児童英語・図書出版社 創業者のこだわりブログ

30歳で独立、31歳で出版社(いずみ書房)を創業。 取次店⇒書店という既成の流通に頼ることなく独自の販売手法を確立。 ユニークな編集ノウハウと教育理念を、そして今を綴る。

2007年05月

1980年代以前は、カナダやアラスカなど北極圏にすんでいる人たちのことを「エスキモー」という名称で呼んでいました。雪や氷で作ったイグルーという家に住み、魚や海獣を捕まえて暮らし、カヤックや犬ぞりによる移住生活をしてきた人たちです。ところが一部の人たちが「エスキモー」という呼び方は、生肉を食らう者という意味なので、これは差別表現だといいだしました。そのため、1990年前後から、新聞や出版など一部日本のマスコミも「エスキモー」をやめて「イヌイット」を使い始めました。こうした動きに文部省(現文部科学省)も静観できず、1993年度の中学校教科書、1994年度の高校教科書検定から、原則として「エスキモー」という呼称を使わない方針を明確にしました。これを契機に「エスキモー」は差別語とされてしまったのです。
そんな報道が過熱したためでしょう。当社のシリーズ「子どもワールド図書館」の24巻「カナダ・アラスカ」にも「エスキモー」とあり、この表現は差別用語ではないかという問い合わせが多く舞いこみ、販売を中止した要因のひとつになってしまいました。
いっぽう、放送大学スチュアート・ヘンリ研究所の論文に『「エスキモー」はそもそも差別語ではないし、従来「エスキモー」と呼び習わされてきた人びとすべてを「イヌイット」に改称することは不都合である。では、どう呼べばよいだろうか。「エスキモー」と呼ばれることに不快感をいだくカナダの場合、「イヌイット」と呼ぶべきだろう。カナダでは方言の差はあるものの、互いに意味が通じ合うことばを話し、現在の国家体制において共通したアイデンティティをもつようになっているので、「イヌイット」に統一することに問題はない。グリーンランドはカナダと同様にイヌイットしか住んでいないが、彼らは「エスキモー」といわれることを嫌っておらず、英語やデンマーク語では「エスキモー」という呼称が一般的に使われている……』と発表するなど、文部省の対応の不備を指摘する声がまきおこりました。
こうして、当時の文部省が教科書から「エスキモー」を排除したりしたのは、実はきちんとした議論もないまま、「社会風潮に従っただけ」ということになり、当時の差別用語とみなされることばに対する魔女狩り風潮、マスコミの生かじり知識、そして何よりも検定を担当した民族学者の認識不足と糾弾されるにいたりました。
最近は、「イヌイット」(エスキモー)または逆にする例、カナダに住むイヌイットと表現したり、本人たちが「エスキモー」と言う場合は訂正しないという傾向があります。また、教科書によっては「イヌイット」から「エスキモー」に戻っているものもあります。
なお、カナダ大使館のホームページには、『カナダには、世界のイヌイット(以前はエスキモーと呼ばれた)のおよそ4分の1が住んでいる。現在、そのほとんどは、大陸北岸沿いや東西4,000キロ、5つの時間帯 にまたがる北極諸島に点在するおよそ40の小集落に住む。近代技術によって輸送・通信が便利になり、健康管理と厳しい気候からの保護が進んだ結果、イヌイットの生活は暮らしやすくなった。かつての犬ぞりはほとんどがスノーモービルや全地走行車(ATV)、乗用車、トラックに替わり、モリはライフルに替わった。そしてあの懐かしいドーム型の雪の家「イグルー」は、セントラル・ヒーティング、電気、電化製品、給水施設などが整った建物となり、今では狩りのときだけしか使われなくなった……』と記されています。

