児童英語・図書出版社 創業者のこだわりブログ

30歳で独立、31歳で出版社(いずみ書房)を創業。 取次店⇒書店という既成の流通に頼ることなく独自の販売手法を確立。 ユニークな編集ノウハウと教育理念を、そして今を綴る。

2007年07月

今日7月24日は、童話から大人向小説まで百数十篇もの名作をのこし、35歳の若さで自殺した作家芥川龍之介が、1927年に亡くなった日です。

『蜘蛛の糸』『杜子春』などの童話や、『地獄変』『河童』『奉教人の死』などすぐれた小説を書いた芥川龍之介が、作家として活動したのは、大正から昭和のはじめにかけてわずか10年あまりにすぎません。しかし、今もなおその作品は、おおくの人に愛読されています。

龍之介は1892年(明治25年)3月1日東京市京橋区の新原家に生まれました。それから7か月ほどして母のフクが発狂してしまい、龍之介は母の実家である芥川家に引きとられて育てられました。母のフクは、龍之介が10歳のときに亡くなりましたが、母が精神病であったという事実は、それからずっと龍之介の心に影をおとし、自分も発狂するのではないかという恐怖をあたえることになりました。龍之介は神経質でおびえやすく、ひよわな性質の子どもでした。しかし、本の好きな少年だった龍之介は、小学生のときから同級生と回覧雑誌を作って文をのせ、表紙やカットまでも自分でかいたりしました。

作家として認められるようになったのは、1916年2月、東京帝国大学に在学中、友人たちと出した雑誌にのせた『鼻』が、夏目漱石にたいへんほめられたのがきっかけです。それから龍之介の次つぎと発表する小説は、今までにない機知にとんだ独創的な作品として話題をよぶことになりました。作品のおおくはごく短いものですが、人びとをひきつけるのは、せん細な神経が通い、みがきあげられた表現と理知的な構成によるばかりでなく、作者の人生を見つめる眼にやさしさのあるせいでしょう。人間のおろかしさ、おかしさを描いても、それを冷たくつきはなすのではなく、どこかにそれを悲しむ作者のあたたかい心が感じられます。

しかし、龍之介は若くしてはなやかな名声につつまれましたが、孤独と不安な気持ちからついにぬけだすことはできませんでした。あまりに感じやすく傷つきやすい心をもっていたからでしょう。1927年(昭和2年)7月24日、龍之介は自宅で睡眠薬自殺をとげました。その前から体力はおとろえ、神経衰弱もひどくなっていました。そのうえ、親せきの不幸などもかさなり、たえ切れなくなったためです。まだ35歳の若さでした。

龍之介の作品は、アメリカ、フランス、ロシアなどでもほん訳され、おおくの人びとに読まれています。日本映画として初めてベネチア国際映画祭でグランプリ(大賞)をとった黒沢明監督の『羅生門』も龍之介の『藪の中』を原作としています。また、その名を記念してできた芥川賞は文学賞として有名です。

なおこの文は、いずみ書房「せかい伝記図書館」(オンラインブックで「伝記」を公開中)36巻「宮沢賢治・湯川秀樹」の後半に収録されている14名の「小伝」から引用しました。近日中に、300余名の「小伝」を公開する予定です。ご期待ください。

芥川龍之介の作品は「青空文庫」で、文学作品のほか、詩歌、評論など304点を読むことができます。

こうすれば子どもはしっかり育つ「良い子の育てかた」 43

バスの中で目にした光景です。
つぎの停留所で降りるのを、ついうっかりしていたのでしょう。停留所を目前にして、3、4歳くらいの子どもをつれた母親が、荷物を片手にあわてだしました。
くつをぬいで座席にあがり窓にしがみついていた子に 「さあ、降りるのよ。早く、くつをはきなさい」。
子どもはあわててくつをはこうとするのですが、なかなかはけません。すると母親は 「なに、ぐずぐずしてるのよ」。子どもはいよいよはけません。「なに、やってるの」 「このくつ、小さいんだもん」 「ぐずぐずいわないで早くしなさい」。
やがてバスがとまりました。母親は 「ほんとに、しかたないわね」 と言いながら、くつをはきかけのままの子の手をとり、ひきずるようにしてバスを降りていきました。

