児童英語・図書出版社 創業者のこだわりブログ

30歳で独立、31歳で出版社(いずみ書房)を創業。 取次店⇒書店という既成の流通に頼ることなく独自の販売手法を確立。 ユニークな編集ノウハウと教育理念を、そして今を綴る。

2007年08月

昨日のブログで、イタリア・フィレンツェの「ウフィツ美術館」にある、ボッティチェリの名画「プリマベーラ」(春)を紹介しましたが、この絵について調べているうちに、実に興味深いことが判りました。そのいくつかを記してみることにします。

(1) 「ウフィツ美術館」の名称の意味
この絵を所蔵している「ウフィツ美術館」という名称のことですが、このイタリア語の「ウフィツ」は、英語の「オフィス」(事務所)です。昔、司法・行政の執務室だったことからこの名前になったそうです。(おっと、これは以前ブログに書いたかな?)

(2) ボッティチェリは本名ではない
ボッティチェリの本名は、アレッサンドロ・ディ・マリアーノ・ディ・バンニ・フィリペーピ。あんまり長くて舌をかみそうですね。名前のアレッサンドロは省略されていつのまにかサンドロになったようです。それから、ボッティチェリというのは「小さい樽」の意で、ボッティチェリの兄さんが太っていたためにそのあだ名がつき、そのうち家族じゅうでボッティチェリを名乗りだしたということです。

(3) ボッティチェリはレオナルド・ダ・ビンチと同じ工房にいた
ボッティチェリは、「モナリザ」で有名なレオナルド・ダ・ビンチより8歳ほど年上です。二人が、フィレンツェの「ベロッキオ工房」にいたことは意外に知られていません。工房というのは、先生と弟子たちが一つ家に家族のように暮らし、ベロッキオ先生の請け負った仕事をみんなで協同して仕上げるところです。ボッティチェリはレオナルドの兄貴分として、おたがいの腕を競い合っていたと思われます。

(4) 「ビーナス」は男性器から生まれた
「プリマベーラ」と同じ展示室に、対になるように、ボッティチェリのもう1枚の名画「ビーナスの誕生」が飾られていて、こちらも「プリマベーラ」と人気を二分している見事な作品です。「ビーナスの誕生」のビーナスは、生まれたばかりの裸身で描かれています。ビーナスは、オリンポス12神の一人、美と愛の女神ですが、神話によりますと、ビーナス誕生までのいきさつは次の通りです。

カオス(混沌)から最初に生まれたのが大地の女神ガイアでした。ガイアは愛の神エロス、暗黒の神エレボス、天の神ウラノス、海の神ポントスなどを生みます。それからガイアはエロスの働きで、ウラノスと結婚して12人の子どもを生みます。ところが、ウラノスは子どもたちを可愛がりません。そこでガイアは「可愛い子どもたち、おまえたちの誰でもいいから、ひどいお父さんに罰を与えてちょうだい」と、のこぎりのような刃のついた鎌を手に言います。「私がやります」といったのは末弟のクロノスでした。そしてクロノスはガイアに言われた通り、ウラノスの性器を鎌で切り取ってしまいました。神は不死ですから、海に落ちたオチンチンは長い間地中海をただよい、キプロス島に漂着。肉塊から泡が湧いて出て、何とまばゆいばかりのビーナスの裸身があらわれました。このビーナスが誕生する瞬間を描いたのが、ボッティチェリの「ビーナスの誕生」なのです。

(5) 「春」に描かれている植物は500種以上
「プリマベーラ」(春)は1981年に1年間かけて修復されました。500年という途方もない時間の流れのなかで黒ずみ茶褐色に変色していた絵は、みちがえるほど美しくよみがえりました。人々が驚いたのは、絵の前面、美女たちの足もとに描かれた豊富な植物に満ちている野原だったそうです。これらの植物をこまかく調べた学者のグループがいて、およそ240種の花の咲いていない植物、190の花の咲いている植物、33種が想像上のもので見わけるのが難しく、19が判別不可能だったと報告書に記したそうです。そして、これらの植物の9割は、フィレンツェ周辺の野や林に自生しているということは、ボッティチェリの自然観察の鋭さを物語っているとともに、これらを調べ上げた研究者たちのこだわりにも感銘してしまいます。

