児童英語・図書出版社 創業者のこだわりブログ

30歳で独立、31歳で出版社(いずみ書房)を創業。 取次店⇒書店という既成の流通に頼ることなく独自の販売手法を確立。 ユニークな編集ノウハウと教育理念を、そして今を綴る。

2007年06月

昨夜、『「モナリザ」は聖母マリア~レオナルド・ダ・ヴィンチの真実』(ランダムハウス講談社刊・四六判上製・462ページ)という大作を最近著した、高草茂氏の出版記念パーティにでかけました。高草氏は、まもなく80歳となる年齢にもかかわらずかくしゃくとした方で、歯ぎれ良く、著書の内容を語っておられました。学生時代に恩師から、ダ・ヴィンチの天才ぶりをさまざまな資料を元に教えを受けて感銘して以来、ダ・ヴィンチ研究に54年の歳月をかけて暖めてきたものを、藤ひさし氏(遠藤欽久氏ペンネーム)の強い勧めにより書き下ろし、このたび刊行に至りました。

今から500年ほど前、モナリザをはじめ十数点の絵を描いたことで有名なダ・ヴィンチは、その生涯に数千といわれる膨大な量のメモやスケッチを残しました(現在までに発見されたものは3750葉ほど)。将来出版したいと思ったものもあれば、着想を忘れないように記した覚え書き程度のもの、絵の構図が決定される前の習作などさまざま。最近、レスター手稿(36葉)が世界一の金持ちといわれるビル・ゲイツの個人所有になったと報道されたのは記憶に新しいところです。(この「レスター手稿」は現在、六本木ヒルズで開催されている“レオナルド・ダ・ヴィンチ展”で公開されています)

氏は大学卒業後、岩波書店に入社、美術編集部に配属され、1961年に発見され、世界的なダ・ヴィンチ研究の端緒となったというべき700葉もの「マドリッド手稿」日本語版を編集した他、79年にはトリノ王立図書館蔵「鳥の飛翔に関する手稿」(20葉)、85年にはウインザー王室図書館蔵「風景、植物および水の習性」(70葉)、90年には「馬および他の動物」など、ダ・ヴィンチ関連の書の日本を代表する編集者でした。その後、八ヶ岳山麓にある清春白樺美術館館長などを歴任し、終始内外の美術関連の研究や仕事に従事しててこられました。

氏のすごいところは、ダ・ヴィンチのすべての手稿に細かく目を通し、どの言葉やスケッチが、どこに書かれているものかを即座に言い当てることができるそうで、特に印象に残っているのはノートの片隅に小さな文字で記された次の言葉だということです。「私は父より前に生まれた人間。人類の3分の1を殺し、その後に母の胎内に戻る」……と。この言葉は聖書の「ヨハネ黙示録」に出てくる言葉の一部なので、ダ・ヴィンチが神の生まれ変わりを意識したものなのではないか。また、キリストの生まれ変わりというのはダ・ヴィンチと同時代に生きたドイツの画家デューラーもいっているので、その関連も追究してみたいという大胆な提言をされていました。

ダ・ヴィンチが最後のパトロンとなったフランス国王フランソワ一世の居城で亡くなる時までに、大切に持ち続けていた絵画は「モナリザ」「聖アンナと聖母子」「洗礼者ヨハネ」の3点でした。モナリザのモデルについては、フィレンツェの名士フランチェスコ・デル・ジョコンドの3番目の妻リザというのが一般的な説です。他に公妃イサベラ・デステ説、ジュリアーノ・デ・メディチの愛人説などさまざまで、いまだにモデル探しは続いています。しかしモデルがはっきりした肖像画であるとしたなら、ダ・ヴィンチが手元に持ち続けることはなく、最初にモデルはあったとしても、ダ・ヴィンチにとっては未完成だったのでしょう。目の表情、微笑み、精神性などあらゆる点を追究し、ダ・ヴィンチの理想的女性像として生涯描き続けていたのが「モナリザ」でした。そして、「モナリザ」こそ「聖母」だったと氏は結論づけるのです。

本書はまだ発売されて1か月にもなりませんが、すでに英語版につづきドイツからもオファーがきているということなので、まもなく、日本から世界へ、新提言が発信されることでしょう。

