児童英語・図書出版社 創業者のこだわりブログ

30歳で独立、31歳で出版社(いずみ書房)を創業。 取次店⇒書店という既成の流通に頼ることなく独自の販売手法を確立。 ユニークな編集ノウハウと教育理念を、そして今を綴る。

2007年07月

こうすれば子どもはしっかり育つ「良い子の育てかた」 42

ワンワン(いぬ)、トット(さかな、にわとり)、ニャーニャー(ねこ)、ブーブー(自動車)、カンカン(髪)、オンモ(表=家の外)、タッチ(立つ)など、幼児語と呼ばれる言葉があります。幼児が話しはじめるころ使うもので、幼児の発達段階上、特別なことではありません。
しかし、幼稚園に入るようになっても、あるいは小学校入学の時期が迫っても、この幼児語がぬけないのでは困ります。なおすことを考えた方がいいでしょう。それは、子どもの自立認識にもつながるからです。

では、幼児語を卒業させるにはどうしたらよいか。それは、幼児語がでてくるたびに叱ったり、制止したりするのではなく、会話の中で母親が言いかえてやることです。子どもが 「ニャーニャーがいるよ」 と言ったら、「ニャーニャー、あ、ねこがいるわね、かわいいねこね」 と答えてやる。「ブーブーがいっぱい」 と言ったら、「ほんと、自動車がいっぱいね」 と答えてやる。
このような言いかえを続ければ、自然に、自分の力と判断で正しい言葉へ入っていきます。幼児は常に母親を信頼し、母親をまねようとするからです。

ほかの言葉についてもこのことが言えます。子どもはテレビ等から仕入れた、おかしな言葉をたくさん使います。やっぱ (やっぱり)、すごい(すごく) きれい、などもそうです。こんなときも、母親が正しい使い方をしてみせることです。
このほか、美しい言葉遣い、やさしい言葉遣いもそうです。気どる必要も、飾る必要もありませんが、いつも身近にいる母親の言葉遣いが子どもの心の成長に大きな影響をもつことを忘れてはなりません。

大正時代に、武者小路実篤、志賀直哉、有島武郎ら白樺派の作家たちが積極的に紹介したことから、日本に広く知れわたったフランスの画家ミレー(1814-1875)。農民の絵を多く描いたこともあって、日本人の大好きな画家のひとりだといってよいでしょう。ミレーの代表作といえば「晩鐘」や「落穂ひろい」ですが、これらはフランス・パリの「オルセー美術館」にあります。そして、もう一つの代表作「種まく人」は、甲府市の山梨県立美術館にあります。1978年に美術館が開館した際、その目玉として2億円で購入され、当時は税金の無駄遣いと非難されましたが、今や別称「ミレー美術館」として、世界に知れわたっています。

20年以上も前、子どもたちが小学2、3年生だった頃、亡き妻と4人でここを訪れたことがありました。今でもはっきり記憶しているのは、この「種まく人」を鑑賞しようと出かけたところ、この名作のほかにも、たくさんのミレー作品が飾られていたことです。
その作品群の中でも、特に印象に残ったのは「夕暮れに羊を連れ帰る羊飼い」でした。真っ赤な夕日を背に受けながら、長い杖を胸に数十頭もの羊を黙々と連れている羊飼いの孤独な、それでいて気高い姿に深く共鳴しました。そして、帰りに売店で、この絵のキャンバス型複製を買い求め、居間に長く飾っていたものでした。
美術館の庭にある岡本太郎の作品「樹人」をバックにした家族の記念写真とあわせ、なつかしく思い出します。

ミレーの「種まく人」は、岩波書店のシンボルマーク(1933年より使用)となっていることでも良く知られていますが、この作品とほとんど同じ構図の作品がボストン美術館にも存在します。そんなことから、両方の作品を並べて展示しようという催しが2002年の秋に、山梨県立美術館で開催されました。亡き妻と二人ででかけましたが、あまりの人の多さに息苦しいほどで、残念ながら鑑賞どころではありませんでした。