私の好きな名画・気になる名画 2

ボッティチェリ「プリマベーラ」(春)は、イタリア・フィレンツェの「ウフィツ美術館」にあり、2.03m×3.14m の大きな絵です。フィレンツェは、ルネッサンスが花開いた都市としても有名で、14世紀末から16世紀始めころまで、都市国家フィレンツェの君主として「メディチ家」は隆盛を誇っていました。
この絵の注文主はメディチ家のロレンツォ・イル・マニーフィコ、通称「豪華王」で、この人の時代がメディチ家の黄金時代といわれています。1482年に、豪華王のまたいとこに当たるロレンツィーノの結婚記念に、当時37歳のボッティチェリに依頼したものです。ボッティチェリは精魂こめて制作に取り組み、まさに結婚をたたえる絵による「愛の讃歌」として仕上げました。そのため、季節の春、愛や結婚にまつわるあらゆる要素をとりこんだ [愛の劇場] といった趣です。じつに躍動的で明るく、しかも幻想的で気品に満ちあふれた絵だといってよいでしょう。

中央の舞台にいるのはビーナス。古代ギリシア・ローマ神話の代表的な女性で、愛と美を象徴する女神です。そしてビーナスの右側の3人のグループと、左側の3人の美女のグループに大きく分かれます。

右の3人のグループは、実は2人で、春の風である西風の神ゼフュロスが、大地を表すニンフのクロリスをつかまえようとしています。そして二人は結びつき、クロリスが花の女神フローラに変身する瞬間を描いたところです。クロリスの口からこぼれた花が、フローラの花の模様になっていることでもわかります。「春」の到来は、人生における春「結婚」を意味しているのに違いありません。

左側の手をつなぎあうのは三美神。左から、大きなブローチをして髪や衣装が乱れている「愛欲」、背中を見せ質素な衣装で端正な顔立ちの「純潔」、小さなブローチをつけた「美」はビーナスのに近くにいて、「愛欲」と「純潔」の手をとって統合するようなしぐさをしています。まさに、結婚を暗示しているといってよいでしょう。

左端の男性は、神々の使者であるマーキュリー。翼のついたサンダルをはき、右手に2匹のヘビのからみついた杖を持っています。2匹の争うヘビをこの杖で引き離したということで平和を象徴し、ビーナスの庭に侵入する雲を払っていると解釈する説が有力です。

ビーナスの上で目隠しをして[愛の矢]を射ようとしているキューピッドは、三美神のうち、まだ愛を知らない「純潔」の心臓をねらうことで、これも「結婚」を暗示しています。

私はこの絵に2度対面しています。1998年と2001年のイタリア周遊旅行でフィレンツェを訪れた時でしたが、2001年の時は妻と同行しました。妻は「美術館としては、パリのオルセー美術館が一番好きだけど、好きな絵を1枚あげろといわれれば、この [春] だわ」とよく口にしていました。
妻は亡くなる前に小金井市にある「桜町病院」のホスピスに90日間お世話になりましたが、2004年6月、はじめてホスピス棟を訪れたとき、ホスピスの玄関上の壁面に、この「春」の原寸大の複製画が飾ってあるのに気がつきました。検査入院ですぐ家に帰るつもりだったのが、ホスピタリティあふれる医師や看護師の人たち、リゾートホテルとみまがうばかりの環境に大感激し、ここを訪れるまでは自宅で逝きたいといっていた前言を取り消したのには、この絵の存在もあったのかもしれません。

今日8月29日は、詩人、劇作家、エッセイストとして活躍し、ノーベル文学賞を受賞したメーテルリンクが、1862年に生まれた日です。

「病気のむすめのために、青い鳥をさがしてきておくれ。青い鳥さえあれば、あの子はしあわせになれるのだからね」

クリスマスの前の晩、貧しい木こりの息子チルチルと妹のミチルは、魔法使いのおばあさんにたのまれ、犬やネコのほか、光の精や水の精などのふしぎなお供をつれて、夢の中の世界へ青い鳥をさがしにでかけます。

しかし、思い出の国へ行っても、幸福の国へ行っても、未来の国へ行っても青い鳥はみつかりません。やっと青い鳥をつかまえたと思うと、すぐ色がかわってしまいます。

やがて、朝になり、ふたりは目をさましました。するとどうでしょう、青い鳥は、木こり小屋の鳥かごの中にいるではありませんか。ほんとうの青い鳥(しあわせ)は、すぐそばの、自分たちの生活のなかにあったのです。