発車したバスの中からふりかえると、その子はバス停に立ったまま、目に手をあてて泣きだしていました。
自分のあせりを子どもにおしつけた母親。子どもは母親といっしょにいる安心感もあってやすらかな気持でバスを楽しんでいたのでしょう。子どもにとって、こんなめいわくな話はありません。
ところが、実は、これに似たことが案外に多いのではないでしょうか。子どもの人格などというものは、どこかへ置き去りにして、力づくで子どもを従わせようとする。これは、しつけなどといえるものではありません。
「なにをぐずぐずしているの」 と子どもに口走ってしまうまえに、ちょっと間をおいて考えてみることを心がけたいものです。

今日7月20日は、無線電信の発達に大きな功績をのこした、イタリアの電気技術者マルコーニが、1937年に亡くなった日です。

グリエルモ・マルコーニは、1874年イタリアの古都ボローニャに生まれました。父親はたいへん裕福な銀行家で、マルコーニは少年時代から、父の別荘にある図書室で科学の本に親しみながら成長しました。また、有名な科学者たちを家庭教師にして電気について学び、17、8歳のころには、電気科学者を夢見るようになっていました。

20歳のときのことです。ある雑誌を読んだことから、マルコーニの進む道が決まりました。ドイツの物理学者ヘルツの死を伝える記事といっしょにでていた、電波を作りだしたヘルツの実験の説明が、マルコーニの心をとらえたのです。

「電波を利用して、通信ができるようにならないだろうか」

この思いつきに夢中になったマルコーニは、別荘の3階を実験室にして、実験をくり返しました。でも、失敗の連続でした。

実験を始めて1年ごの1895年、ひとつの成功にこぎつけました。それは、3階の実験室で発振器に火花をおこすと、地下室にとりつけたベルが鳴るという、かんたんなものでしたが、マルコーニには、天にものぼるほどのよろこびでした。

夢をふくらませたマルコーニは、装置を改良してすこしずつ距離をのばしていきました。そして、やがて、別荘から2キロメートル離れた丘まで電波を送ることに成功して、無線電信の実用化への第一歩をふみだしました。

1896年、マルコーニは、イギリスへ渡りました。無線電信の価値を信じようとしないイタリア政府が、研究費の援助をききとどけてくれなかったからです。

イギリス政府の力ぞえで、郵便局の中に無線電信局をもつことができたマルコーニは、つぎつぎに送信距離をのばしていきました。1897年には無線会社をつくって、いよいよ実用化にとりくみ、2年ごにはイギリスからフランスまでの海峡横断通信に、そして1901年には、ついに、イギリスからカナダまでの大西洋横断通信にも成功しました。

「電波はどこまででもとどく」 「地球の表面が丸くてもとどく」

世界の人びとが、電波のすばらしさとふしぎさに目を見はったとき、マルコーニは、まだ27歳でした。

こうして長距離無線通信の時代をきりひらいたマルコーニは、ノーベル物理学賞など、かずかずの賞を受け、63歳で亡くなりました。無線通信ひとすじの生涯でした。

父の別荘の小さな実験室でめばえたマルコーニの夢は、いまも電波にのって、世界の空をかけめぐっています。

なおこの文は、いずみ書房「せかい伝記図書館」(オンラインブックで「伝記」を公開中)16巻「アムンゼン・チャーチル・シュバイツァー」の後半に収録されている7名の「小伝」から引用しました。近日中に、300余名の「小伝」を公開する予定です。ご期待ください。

もう何年も前から気になっている声が、今年も聞こえます。この声は、6月はじめころから始まって8月頃まで続きます。時間は早朝から午前10時頃まで。けっこう低音なので、玉川上水にでもいるカエルかしらと思っていました。でも、カエルの声をいろいろ調べてみましたが、どうも似た鳴き声をみつけることができません。

1週間ほど前、またこの声が聞こえだしたので、声の主を見つけてみようと100メートルも走ると、人家のあるあたりで、しかも高いところからの声です。これで、カエルじゃなく鳥に違いないと確信しました。
近所の人や、友人知人にも「ホーホー・ツカレタツカレタ、ホーホー・ツカレタ……と鳴く鳥に心当たりがない? 」と、聞いてみましたが、心当たりのある人は見つかりません。

