれ育ちました。18歳で藩校明倫館に学びましたが、型どおりの教育に満足できず、父の反対をおしきって吉田松蔭の松下村塾に入りました。松蔭の国の将来をうれい、生きた学問の大切さを知らされて目をさまし、久坂玄瑞と並んで松下村塾の双へきといわれるほど成長していきました。しかし、その松蔭も、1859年尊皇攘夷の志士たちを弾圧した「安政の大獄」にたおれてしまいました。

「先生、わたしがきっと幕府をたおし、あだをうちます」

晋作は、強く心にちかいました。それからの晋作は、明倫館の舎長になったり、長州藩の世つぎである毛利定広の世話役として江戸にのぼったりしましたがあきたらず、1862年幕府の使節にしたがって清国(中国)の上海に視察旅行をしました。そこで、中国人が欧米人にこき使われている様を見た晋作は、攘夷よりも倒幕へと、考えを変えていきました。しかし帰国後、長州藩は晋作の意見をきこうとせず、上の役人にとりたてようとしたためことわり、10年間の暇を願い出てまげを切りました。

そのころ長州藩では、攘夷論がもえあがり、1863年下関海峡を通る外国船を次つぎに砲撃しました。ところが攘夷の成功を喜ぶ間もなく、アメリカ、フランス、イギリス、オランダの軍艦の逆しゅうにあい、下関市街は破かいされ、おおくの死者を出しました。長州藩にとってこの敗北は大問題でした。

「この窮地をすくえるのは、高杉晋作をおいて他にない」

藩の重臣たちの懇願に晋作は立ちあがり、農民や町人らを集めて奇兵隊を組織しました。この奇兵隊がよび水になって、郷土防衛の意気あがる諸隊が次つぎに結成されていました。

晋作が他の藩にまで名をとどろかせたのは、1864年イギリスなど4か国の連合艦隊が下関に攻げきしてきたのち、その講和条約に長州藩代表として、立派に大役をはたしてからです。

やがて長州藩が討幕攘夷論をかかげると、全国の志士がぞくぞく集まってきました。これに対して幕府は長州征伐をきめようとしていました。幕府に従おうと弱腰になった藩政府に対抗した晋作は、1866年全藩軍を指揮して幕府軍に勝利しました。しかしよく年、晋作は維新を目前にして病死してしまいました。

なおこの文は、いずみ書房「せかい伝記図書館」(オンラインブックで「伝記」を公開中)32巻「伊藤博文・田中正造・北里柴三郎」の後半に収録されている7名の「小伝」から引用しました。近日中に、300余名の「小伝」を公開する予定です。ご期待ください。

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