前回(5/8号)に続き、25年ほど前に初版を刊行した「子どもワールド図書館」(38巻) 第24巻「カナダ・アラスカ」 の巻末解説を記します。 

「カナダ・アラスカ」 について

[カナダ] カナダは、国土の広さにも、大自然の美しさにも、天然資源の豊かさにも、産業の開発にも、すべてめぐまれた国です。
しかし、めぐまれすぎているほどにみえる、この国にも、かくされた大きな悩みがあります。それは、国を構成している人びとの、人種的な複雑さが生みだしている問題です。なかでも、もっとも顕著なものは、国民の50%をしめるイギリス系の人びとと、30%をしめるフランス系の人びととの、内的なまさつです。
カナダの開拓に、最初にのりだしたのはフランス人でした。ところが、あとから入ってきたイギリス人が武力でフランス人たちを制圧し、この北アメリカ大陸の北半分を、イギリス支配の国にしてしまいました。
現在の、イギリス系の人びとと、フランス系の人びととの精神的な対立は、もとはといえば、この開拓時代の争いに端を発しているのです。
カナダ国内では、表面的には、イギリス系カナダ人とかフランス系カナダ人などとはいわず、すべての人びとが 「われわれはカナダ人」 だと主張しています。しかし、実生活のうえでは、静かな対立意識が、いまだにはっきりと残っています。
たとえば、住民にイギリス系が多いかフランス系が多いかによって、性格の違った市や町が生まれています。国の公用語は、英語とフランス語です。英語だけではフランス系の人たちが承知しないのです。そのため、駅のアナウンスはその2か国語でくりかえし放送され、道路標識なども同じく2か国語併記で示されています。また、イギリス系の人とフランス系の人との結婚には、いまだに、むずかしい問題が残っています。
開拓時代の対立とは別に、両国系の人びとのあいだには、どうしてもとけあうことのできない民族性もあります。しかし、カナダが近代国家として発展していくためには、国土や産業の開発と同時に、あるいはそれ以上に、両国系の人びとの真の連帯がのぞまれています。カナダの人びとが、カナダ人として、名実ともに一つにまとまることが、たいせつなのです。しかし、それまでには、まだまだ時間がかかりそうです。
ところで、このカナダや、アメリカや、アフリカなどの開拓国を理解しようとするとき、忘れてはならないものがあります。それは、原住民たちの問題です。インディアンやエスキモーや黒人たちは、開拓という名のもとに、侵入者たちに犠牲をしいられてきました。開拓は、原住民たちの犠牲のうえになりたったといってもよいのです。しかも、開拓後の原住民たちは、ほとんどといってもよいくらい、暗い谷間に追いやられたままです。
日本を知るためには、日本の歴史をひもとくのと同じように、開拓国を知るには開拓史を見つめ、そこに生きつづけた原住民たちのことを、しっかりととらえることが、たいせつではないでしょうか。
[アラスカ] アメリカ合衆国49番目の州であるアラスカといえば、すぐ、エスキモーのことを考えます。しかし、わたしたちは、エスキモーは氷上生活者であることをのぞけば、この極地の人びとのことをほとんど知りません。
エスキモーは、もともとアジア系の民族です。エスキモーのたくましさや、生活の知恵の深さなどを、いちどは学んでおきたいものです。

* なお、「エスキモー」は差別用語で、「イヌイット」と表現すべきではないかと言う問い合わせが数多くあり、この件については、後日記します。 

1か月ほど前のこと。女子フィギュアスケートの第一人者である浅田真央さんが、ある外国人記者からインタビューを受け、「あなたのアイデンティティは何ですか?」と質問されていました。浅田さんがキョトンとしているのを見て、マネージャーが中に入ってお茶をにごしているテレビの映像をたまたま目にしました。この質問は、大人でも答えにくいのに、16歳の少女が面食らうのは無理もありません。でも、欧米人と少しでも親しくなるとよく聞かれる質問ですので、そういう機会のある方は、自分の答えを用意しておく必要がありそうです。
アイデンティティというのは、心理学用語で「自分は何者であるのか?」、何を精神的なよりどころにしているのか、早い話が「あなたの宗教は何ですか」と聞かれていると思えばよいでしょう。
日本人には無宗教の人が多いので、何も信じていないと答えがちです。ところが、こういう答えをすると、多くキリスト教徒である欧米人の眼には、「何と傲慢な人なのだろう」と色眼鏡で見られがちです。
ですから、初詣にお寺や神社にお参りしたり、彼岸やお盆に先祖のお墓に手を合わせる程度ではあっても、「仏教徒」ですとか「神道」ですと答えれば相手は納得するかもしれません。でも、ちょっとつっこまれたりすると、仏教や神道のことをよく知らないと、これまた立ち往生ということにもなりかねません。
日本では、ひとつの家の中に仏壇と神棚を共存させ、社寺に初詣をし、クリスマスを祝い、教会で結婚式をし、お寺でお葬式をするといった人たちが大多数です。また、朝日や夕日を見て、その厳かさに心打たれて柏手を打ったり、山や海や樹木などの自然に対し合掌したりすることもあります。まさに「八百万の神」、日本人の宗教観のあいまいなところであるのでしょう。こういう自然に対して感謝や畏敬の念をもったりすることを、シンクレティズムとか、アニミズムといわれたり、多くの宗教を受け入れてしまうのは未開の宗教観を持った国民といわれて、日本人は長い間劣等感をいだいてきました。
しかし、歴史の上から見ても、また現代に至るまで、宗教的な対立のために、国や民族がいがみあい、殺し合い、紛糾のもとになっているのは事実です。
今こそ、どの宗教とも敵対することなく受け入れるという、寛容な宗教観を持った日本人の考え方に誇りを持つことが大事なことのように思います。そのため、先のような質問をされると私は、「ジャパニズム」が私のアイデンティティと答え、日本独特の宗教観について話すことによって、理解してもらえたと信じています。
アニミズム的考えが元になっている「千の風になって」が、キリスト教徒の欧米人を熱狂させたこと(4月27日、5月1日号ブログ)は、心強い味方だと思って間違いありません。
日本では宗教をタブー視してきたきらいがあります。大人になってからも、そういう話題から避けようとするのは、教育に根本的な原因があるのではないでしょうか。小中学校の時代に、世界には、キリスト教、イスラム教、仏教の3大宗教や、ヒンズー教、ユダヤ教などいろいろな宗教を信じる人がいること、その教義はどういうものかを教育する必要があるような気がしてなりません。これもまた、日本人が国際社会で生きていくために避けられない道であるとともに、じぶんの意見を堂々と主張するたくましさにつながるように思うのです。