先週末、八ヶ岳の山麓にある当社の倉庫兼山荘へでかける途中、ミレーの作品が急に見たくなって久しぶりに立ち寄ってみました。土曜日の午後だというのに、広い展示室に数人ほどしかいません。一枚一枚じっくりとミレーの絵を鑑賞できました。
今回知ったことは、オルセーにある「落穂ひろい」を描く前に、ほぼ同じ構図で縦長にした作品や、エッチング作品を描いており、それが基になってあの代表作になったと推察できること、若くして病死したミレーの妻「ポリーヌの肖像」の憂いを含んだ表情の魅力、古代ギリシアの詩にヒントを得た作品「凍えたキューピット」は寒そうな子どもを老夫婦があたたかくむかえる、画家の優しさがあふれた作品、もちろん「夕暮れに羊を連れ帰る羊飼い」との再会など、何ともぜいたくな時間を過ごさせてもらいました。やはり絵は、ゆっくり、じっくり味わいたいものだと思います。

山梨県立美術館の入場料は、ミレーなど常設展が大人500円、65歳以上は無料となっています。あと2か月で私も無料になりますので、これからはちょくちょく立ち寄ってみたいと思っています。広大な敷地内には、山梨県立文学館もあるので、次回はこちらものぞいてこよう。
ところで、私の前に美術館へ入ろうとした老夫婦がいました。「何か年齢を証明するものはありますか?」と窓口の人にいわれ、ないというと「生年月日を教えてくれますか」と聞き、すらすら生年月日を言うと「どうぞ」と、実にさわやかに無料の入場券を渡していました。役所と違って、その鷹揚さにも好感を持ちました。

なお、山梨県立美術館の収蔵作品の画像と解説につきましては、美術館のホームページ→「作品を探す」→「検索はこちら」→「ランダムに検索・文字一覧」からめざす作品をクリックすると、すべての作品を見ることができます。

たまには子どもと添い寝をしながら、こんなお話を聞かせてあげましょう。 [おもしろ民話集 5]

あるところに、とても太った奥さんがいました。歩くのもやっとというほどなのに、なかなかやせません。そこである日、奥さんは、ヨタヨタ歩いて、医者をたずねました。

「先生、私はどんどん太るばかりでホントに困っています。やせ薬をもらえませんでしょうか」

奥さんは、いっしょうけんめい頼みました。でも、医者は診察もしなければ薬もくれません。

「きょうは、診察代だけ払って、お帰りなさい。あした、また来てください」といって、高いお金だけとって、奥さんを帰しました。

奥さんは翌日、いわれたとおり、また、医者のところへ来ました。
医者は、奥さんの頭のテッペンから、足の先までながめました。口の中をのぞき、手と足にちょっとだけさわりました。
それから、首をかしげ、ためいきをつきながら言いました。

「奥さん、きのう私は、2783冊の本を読み、197回も星占いをやってみました。その結果をお話します。びっくりしないで、聞いてください。あなたの命は、のこり1週間、7日のあいだしかありません。もうすぐに死ぬのですから、薬を飲んでもむだでしょう。お帰りになって、死ぬのをお待ちなさい」

太った奥さんは、ガタガタ震えだしました。帰るとちゅうも、帰ってからも、死ぬことばかり考えつづけました。
もう、何も食べる気もしないし、夜も眠れません。
奥さんは、日ごとに、いいえ1時間ごとにやせていきました。
こうして7日間がすぎました。奥さんは覚悟を決めて、静かに横になり、死ぬのを待ちました。

ところが、いっこうに死にません。8日、9日すぎてもまだ生きています。
10日目になりました。奥さんはとうとう、がまんができなくなって、医者のところへ飛んでいきました。
すっかりやせた奥さんは、走ることができたのです。

「あなたは、何というヤブ医者なんでしょう。あんなにたくさんお金をとっておきながら、よくも私をだましましたね。7日間しか生きられないとおっしゃいましたが、10日もたったのに、この通りピンピンしているじゃないですか」

奥さんは、ものすごい勢いで、医者に文句をいいました。でも医者は、落ち着いたものです。

「ちょっとうかがいますが、あなたは今、太っていますか、やせていますか」

「やせましたとも。死ぬのが恐ろしくて、食べものだって、のどを通りませんでしたからね」

「そうでしょう。その恐ろしいと思う気持ちが、やせ薬だったのですよ。それでも、あなたは私をヤブ医者だとおっしゃるのですか」

奥さんは、はっと気がついて、笑い出しました。こうしてふたりは、仲良く別れたのでした。

今日7月11日は、幕末の志士として有名な吉田松蔭、坂本龍馬、勝海舟らを指導した開国論者の佐久間象山が、1864年に、攘夷派の武士たちに襲われて亡くなった日です。

幕末のころの日本は、朝廷を尊び外国をうちはらおうという尊皇攘夷派と、幕府をたすけて外国のために港をひらこうという佐幕開国派とが対立して、はげしくいがみあっていました。佐久間象山は、佐幕開国論者を代表する思想家、兵学者です。

