児童英語・図書出版社 創業者のこだわりブログ

30歳で独立、31歳で出版社(いずみ書房)を創業。 取次店⇒書店という既成の流通に頼ることなく独自の販売手法を確立。 ユニークな編集ノウハウと教育理念を、そして今を綴る。

2007年07月

今日7月9日は、明治・大正時代に活躍した文学者、森鴎外が1922年に亡くなった日です。

姉の安寿と弟の厨子王の美しい愛情をえがいた『山椒太夫』。自殺をはかって死にきれずにいる弟を、自分の手で安楽死させてやった喜助の罪に問題をなげかけた『高瀬舟』。このような名作をおおく残した森鴎外は、明治時代の幕が開く5年まえに、石見国(島根県)の津和野で生まれました。父は藩の医者でした。

鴎外は、5歳のころから漢学を学び、また、10歳のときに父とともに東京へでると、ドイツ語に力を入れました。そして、2歳たりない年齢をごまかして12歳で東京医学校予科(いまの東京大学医学部)へ進み、医学の道を歩み始めました。このころ、政治家を夢見たこともあったということです。

医学校を終えた鴎外は、陸軍の軍医となり、22歳の年に軍の命令でドイツへ留学しました。そして、この留学が、小説家鴎外を生みだすことになりました。衛生学の勉強をつづけるかたわら、西洋の文学、哲学、美術、演劇に親しみ、4年ごに帰国して、ドイツで交際した女性をモデルに小説『舞姫』を発表すると、近代人の苦悩をえがいた名作として人びとにたたえられたのです。また、外国の有名な詩を集めた『於母影』や、アンデルセンの小説『即興詩人』なども翻訳出版して、すぐれた文学者としての才能を、世にしめしました。

しかし、医学を捨てたのではありません。日本人の体にあった衛生学を説き、さらに、帝国大学や陸軍軍医部などが大きな権力をもってきた医学界に反対して、日本の医学の民主的な発展をとなえました。ところが、33歳で軍医学校長に任命された4年ごに、九州の小倉の師団へ行かされてしまいました。軍医部への批判が軍のじゃまになり、高い官職にありながら小説を書くことを口実にして、東京を追われたのだといわれています。

40歳で、やはり軍医としての才能を惜しまれて東京へもどりました。そして、4年ごに軍医総監の地位にのぼると、ふたたび創作を始めました。昼は、総監の仕事を十分に果たし、創作は夜おそくという日課です。やがて、若者の心の苦しみをえがいた『青年』や、学生の淡い恋心をつづった『雁』などを発表して、新しい文明にめざめた人たちを、ひきつけていきました。

そのごの鴎外は、明治天皇の死に乃木大将夫妻が殉死した事件に心を動かされて、『阿部一族』『寒山拾得』などの歴史小説や、あまり名もない『渋江抽斎』『伊沢蘭軒』などの伝記を発表して、1922年に60歳で亡くなりました。54歳で陸軍をしりぞいてからは、帝室博物館長もつとめています。医学と文学に生きた、大きな生涯でした。

なおこの文は、いずみ書房「せかい伝記図書館」(オンラインブックで「伝記」を公開中)33巻「牧野富太郎・豊田佐吉」の後半に収録されている14名の「小伝」から引用しました。近日中に、300余名の「小伝」公開する予定です。ご期待ください。

森鴎外の作品は「青空文庫」で、93作品を読むことが出来ます。

45年以上前、高校時代の「世界史」の授業で教わった、英語の月の名前のエピソードをなぜか急に思い出しました。

英語で、7月~11月は順にJuly, August, September, October, November です。
でも、Septemberは本来、seventh で7番目、October はoctopus (8本足の)「たこ」のように8の意味、Novemberはninthで9番目を意味する言葉でした。
ところが、ローマ時代に活躍したユリウス・シーザーとアウグスッスが自分たちの名前であるJulyとAugustを入れてしまったために、2か月ずつずれてしまったという話。