こうすれば子どもはしっかり育つ「良い子の育てかた」 34

小学校の体育館で、人形劇が行なわれたときのことです。幕間の10分の休けい時に、子どもたちが座席をはなれてさわぎはじめました。会場係の人がマイクで 「みなさん静かにしてくださいね。走りまわらないでくださいね」 と呼びかけてもなかなか静まりません。
そのうち、うしろの方で大きな音がしたと思うと、女の子が火がついたように泣きだしました。何人かの子どもがいたずらをしているうちに、バスケットボールなどのボールを入れる鉄の棚がたおれ、そばにいた女の子が、その下敷きになったのです。
やがて、先生や子どもや母親たちがかけつけました。そして棚を立てて下敷きの少女を抱きおこしながら、先生は 「だれだ、ここでいたずらをしたのは」 と子どもたちを叱り、何人かの母親は 「こんな危いものは、あらかじめしまっておかなくちゃ」 と暗に先生をなじりました。
すると、そのとき、下敷きになった女の子の母親が、わが子のひたいのかすり傷からにじみでている血をふいてやると、はっきり言いました。
「マイクでの注意をきかずに席を立ったこの子がいけないのです。それに、この子を席からはなれさせた私がいけないのです。おさわがせしてごめんなさい」
こんなとき、たいていの母親は、わが子かわいさに他を責めたくなるものです。しかし、この母親は 「責任は、あなたにあるのですよ」 ということを、わが子にしっかり言い聞かせました。
これは、たいへん、すばらしいしつけです。いまの子どもは、なにか事がおこると、すぐ、人や社会のせいにします。だから責任感がたいへん希薄です。自分に責任をもたせること、これは、子どもにとって、もっとも大切なことのひとつではないでしょうか。

こうすれば子どもはしっかり育つ「良い子の育てかた」33

● 幼児の要求の先取りをしない

幼児が、むずかりながら何かを要求しようとするとき、あるいは、不充分な片言を発しながら、からだで何かを表現しようとするとき、それを先取りして 「そう、あれがほしいの」 「これが、いやなの」 などと言いながら、その幼児の要求を満たしてやる親が少なくありません。また、孫のしたいことなら、なんでもわかるといわんばかりに手を貸して、満足する祖父母が少なくありません。
しかし、これはどれも、まちがっています。それも、ただ、まちがっているというにとどまらず、子どものことばの活動を、どんどんおくらせてしまうことになってしまっています。幼児が、むずかりながら要求すること、片言を発しながら要求することは、たしかに、両親や祖父母には、ほとんど理解できます。しかし、だからといって、けっして、幼児の要求を先取りしてしまってはいけません。
片言は片言なりに、さいごまで言わせることです。もし、さいごまで全部言えないのであれば、手を貸すまえに、少なくとも 「○○がほしいの?」 「○○がしたいの?」 などと、はっきりした言葉で語りかけ、その子が 「うん」 でもいいから、うなずくのを待って、幼児の要求を満たしてやることです。
幼児が要求したことと、両親や祖父母が先取りしたことに、くいちがいのあることも知っておかなければいけません。とにかく、幼児が片言でなにかを要求するときは、さいごまで、ゆっくり、その片言に耳をかたむけてやること、要求を先取りすれば、発達していく幼児の言葉を、封じこめてしまうことになってしまうのです。

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