そして3日前、隣の家のテレビのアンテナの上で、それらしき鳥をみつけました。でも、距離があったので、この鳥が鳴いているという確信はもてませんでした。それが一昨日、ついに私の真上の電線に止まって、まさしく「ホーホー ツカレタ ツカレタ……」と鳴く鳥をしっかり見届けました。ハトほどの大きさで、顔がハトより小さめ、鳴くときにくちばしを上げる感じなのです。

すぐにコンピュータで鳥の図鑑を開き、似た鳥がいないかを調べてみました。
じつにたくさんの図鑑のサイトがあります。その中に「ことりのさえずり」という全国の鳥の音を集め、公開しているサイトをみつけました。そこで、あいうえお順にすべてのさえずりを聞き始め、ついにたどりつきました、執念の勝利!(チョット大袈裟かな)
その名は「キジバト」、この鳥に間違いありません。

解説を読むと「デデッボゥ ボウ」と鳴くとあります。そんなはずじゃないなと思い、他を調べてみると「デェーデェーボボー デデーボボ」となっていたり、「ウジャウジャ、アジャアジャ」だったり、「ホットドック ホットドック……」なんていうのもあります。何と人間の耳はいいかげんなのでしょう。でも、遠くから聞くと「ホー ホー」としか聞こえません。「ツカレタ ツカレタ」の部分が「ボゥ」とか「アジャ」になるのであって、すぐ近くで聞くと「ツカレタ ツカレタ」とため息のような鳴き声なのです。
いずれにせよ、ノドにひっかかっていた骨がとれたような、すっきりした気分になりました。

たまには子どもと添い寝をしながら、こんなお話を聞かせてあげましょう。 [おもしろ民話集 6]

むかし、ある山のふもとで、トラが穴に落ちていました。いくらもがいても穴から出られません。そこへ一人のお坊さんが通りかかりました。トラは、悲しそうな声を出して、「お願いです。どうか、助けてください」 と、たのみました。
かわいそうに思ったお坊さんは、トラを引き上げてやりました。

ところがどうでしょう。トラは穴から出たとたんに、目を怒らせて 「おい、坊主。おまえを食ってやる」 と、いうではありませんか。
お坊さんはビックリして、「待ってくれ、助けてやったのに、食べるとはひどいじゃないか」
でも、トラは 「トラなんかを、助けたお前が悪い」 と言うばかりです。
お坊さんは考えました。「それじゃ、悪いのは私かお前か、ボダイジュの木に聞いてみよう。

ところが ボダイジュは言いいました。
「人間は、私たちの仲間の木を、たくさん切っている。トラさん、坊さん一人くらい食ったって、かまやしないよ」
あわてたお坊さんは、「もう一度待ってくれ、クマにもきいてみよう」 といいいました。
通りかかったクマがいうことは、「人間は、おれたちの仲間をたくさん殺している。トラさん、人間一人くらい食ったって、かまわないよ」
これを聞いたトラは 「ほら、やっぱりな」 と、大きな口を開けて、お坊さんを食べようとしました。
お坊さんはこまりました。でもやっぱり食べられるのはいやです。
「もう1度待ってくれ。むこうから来るキツネに聞いてみるから」 と言いました。
ところが、キツネは頭をひねるばかりで、ブツブツ言いはじめました。
「何なに? 穴がトラの中へ落ちて、そこへ坊さんが通りかかったんだね。何、違う? それじゃ、トラが坊さんの中へ落ちて、そこへ穴が通りかかったのかな。あーあ、サッパリわからん」

さあ、これを聞いていて、イライラしはじめたのはトラです。
「こらこら、うすのろギツネ、今おれが、はじめからやってみせるからよく見てろ。はじめは、おれがこうして穴へ落ちたんだ。
トラは、大声でこう言うと、もういちど穴へとびこみました。そして 坊さんにむかって 「おい坊主、さっきのようにオレを引き上げろ。そうすりゃ、うすのろギツネだって、話がわかるだろう」 と言いました。

でもキツネは、うすのろといわれたのを怒りもしないで、お坊さんに言いました。
「お坊さん、どうしますか。もう一度、助けてやりますか」
お坊さんは答えました。「恩知らずなトラなんて、もう引き上げてやるものか」
やがて、お坊さんとキツネが遠くへ行ってしまうと、穴の中からトラのほえる声が聞こえるばかりでした。

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