こんなことが本当にあったのかと思って調べてみましたら、たしかにそれに近いものがあります。
紀元前45年、ユリウス(Julius)・シーザーによって太陽暦であるユリウス暦が使われはじめました。月の名前に自分の名を入れようと、7月を、ユリウス・カエサルにちなんで、Julius としました。ユリウス暦は、閏年は4年に一度と決められていましたが、シーザーの死後、誤って3年に一度ずつ閏日が挿入されてしまいました。この誤りを修正するため、シーザーの養子のオクタビィアヌスが、後にローマ帝国初代皇帝になって、アウグストゥス(尊厳者)と呼ばれるようになったころ、4年ごとに閏日が挿入されるようになりました。同時に8月の名称を自分の名称 Augustus に変更したということです。ラテン語で7月Julius 8月Augustus が派生して、英語の July,  August となったそうですから、高校時代に教わった話は間違いでなかったことがわかりました。

ユリウス・シーザー、アウグストゥス以後も、多くのローマ皇帝が、月に自分の名をつけたようです。暴君といわれたネロは4月をネロニウスに、第3代皇帝カリグラは9月を、第4代皇帝クラウディウスは3月、第11代皇帝ドミティアヌスは10月を自分の名をつけましたが、それぞれの皇帝の死とともに以前の名に戻され、長続きしなかったそうです。

こうすれば子どもはしっかり育つ「良い子の育てかた」 40

子どもの自殺が相次いでいます。おとなたちは 「なぜ、あんなにかんたんに死んでしまうのだろう」 と考え、これに対して識者の多くは 「今の子どもたちは、いのちの尊さというものを知らないからだ。おとなたちが、物の豊かさに毒されて、子どもに、いのちの尊さを伝えることを忘れているから……」 と語っています。
けれども、幼いわが子に人間のいのちの尊さを伝えることは、なんでもないことのようで、実はかなりむずかしいものです。
しかし、たった一つだけ、どんな母親にもできることがあります。それは、わが子に 「あなたが生れるとき」 「あなたを産んだとき」 を語って聞かせることです。

あなたを身ごもったとき、どんなにうれしかったことか。お父さんも、どんなによろこんだことか。あなたが生れてくるのを、みんながどれほど待ちわび、生れてきたときは、どんなに感激したことか。
そして、少しずつ大きくなっていくときは、抱いたり、頬ずりしたりして、どんなにかわいがったことか。熱を出したときなどは、どんなに心配したことか。でも、どんなにたいへんでも、あなたが大きくなっていくのは、どんなにすばらしく、楽しいことであったか。
こんなことを、たとえば、春は日だまりで、夏は木かけで、秋は落葉の上で、お母さんの宝物を見せるようにして、語り聞かせることです。写真のアルバムや、ビデオを見せるのもよいでしょう。
自分が、いかに祝福されて生を受けたか。これまでみんなからどんなに慈しまれてきたか。これは、そのまま、自分のかけがえのなのない命を思う心へ広がっていくでしょう。口先だけでいのちの尊さを説くより、どれほど子どもの心にしみ入るかしれません。

 今日7月4日は、アメリカが1776年に、イギリスの植民地から独立を宣言した記念すべき日です。
現在、アメリカ合衆国には50の州があります。でも、当時は、まだ13州しかありませんでした。その13州は、北にカナダ、南はスペイン領のフロリダにはさまれた大西洋岸からミシシッピー川までの土地が国土で、人口は、ヨーロッパから移住したイギリス人、フランス人、スペイン人、オランダ人など300万人ほど、他に原住民であるインディアンが住んでいるにすぎませんでした。

