児童英語・図書出版社 創業者のこだわりブログ

30歳で独立、31歳で出版社(いずみ書房)を創業。 取次店⇒書店という既成の流通に頼ることなく独自の販売手法を確立。 ユニークな編集ノウハウと教育理念を、そして今を綴る。

2007年06月

最近、「吉祥寺スタイル―楽しい街の50の秘密」 (文芸春秋社刊)という本が出版されました。 9784163690506.jpg

著者は、一昨年 「下流社会」(光文社新書)という80万部をこえるベストセラーとなった本(「下流社会」は氏の造語で流行語となった)を著わしたマーケティングアナリスト・三浦展氏と、日米の住宅地、街路、ホテル、テーマパークの景観設計を手がけるプランナー・渡和由氏との共著。19年間吉祥寺に住み続ける三浦氏が、都市計画の専門家に協力を求めて、50の視点で面白く分析した「吉祥寺をモデルに、好ましい町とは何かを考えた本」といってよいでしょう。

町を考えるとき、徒歩400m圏、800m圏に何があるか、ひとつのポイントになるそうです。そして、800m、1600m圏にいかに自然が残っているか、また交差点の数といったようなことがらが、都市の分析には大切な要素なのだそうです。

「吉祥寺は駅から徒歩400m圏になんでも揃っている。デパートも住宅も学校も、飲み屋も八百屋も郵便局も公園もある。だから歩いてなんでもできる。[半径400mの街] は、実はアメリカの最新都市計画家がめざしている理想の規模である。400mは時速4キロで歩いて6分。ほぼバス停の1つ分の距離だ。子ども連れでも老人でも、だれでも気軽に歩ける距離だ。吉祥寺は、その半径400mの中に歩きまわりたくなる要素(レストラン、雑貨屋、喫茶店など)が詰まっている。だから楽しいのだ。しかも、その先の半径800mの範囲にも行ってみたくなる要素がある。(神田川、玉川上水、動物園など)。安心して楽しく歩けて、いろいろなものに出会える。歩安感があれば保安官はいらないのである」(同書 50テーマのうちの1つ「ショー店街―店の中と外の境界がない劇場」より一部引用)

当社も吉祥寺に本社(駅より800mメートル圏内) を構えてから早くも16年、会社まで徒歩圏に自宅を移してから7年になるので、井の頭公園を通って吉祥寺の町を歩くことが多く、歩くたびに、なかなかよい街だなと実感はしていました。でも、こういう専門家がその良さを分析してくれると、なぜか自分がほめられているようで、気分はよいものです。

特に駅に隣接した、「まぐろのなかだ屋」「珍来亭」など私のお気に入りの店のある、狭い路地に100軒近くの小さな店がひしめく「ハモニカ横丁」を高く評価しているのもとてもうれしい。ハモニカ横丁をつぶして新しいビルにするという計画は「絶対反対」と思っていただけに、心強い味方が現われたと本書を推薦しまくっています。みなさん、ぜひ近くの本屋で手にとってみてください。

なお、吉祥寺の北口徒歩3分のところに、本日「ヨドバシカメラ」が開店します。近鉄デパートの跡地で、三越・大塚家具が入居していましたが、昨年5月に閉店していました。「ヨドバシカメラ」は、地下1階から地上5階まで、都内では秋葉原についで2番目の規模ということです。6階から8階にはユニクロやタワーレコード、飲食店街が7月6日からオープンするそうで、吉祥寺の人の流れが変わるかもしれません。

今日、6月28日は、第1次世界大戦のきっかけとなったオーストリア皇太子暗殺事件のおきた日(1914年)であり、世界大戦の終結としてベルサイユ講和条約が結ばれた日(1919年)でもあります。