これは、モーリス・メーテルリンクという人が書いた『青い鳥』のあらすじです。はじめは「幸福とはなにか」を問いかけた、大人のための劇でしたが、メーテルリンク夫人が『子どものための青い鳥』に書きなおしてから、世界じゅうの子どもたちにもしたしまれるようになりました。

1862年、ベルギーに生まれたメーテルリンクは、美しい自然にかこまれた静かな別荘で、文学や詩を楽しむ、めぐまれた少年時代をすごしました。

父が法律家だったため、自分も大学で法律を学んで弁護士になりました。しかし、ほとんど仕事をしないうちに、文学への夢を追いもとめてパリへとびだしてしまいました。そして27歳のとき、詩集『温室』と戯曲『マレーヌ王女』を発表して、メーテルリンクはたちまち有名になりました。

「人間は、詩や運命をどのように見つめながら生きていけばよいのだろうか」

たくさんの作品を生みだしながら、メーテルリンクは考えつづけました。『青い鳥』のなかにも「どんな運命をせおっていても、幸福は自分でつかもう」という考えが描かれています。

昆虫や動物の命についてもすぐれた本を著わし、『貧者の宝』『英知と運命』などの論文には1911年、ノーベル文学賞がおくられました。

メーテルリンクは、86歳で世を去りました。
 
しかし『青い鳥』はいまも読みつがれ、自分自身の幸福をさがしもとめている世界の人びとに、1日1日を清らかな心で生きぬくたいせつさを、やさしく語りかけています。
 
なおこの文は、いずみ書房「せかい伝記図書館」(オンラインブックで「伝記」を公開中)14巻「エジソン・ゴッホ・シートン」の後半に収録されている7名の「小伝」から引用しました。近日中に、300余名の「小伝」を公開する予定です。ご期待ください。

たまには子どもと添い寝をしながら、こんなお話を聞かせてあげましょう。 [おもしろ民話集 11]

昔ある村に、2か月も3か月も雨の降らないことがありました。

そんなある晩のこと。ひとりの少女が木でできたひしゃくを持ち、水をさがし歩いていました。重い病気になったお母さんが「死ぬ前に、ひと口でもいいから水を飲ませてもらえないでしょうか」と、か細い声で神様へお願いしているのを聞いたからです。

どんなに水をさがしても、どこにも見つかりません。少女はつかれきって、道ばたにすわりこんでしまいました。空はよく晴れて、月は輝き、星もキラキラまばたいています。これでは、当分雨がふってくれそうにありません。少女はいつのまにか眠ってしまいました。目がさめたときには、月は真上にのぼっていました。あわてて、少女は立ち上がり、ひしゃくに手をのばすと、何ということでしょう。ひしゃくの中にきれいな水が入っているのです。

もう何日も水を飲んでいなかった少女は、思わず口元まで持っていきました。その時、お母さんのことを思い出しました。(お母さんが待っているんだわ。早く飲ませてあげなくては) と少女は思い直し、大切な水をこぼさないように気をつけながら、元気をだして家のほうへ歩いていきました。

ところがしばらくすると、少女は何かにつまずいてしまいました。そして、つまずいた拍子にひしゃくを落としてしまったのです。すぐに拾い上げてみると、不思議なことにひしゃくの水は一滴もこぼれていません。そして、やせこけた犬が、足もとでハァハァ、ぐったりしているのに気がつきました。少女がつまずいたのは、この犬だったのです。犬は、ほんの少しでもいいから水を飲ませてほしいといってるようでした。そこで、ひしゃくの水を手のひらにたらして、犬に飲ませてやりました。少女はまた歩きだしました。ふと気がつくと、ひしゃくが前より重くなっているのに気がつきました。いつのまにか、木のひしゃくが銀のひしゃくに変わっていたのです。

家にもどり、ひしゃくの水を見たとき、お母さんはどんなに喜んだことでしょう。「ありがとうよ、ありがとう」と、目を輝かせ、ベッドから起きあがって、ゴクリゴクリと水を飲みました。でも、お母さんは死にかかっている自分が飲むより、娘に飲ませてやるほうがいいと思いました。「お母さんはたっぷり飲んだから、あとはおまえが飲んでおくれ」と、ひしゃくを少女に渡しました。すると、ひしゃくは金のひしゃくに変わっていました。「わたしは飲まなくても平気よ、お母さんが飲んで、早く元気になってちょうだい」「いいえ、おまえが……」