そもそも、アメリカがヨーロッパに知られるようになったのは、1492年にコロンブスがアメリカを発見してからで、そのスポンサーがスペインだったために、まずスペイン人が新大陸南部に移住をはじめました。やがてフランスが北部地方を植民地にしました。少し遅れてイギリスが、今のバージニア州あたりに植民地を作りました。
1620年にはメイフラワー号に乗った清教徒(ピューリタン)が、ボストンに近いコッド岬へ上陸をしました。イギリスで迫害を受け、自由の天地を求めてやってきた人々です。そして自由で平等な新しい社会を作りはじめました。イギリス人は続々とアメリカにわたり、原始林を切りひらき、開拓をしながらアメリカを発展させていきました。他国の植民地と争いが起きましたが、勝利をおさめたのはイギリスでした。
やがて17世紀の半ばすぎには、人口もふえ、農産物もたくさんとれるようになり、本国へどんどん輸出できるようになりました。ところが、植民地のアメリカが栄えると、イギリス本国の品物がアメリカで売れなくなります。植民地は本国の利益のためにあるという考えを持っていたイギリス政府は、アメリカ植民地から輸入を制限したり、高い税金をかけたりしたのです。
1773年、イギリスがむりやりアメリカに茶を買わせようとしたことから、これに反対する植民地の茶商人が、イギリス船に積んであった茶を奪って海に投げこむという事件がボストンでおきました。知らせを聞いたイギリス海軍は、しかえしのために軍艦を出し、港を封鎖してしまいました。
植民地の人たちも、もうだまってはいられません。1774年、フィラデルフィアに各州の代表者を集め、本国のイギリスと戦争になってもしかたがないと決意、ワシントンを総司令官に選んで、1775年戦いの火ぶたがきられました。そして、翌1776年7月4日「人間は生まれながらに、自由・平等の権利を持っている。これをうばおうとする政府は、すみやかに廃止されなければならない。われわれは自由・平等を主旨に一致団結し、13州の独立を宣言する」という独立宣言を発表したのです。この「自由・平等・独立」はアメリカ民主主義のもとになりました。
しかし、独立を宣言したものの、戦いは苦戦の連続でした。それから6年後の1782年、ようやくイギリス軍を打ち破ることができました。この勝利に勢いを得た13州の植民地は、翌年アメリカの独立をイギリスに認めさせることに成功、さらに、1787年に合衆国憲法を制定、1789年にワシントンを初代大統領に選んだのです。
いまや3億人の超大国アメリカも、独立宣言後、わずか230年しかたっていないのには、びっくりしてしまいます。

なお、アメリカ合衆国独立前後の詳しい内容につきましては、いずみ書房のオンラインブック「ワシントン」をご覧ください。

たまには子どもと添い寝をしながら、こんなお話を聞かせてあげましょう。 [おもしろ民話集 4]

あるところに、3びきのカメの親子がいました。父さんガメと、母さんガメと、むすこのカメです。
ある晴れた日、遠くにある森へ、ピクニックに出かけることにしました。父さんガメが持ったバスケットには、サンドイッチと、いろいろなかんづめがはいっています。それまで食べたこともないようなごちそうばかりです。3びきは、歩いて歩いて、3年もかかって、やっと森へつきました。そして、バスケットのなかのごちそうを取りだすと、父さんガメがいいました。
「さあ、食べよう。母さん、かんきりを出しておくれ」
母さんガメは、バスケットをのぞいて、かきまわして、その次には、さかさまにひっくりかえしました。ところが、かんきりが出てきません。母さんガメは、こまった顔をして、いいました。
「かんきり忘れてきてしまったわ。すまないけど、ぼうやとってきておくれ」
「えっ、あんな長い道を、ぼくがとりにいくの?」
むすこは、びっくりしました。しかし、父さんガメに 「かんきりがないと、ごちそうもたべられないじゃないか。おまえがもどってくるまでサンドイッチも食べないで待っているから、すまないが行ってきておくれ」 といわれると、しかたがありません。
「じゃあ、ぼくがもどってくるまで、ほんとうに何も食べないって約束する?」 「ええ、約束しますよ」 「約束するさ」

むすこのカメは、まもなく、のそのそ、やぶのなかへ入っていきました。
父さんガメと母さんガメは、じっと待ちました。1年すぎて、すっかりおなかがすいても、約束だから待ちました。それから、もう1年たちました。さらに1年すぎると、がまんできないほどおなかがすいてしまって、母さんガメがいいました。
「サンドイッチをひとつずつ食べません? あの子にはわかりっこありませんよ」
父さんガメは、ちょっと考えていましたが、首をふっていいました。
「いやいや、約束したんだから、待ってなくっちゃ」
父さんガメも母さんガメも、身動きひとつしないで待ちました。
そして、また1年が過ぎ、さらに、また1年が過ぎました。
もう、おなかがすいてすいて、がまんができません。母さんガメが
「あれから、もう5年ですよ。もどってくるなら、もどってこないとうそですよ。サンドイッチを、ひとつずつ食べましょうよ」 というと、父さんガメも、 「そうだなあ、ひとつずつ食べるか」 と、いって、サンドイッチを手にとりました。もうちょっとでサンドイッチを口にいれようとしたとき、やぶの下から、かすれた声が聞こえてきました。
「ああ、やっぱりぼくをだますんだな」 むすこのカメの声です。
「ぼく、かんきりをとりにいかなくて、ほんとによかったな」

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