本日6月14日は、アメリカの小説家ストー夫人が196年前に生まれた日です。
ストー夫人の代表作は、よく知られているように「アンクル・トムの部屋」。1852年この小説が発表されるや大評判となり、1年間で30万部も売れたといいます。そして、9年後、リンカーンによって南北戦争がおこされたので、[戦争を巻きおこした小説]ともいわれています。
当時、アメリカではたくさんの黒人がどれいとして使われていました。人間の権利はなにひとつ認められず、物のように売り買いされていました。ストー夫人は、お父さんの神学校で先生をしていたストー教授と結婚、幸せな暮らしをしていました。そんなある日、ストー家で女中としてやとった黒人の少女が台所で悲鳴をあげています。ストー夫人がいってみると、少女は中年の白人の男に手をつかまれて、外にひきずり出されているところでした。男をよびとめると「わしはこの女の持ち主。こいつは、わしのところから逃げ出したんだ」「でも私が今の主人です」「そうはいきません。どれい逃亡法では、どれいは元の主人のものなんだ」「あなたは神さまに恥ずかしくないの」というストー夫人の真剣な声に男はたじろぎました。「でも、法律は法律ですからな」と、男は泣き叫ぶ少女を連れて行ってしまいました。この出来ごとが、ストー夫人の心を奮い立たせ、どれいの悲しみをどうにかして訴えたい、どれい制度をやめさせたいという思いが、この小説を書かせるきっかけとなりました。

「アンクル・トムの部屋」のあらすじは次の通りです。
セルビイ家で、トムという黒人が使われていました。トムは老人でしたが人一倍丈夫な働き者、しかも正直で信心深く、セルビイ一家はトムをとても大事にしていました。子どものジョージとは大の仲良し、「アンクル・トム」と呼んで慕っていました。ところが、セルビイ氏は事業に失敗し、トムはどれい商人に連れていかれてしまいました。このことを後で知ったジョージは、トムを追いかけ、必ずぼくがお前を買い戻すから待っていてくれと、トムに誓うのでした。
どれい商人とミシシッピー川を下っていく途中、トムは牛馬のように働かされている黒人どれいたちに心を痛めました。この船中、セントクレアという人の娘エバに出会いました。そのエバが急な船ゆれのために、川の中に落ちてしまいました。トムはすぐに飛びこんでエバを救ったおかげで、セントクレア家へ買われていきました。セントクレア家でのトムは再び幸せな日々を送り、ジョージにもその暮らしぶりを手紙に書きました。
エバは、よくつくしてくれるトムを自由な身体にしてくれるよう父に頼み、その許しを受けましたが、病魔に勝てずに亡くなってしまいます。そのご間もなく、セントクレア氏はけんかの仲裁に巻き込まれて急死してしまいました。心の冷たい夫人はトムをはじめ、使用人だった黒人をどれい商人に売り飛ばしました。
次のトムの主人となった綿栽培の農場主は、非情な男で、トムをさんざんこき使いました。でもトムには希望がありました。「いつかジョージが買い戻しに来てくれる」と。あるとき、仕事の遅い女どれいのために綿花を分けてやったトムの行為が農場主にみつかり、半殺しにされるまでたたかれます。トムの丈夫だった身体にも衰えが見えはじめ、あまりの苦しさに信仰もぐらつきはじめます。そんなトムのために、どれいの一人が脱走をすすめますが、トムはきっぱりことわりました。ところが、ある女どれいが農場を脱走しました。農場主は、それをトムのせいにし、トムをなぐり殺してしまったのです。
ちょうどその日、成人したセルビイ家のジョージが、トムを買い戻すために農場へやってきました。トムのくれた手紙を頼りに、ようやくトムの居所を探しあてたのです。ジョージは、トムの遺体にすがりつき、泣きながらトムをていねいにお墓に葬るのでした。

この歴史的名作を手に入れようといろいろ調べてみましたが、現在どこの出版社からも刊行されていません。30年前の資料によると、新潮社、岩波書店、講談社、河出書房、偕成社の5社から刊行されていたのに、とても残念なことです。