象山は、信濃(長野県)松代藩の身分の低い武士の子として、1822年に生まれました。幼いときからかしこく、行動がすばやいことで知られ、22歳ごろまでに、城下町ではもう何も学ぶものがないほど学問にはげみました。

22歳で江戸(東京)に出た象山は、漢学者佐藤一斎に弟子入りし、朱子学を勉強しました。そしてそのかたわら、新進蘭学者として新しい考え方をもつ渡辺崋山、杉田玄白たちとまじわり、オランダ語の勉強をはじめました。

原書を自由に読めるようになると、象山は、その知識を実際に応用しなければ気がすみませんでした。松代に帰って、養豚、ブドウ酒の製造、西洋医学による病人の治療、鉱山を開き、ガラス工場をたてるなど、藩の近代化につとめました。

31歳のとき、藩主が幕府の老中となり、海防掛を命じられると、象山は顧問にとりたてられました。象山はさっそく砲術の大家である江川太郎左衛門の門人になって、西洋砲術を研究しました。

象山が国防についてさらに関心を深めたのは、朱子学によると完全なはずの清国が、アヘン戦争でイギリスに負けるというまったく思いがけないニュースを耳にしたときからです。それ以来「東洋道徳、西洋芸術」つまり、日本の進むべき道は、西洋の進んだ技術や科学は取りいれて、精神は東洋の儒学であるべきだと説くようになったのです。

1850年、象山は、江戸に出ると、深川の松代藩邸で塾を開き、兵学の講義をしました。名声を聞いて集まった弟子は、吉田松蔭、橋本佐内、坂本龍馬、勝海舟ら500人にものぼりました。

ところが1854年、ペリーの船で密航をくわだてた弟子の松蔭が幕府にとらえられると、まもなく象山も松蔭をそそのかした罪でつかまってしまいました。そして、郷里の松代藩にとじこめられてしまったのです。

罪をゆるされたのは、それから8年後のことでした。しばらくして京都に出た象山は、朝廷と幕府は力をあわせなければならないことや、今は攘夷のときではないことを公家や諸大名に熱心にといてまわりました。しかし、1864年7月、攘夷派の人たちにおそわれ、波らんにとんだ生涯を閉じました。

なおこの文は、いずみ書房「せかい伝記図書館」(オンラインブックで「伝記」を公開中)30巻「渡辺崋山・勝海舟・西郷隆盛」の後半に収録されている7名の「小伝」から引用しました。近日中に、300余名の「小伝」を公開する予定です。ご期待ください。

こうすれば子どもはしっかり育つ「良い子の育てかた」 41

親と子の会話をとおして、子どもに、他人への思いやりの心を育てる方法があります。親が思いやりの心の大切さを口で説くのではありません。親子の会話をとおして、子どもをいつのまにか聞き上手にして、他人の考えをやさしく受け入れる心を育てていくのです。

概して、子どもは自己中心的ですから、人と話をするときも自分の言いたいことだけ言うと、あとは相手の話を聞こうとはしません。そのうえ、多くの場合、自分の言ったことに少しでも反対されようものなら、怒ったりさえします。

そこで、子どもがなにか訴えてきたときなど、まず、母親が聞き上手になって、しっかり聞いてやり、頃合いをみはからって 「じゃ、こんどは、お母さんの話も聞いてね」 「お母さんも、きょうこんなことがあったのよ」 「お母さんは、こう思うけど、どうかしら」 などと語りかけながら、自然に子どもを聞き役にまわらせ、相手の考えや言い分にも耳をかたむけるように誘いかけたらいかがでしょう。

子どもは、人と話をするときは、自分がしゃべるだけではいけない、相手の話を聞くことも大切なのだ、ということを体験的に覚えていき、それは、人の考えをやさしく受け入れることにも、人の気持をあたたかく思いやることにもつながっていきます。

この習慣が身について、小学校の中学年にもなると、グループからはずれて1人でだまっているような子には、自分から近づいて行って 「どうしたの」 と声をかけてやるような心づかいさえ生れてくるものです。
どんな時にも、子どもが真剣に話しかけてきたときには、母親も誠実に相手をつとめてやることを、忘れてはなりません。

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