当時、ヨーロッパではドイツを中心とした新興勢力と、イギリスを中心とした勢力とがたがいにいがみあっていました。ドイツの工業力はイギリスをしのぐまでに伸びたのに、その売り先としてイギリスのような広大な植民地がありません。なんとかしてイギリスの植民地を手に入れたいと軍備をそなえてきました。そういう動きを察知したイギリスは、ロシアやフランスと同盟をはかり、ドイツに負けずに軍備をおこたりませんでした。
そのような時、ドイツと同盟をむすんでいたオーストリアの皇太子夫妻が、バルカン半島にあるオーストリアの領土となったばかりのボスニアでセルビア人に暗殺されるという事件がおきました。この事件の1ヵ月後、オーストリアはロシアの支援を受けているセルビアに宣戦を布告、すぐにロシアはオーストリアに、ドイツはロシアに戦いをいどみました。ドイツはさらに、ロシアと同盟をむすんでいるフランスが参戦する出鼻をくじこうと、中立国だったベルギーに侵入しました。しかし、これは国際法を踏みにじる行為だったため、イギリスもドイツに宣戦を布告しました。

こうしてドイツ、オーストリアの同盟軍、ロシア、フランス、イギリスの連合国軍の2派に別れ、世界の国々をそれぞれの味方にした第1次世界大戦が始まりました。イギリスと同盟を結んでいた日本も連合国側について戦いました。
戦局は一進一退、連合国側のロシアに革命がおきたこともあり、同盟国側がやや有利な展開でした。しかし、1917年にアメリカが連合国側に参戦したのがきっかけとなって、翌年、5年にわたる壮絶な戦いは連合国側の勝利に終わりました。
しかし、ベルサイユ講和条約で連合国側のドイツにつきつけた賠償は、ドイツを完膚なきまでにやっつけるほどの厳しいものでした。それが、第2次世界大戦をひきおこす火種となってしまったことを忘れてはなりません。

1936年の6月27日は、児童雑誌 「赤い鳥」を創刊した鈴木三重吉が、児童文学を愛する人々におしまれながら、亡くなった日です。
三重吉は、帝国大学(いまの東大)に在学中、グリムやアンデルセンの童話を原書で読んだり、師である夏目漱石から借りた世界各国の子ども文学に親しむうち、日本の作品が世界水準より、はるかに劣っていることを強く感じ、なんとか優れたものにしたいと考えるようになりました。卒業後は、中学校の先生をしながら大人向けの小説をかいていましたが、1916年に長女が生まれたのをきっかけに、童話を書くようになりました。そして2年後の1918年6月に「赤い鳥」を創刊、日本の童話や童謡を文学的に高める活動をはじめました。
当時、文学者として定評のあった泉鏡花、谷崎潤一郎、芥川龍之介、有島武郎、菊池寛、島崎藤村らに、子ども向けの作品を依頼、「将来この国をになう子どもたちには、大人向の作品以上に心をこめて執筆をお願いします」 という情熱は、とてもはげしいものがあったと多くの方々が回想しています。
そんな情熱がたくさんの名作を生み出したのでしょう。「赤い鳥」に掲載された作品には、芥川龍之介「くもの糸」「杜子春」、有島武郎「一房の葡萄」、新美南吉「ごん狐」などの児童文学、童謡では「からたちの花」(北原白秋)「かなりや」(西条八十) は特に評判となり、今も読みつがれ歌いつがれています。「赤い鳥」は1936年に三重吉が亡くなるまで198冊が刊行されました。
「赤い鳥」が高く評価されるのは、雑誌の発刊だけではなく、子どもの文学の大切さを世の中に広く訴え、ひとつの運動として高めたことです。「赤い鳥」 に刺激され、「金の船」(1919年)、「童話」(1920年)など、類似の児童雑誌が次々に発刊され、子どもの文化を大きく花開かせました。そして、その運動の中から、たくさんの童話作家、童謡作家、絵本作家を生み出したのです。

なお、「青空文庫」では、鈴木三重吉の代表作「古事記物語」をはじめ、25作品を読むことができます。

たまには子どもと添い寝をしながら、こんなお話を聞かせてあげましょう。 [おもしろ民話集 3]