たまには子どもと添い寝をしながら、こんなお話を聞かせてあげましょう。 [おもしろ民話集 1]

ある町に、ハンスという名前の男と、そのお嫁さんがいました。
ふたりはそれほど貧乏ではありませんでしたが、ハンスもお嫁さんも、すこしばかり欲張りでした。
「町長さんのように、広い土地とりっぱな家に住みたいな」
「私は、世界で一番りっぱな宝石がほしい。それに、お姫様のように美しくなりたい」
ハンスとお嫁さんは、いつもこんな大きなことを望んでいました。
ある晩のことです。ふたりが、いつものように大きな望みを話しあっていると、ランプがすっーと消えて、赤い光に包まれた一人の女の小人が家の中に入ってきて、鈴虫のようなきれいな声でいいました。
「私は、山奥の水晶御殿に住んでいる魔女のお使いです。あなたたちの願いを3つだけかなえてあげましょう。今日から1週間のあいだに、願いをいいなさい」
小人はこういうとぱっと姿が消え、ランプがひとりでに燃え出し、また家の中が明るくなりました。
ハンスは、にこにこしていいました。
「世界で一番大きな望みを3つお願いしよう」
お嫁さんも、にこにこしていいました。
「1週間も暇があるのですから、ゆっくり考えてお願いすることにしましょう」

ところが、次の日の晩のこと。
ジャガイモをお皿に盛っていたお嫁さんがいいました。
「ジャガイモに、ソーセージをそえたらおいしそうだわ」
すると、とたんに家の中がピカッと明るくなり、1本のソーセージが、ジャガイモの上にのっていました。お嫁さんは、ついうっかり、1番目のお願いを言ってしまったのです。
ハンスはこれを見ると、すっかり腹を立てて、
「なんてバカなことを言ってしまったんだ。お前の鼻に、ソーセージをくっつけてやる」
すると、またピカッと光ったかと思うと、ソーセージがお嫁さんの鼻にくっついてしまいました。こんどは、ハンスが2番目のお願いをしてしまったのです。
ソーセージは、どんなにひっぱってもとれません。そこでハンスはしかたなく、
「小人さん、お願いです。鼻にくっついたソーセージを取ってやってください」
すると、家の中がまたピカッと光り、お嫁さんの鼻についていたソーセージがぽとりと落ちました。
ふたりは、顔を見合わせ、うれしいような、悲しいような顔になりました。
大きいお願いをしようと思ったのに、得をしたのはソーセージ1本だけでした。
小人はもうそれっきり、二度と現われませんでした。

前回(6/7号)に続き、25年ほど前に初版を刊行した「子どもワールド図書館」(38巻) 第29巻「南アメリカ」 の巻末解説と一部補足事項を記します。

「南アメリカ」 について

[ブラジル] ブラジルは1500年、ポルトガル人によって発見されました。一般に南アメリカの国々の歴史というと、先住者インディオによる何万年もの暮しがあったわけですが、明らかなのは大航海時代に発見されてからの400~500年です。その後320年間、ブラジルを植民地にしたポルトガル人は、インディオだけでなく、アフリカから黒人どれいを買って、労働力にしました。1889年に連邦共和国となったブラジルは、どれい制を廃止しましたが、かわりに広大な土地に必要な人口増加を、世界各地からの移民にたよってきました。面積は日本の23倍、人口は日本に近く、1億人を超えるにいたりました。気候・風土や人種はさまざまで、ブラジルには、たくさんのブラジルがあると語られる多様性を持っています。*[2005年現在人口1億8640万人、世界第5位]
いま、豊富な地下資源の開発を急ピッチで進めていて、南アメリカの工業先進国への道を歩んでいます。若々しい力のある「明日の大国」 として注目されている国です。
*現在、ロシア、インド、中国と並んで「BRICs」(ブリックス) とよばれる新興経済国群の一角にあげられています。

[パラグアイ] 内陸にあり、日本よりやや広いところに人口はわずか*[340万]、土地だけは豊富という国です。*[2004年現在620万人]
好戦的で、近隣3国を相手に敗れた三国戦争、傷み分けに終わったボリビアとのチャコ戦争などがあり、その結果、国は疲れ、万事にだいぶ遅れをみせています。国土は、大きく分けるとパラグアイ川を境に、肥えたテラ・ロッサの森林地帯とパンパです。いまは貧しくてもこの豊かな土地は、これからの発展を約束する力を持っています。すでにそのきざしが見えている国です。