二人がゆずりあっているところへ、やせた老人が入ってきました。「いま、水といってるようでしたが、もし水があるのでしたら、わたしに飲ませてくれませんか、もう死にそうなのです」
少女は、老人がかわいそうになりました。自分が飲みたいのを忘れて、「さあ、どうぞ」とひしゃくの水を老人にさしだしました。ところが老人は水を飲もうとせず、ひしゃくの中をのぞいています。何とひしゃくの水の中に7つのダイヤモンドが光っていたのです。老人はニコニコしながら、ひしゃくの水をおいしそうに飲みはじめました。ところが、いくら飲んでも水がなくなりません。そのうち、いつのまにか老人は消えて、水の中の7つのダイヤモンドがひしゃくの中を飛びだし、空高く飛んでいきました。少女が空を見上げると、北のほうの空に、これまで見たことのない7つの星が、ひしゃくの形をしてキラキラ光っていたのです。

お母さんと少女は、いくら水を飲んでも減らないひしゃくの水を飲んで、すっかり元気になりました。村の人たちも、このひしゃくの水をもらって元気になったということです。

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北の空を見ると、ひしゃくの形をした7つの星、北斗七星がみえます。これは「北斗七星」はどうして出来たのかというお話です。

今日8月27日は、江戸時代の初期、独学で儒学、国文学、医学、博物学を学び、わが国はじめての博物誌 「大和本草」 などを著わした貝原益軒が、1714年に亡くなった日です。
 
貝原益軒は1630年、筑前国(福岡県)の福岡城のなかで生まれました。父が、藩医として、黒田侯に仕えていたからです。

益軒は、幼いときから、からだはあまりじょうぶではありませんでしたが、才能には、めぐまれていました。少年のころのことに、こんな話が伝わっています。

益軒が、ある日兄の本をだまって借りて読んでいたときのことです。その本をさがしていた兄が益軒をみて、おどろいた顔をしました。『塵劫記』という、たいへんむずかしい数学の本だったからです。益軒にわかるはずはないと思った兄は、本に書かれていることをいくつか質問してみました。すると益軒は、どの問題も、すらすらと解いてしまいました。ところが、このことを知った父は、益軒の才能をよろこぶどころか、世の中で「秀才は、早死にしやすい」といわれていることを考えて、益軒の将来を心配したということです。

益軒は、正式に、先生について学問をしたことはなく、兄の教えや自分の力で、儒学、国文学を学んでいきました。そして18歳のとき、藩主の黒田忠之に仕えました。しかし、数年で、浪人になってしまいました。短気だった忠之の怒りにふれたのだと伝えられています。

およそ7年の浪人生活のあいだに、益軒は、なんども長崎へ行って、医学を学びました。また、そのご、江戸や京都へでてさまざまな学問を身につけ、知識をふやしていきました。

34歳になって筑前へ帰った益軒は、ふたたび、藩にめしかかえられました。父のあとをついで藩医です。しかし、益軒は、医者のしごとよりも、藩の武士や、その子どもたちへの教育に力をつくしました。また、時間を惜しんで筆をにぎり、生涯のうちに、98部247巻もの本を書き著わしました。

そのおおくの本のなかで、もっとも知られているのが『益軒十訓』です。益軒は『君子訓』『家道訓』『養生訓』など10冊の書をとおして、人間の正しい生き方、あたたかい家庭のつくり方、健康な生活のおくり方などを、やさしく説きました。

また、野山を歩き、草、木、鉱物などを調べて博物学書『大和本草』を著わし、旅をかさねて、旅行記や名所案内書も出版しました。北九州をめぐって筑前の風土記も書いています。

益軒は、70歳をすぎても、80歳をこえても、勉強をすることも本を書き進めることもやめませんでした。世の中のことを知れば知るほど、もっと深いこと、もっと広いことが知りたくなったからです。『養生訓』などは、いまも読みつがれています。

なおこの文は、いずみ書房「せかい伝記図書館」(オンラインブックで「伝記」を公開中)36巻「新井白石・徳川吉宗・平賀源内」の後半に収録されている7名の「小伝」から引用しました。近日中に、300余名の「小伝」を公開する予定です。ご期待ください。

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