昔むかし、ある小さな村に、おばあさんが住んでいました。
おじいさんが死んでしまったので、ひとりっきりです。でもおじいさんが残してくれた財産がありましたから、仏壇に手をあわせ感謝しながら、しあわせに暮らしていました。

ある日の夕方のこと。ひとりのお坊さんが訪ねてきました。
「道に迷ってしまった旅の坊主です、今夜一晩泊めてもらえないでしょうか」
おばあさんは「それは、おこまりでしょう」といって、お坊さんを家に入れると、あたたかいごちそうを作って、もてなしました。そして、食事が終わると、こんどはおばあさんがお坊さんにお願いをしました。
「泊めてさしあげる代わりにお願いするようで申し訳けありませんが、仏壇のじいさまのために、お経をあげてもらえませんでしょうか」と、たのみました。
ところが、お坊さんはこまってしまいました。坊さんのかっこうはしていても、お経を知らなかったのです。でも、坊さんがお経を知らないとはいえません。仏壇の前に座り、手を合わせて考えこんでしまいました。
するとその時、障子のすきまからネズミが現われました。そこで、お坊さんは、お経のようなふしをつけて言いました。「おんきょろきょろ、おでましなさる」
その次に、ネズミがきょろきょろあたりをみまわしたので、やっぱりふしをつけて、言いました。「おんきょろきょろ、みまわりなさる」
やがてネズミはチュウチュウ鳴いて、障子のかげにかくれてしまうと、続けていいました。
「おんきょろきょろ、ささやきなさる」「おんきょろきょろ、おかえりなさる」
さあ、これを聞いたおばあさんは、何とありがたいお経だろうとすっかり信じて、それから毎晩仏壇に手をあわせては、「おんきょろきょろ~」とやっていました。

しばらくたったある晩のことです。おばあさんがいつものようにお経をとなえはじめたところへ、どろぼうが入ってきました。ところが、どろぼうは、何もとらないうちに、びっくりしてしまいました。
そーっと忍びこんだのに「おんきょろきょろ、おでましなさる」。
驚いてあたりをみまわすと「おんきょろきょろ、みまわしなさる」
さては、見つかったかとつぶやくと「おんきょろきょろ、ささやきなさる」
恐ろしくなって、逃げだそうとすると「おんきょろきょろ、おかえりなさる」
どろぼうは、真っ青になって、一目散に外の暗闇へ飛び出していきました。
おばあさんは、おじいさんの残した財産をとられなかったのはもちろん、それからも「おんきょろきょろ~」と唱えながら、幸せにくらしました。

こうすれば子どもはしっかり育つ「良い子の育てかた」 39

子どもが小学校へあがったりすると、多くの母親は「さあ、これからは、しつけもきびしくしなくては」とひそかに決意します。そして、これはいけません、あれはいけません。ああしなさい、こうしなさいと言いはじめます。物事の良し悪しやすべきことが、ある程度わかりはじめたから、というわけなのでしょう。
でも、「成長」ということに即して考えて見ますと、これは逆ではないでしょうか。子どもがまだ何もわからない幼児期には、かなりきびしいしつけが大切ですが、年齢がすすんでいけばいくほど、親がああしなさい、こうしなさいといった命令口調はむしろゆるめていくべきです。なぜなら、子どもは年とともに、自分で考える力、自分で判断する力がついてきているのですから。
あまりにきびしくすると、あげくの果ては「うるさい母親だな」と子どもにきらわれたり、反発されることになってしまいます。むしろ、学校へ行くようになったら、うるさいしつけから開放してあげたいもの。口を閉じるかわりに耳を傾け、子どもの話に心を開くことです。そして、自然のうちに、自分で考える力、判断する力を、子ども自身ではぐくませることです。
子どもが自分で自分をしつけていく、これこそ理想的、親もまた楽でいいと思いませんか。もちろん、幼児期のしつけがしっかりできていることが前提ですが……。

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