[ウルグアイ] 面積が日本の半分、人口300万という小国ですが、世界で最もてっていした福祉国家であることは案外知られていません。大統領制まで廃止してしまった「民主主義の実験室」 とよばれるユニークな国です。牧畜業がさかんで、生産と輸出はすばらしく、国民の生活水準は南アメリカ一といわれています。美しい避暑地にも恵まれ、南米各地からも観光客が集まってきますが、カジノも国営という国です。

[アルゼンチン] 政治や経済が不安定な*[軍事政権の国]というのが近ごろのアルゼンチンのイメージです。ところが国民の表情は明るく、生活は落ち着いているといいます。理由のひとつに食料のたっぷりある国だということがあげられます。インフレといっても食料は安く、ゆったりした住居があり、加えて男女とも身だしなみのよいお国柄です。「衣食足りて……」ということでしょうか。*[1983年軍政から民政に変わりました]
この豊かさをもたらしたのは、アルゼンチンの心臓部パンパです。しかしパンパの歴史はそう古いものではありません。1856年にヨーロッパ移民の入植村が建設され、ブエノスアイレス港までの鉄道が敷かれてから100年あまりで、急激に発展したのです。いまパンパでの生産品は輸出高の90%をしめています。交通立地の上からも工業政策の重点地であるこのパンパにアルゼンチンの経済活動のほとんどが集められています。
アルゼンチンは南北にながい地形のため、気候・自然も多様な地域性を見せています。ことに国土の30%にあたるパタゴニア地方は、天然ガス・石油が産出するところから大いに期待されています。
教育水準も高く、おおらかな国民性、豊かな大地と資源を併せもったアルゼンチンは、南アメリカの大国です。

[チリ] チリは南北の長さが4200kmもありながら、東西は100~200kmしかないというおそろしく細長い国です。熱帯の砂漠から寒帯の氷河まであり、それにともない産業の発達もいろいろです。山国らしく資源も豊富にあるところから、国民の生活も豊かです。チリ硝石にかわって世界的な銅産国ですが、ありがたくないのが世界一の地震国という名まえです。アルゼンチン、ブラジルとともに、有力なABC3国のひとつに数えられています。

こうすれば子どもはしっかり育つ「良い子の育てかた」 37

小学校の2、3年生にもなると、かなりの割合の子どもが、失敗したことや叱られそうなことは、親に報告しないようになります。また、かりに報告しても、適当にうそをついて自分を守るようになります。たとえば、悪い点数のテストはかくして、よい点数のものだけを親に見せるというのが、その典型的な例です。
さて、わが子の、このような行ないを発見した親の多くは 「なぜ、こんなことをするの。叱ったりしないから、かくし事をしてはだめよ」 と、いましめます。ところが実は、それまで叱ってきたからこそ、子どもはかくし事をするようになったのです。
どんな子どもだって失敗します。たいていの子どもが、ときにはテストで悪い点数をとります。元気な男の子なら、ときには遊びすぎて、家へもどるのがおそくなってしまいます。
しかしこんなとき、けっして頭ごなしに叱らないこと。悪い結果だからといって、ただそれだけで叱るのではなく、まず、子どもの言い分に十分に耳をかたむけて、なぜそうなったのかを、子どもといっしょに考えてやるようにすることです。つまり、叱るまえに理解してやることです。そしてその次に、どんなにささいなことでも、本当のことを打ち明けたときは、ほめるようにしていくことです。
子どものどんな失敗にも、言葉を荒らげずに、やさしく耳をかたむけてやることは、なかなかできることではありません。けれども、少なくとも、子どもの失敗を知って開口一番 「どうしてそんなことを」 と問いつめるのをやめるだけでも、まず効果があります。
とにかく、わが子がかくしだてをするのは、子どもが悪いのではなく、親の対応のしかたがへたなのだということを、肝に銘じておくことです。

↑このページのトップヘ