児童英語・図書出版社 創業者のこだわりブログ

30歳で独立、31歳で出版社(いずみ書房)を創業。 取次店⇒書店という既成の流通に頼ることなく独自の販売手法を確立。 ユニークな編集ノウハウと教育理念を、そして今を綴る。

2007年04月

今週も、印象に残ったことを記します。

13年ほど前、200万部を超える大ベストセラーとなった永六輔著「大往生」(岩波新書)に目を通した方は多いことでしょう。この本はご存知の通り、永六輔氏の著となっていますが、大半は無名人語録集というべきもので、老人たちのつぶやきを集めたものといってよさそうです。じつに的確にホンネを収録しているので、ときどき本棚から引っ張りだしてきては、面白がって読んでいます。「二度目の大往生」は「大往生」の続編で、「大往生」の1年後に出版されていますが、この本にこんな文章がでてきます。

「いま新聞を熱心に読んでいるのは老人だ。記者はそのことを忘れているぞ! 新聞社もそのことを忘れているぞ!」

まさか、と思っていましたが、これが現実になりかけているようです。
当社は10数年ほど前から、毎月10種類以上もの日刊新聞や幼児向け雑誌などに、広告を出稿してきました。それが、4、5年前から、新聞広告の反響が急速に少なくなりはじめました。そのため3年ほど前から、出稿を全面的に中止してしまいました。まったくといってよいほど反応がなくなってしまったためです。
私どもの対象としているのは、20代から30代後半くらいまでの、幼い子どもを持つ家庭の親です。この世代の世帯の多くが、新聞を購読しなくなったのでしょう。彼らは、これまで新聞から得ていた情報を、どんなに利用しても月数千円の定額で利用できるインターネットから入手するようになったからに違いありません。最新情報はネットで、詳しい情報はテレビのニュースで補足するというのが、一般化してしまったようです。活字を読んではじめて納得するように育ってきた私どもの世代にとっては、まさに「信じられない」ことで、世の中の変化の大きさに愕然とする思いです。

「二度目の大往生」の先ほどの文の後に、こんな老人のつぶやきが出てきます。
「歳ィ、とってからというもの、朝刊を読んで寝るんですよ。するってェと、目が覚めると夕刊が来るんだよ。こういうのはよくねェと思ってるんですがねェ、体の調子はこれが一番いいんだ」

新聞がこんな老人たちの暇つぶしになってしまうなんて何とも悲しいことですが、これが現実になりかけているのを実感しています。

昨日、上野公園にある東京国立博物館で開催されている特別展「レオナルド・ダ・ヴィンチ─天才の実像」を見てきました。昨年話題となった「ダヴィンチ・コード」以来、より深くレオナルドの人間性を知りたいものと、美術書はもちろん伝記、評論、手記など、10数冊も読んできました。それにより、漠然とはしていますが、私なりに人物を理解してきたつもりでした。でも、この特別展の第2会場の展示内容には、よくぞここまでできたものと感嘆しました。遺された膨大なデッサンや手記をもとに、それを復元させた道具、模型、装置の数々、特に7メートル以上もの巨大な騎馬像計画の一部を鋳造したり、鋳造する機械をこしらえて、そのしくみを映像化するなど、あきれかえるほどの緻密な取り組みは感動的で、実際に見てみないとそのすごさがわかりません。この展示には2時間以上かけて、じっくり見ることをおすすめします。

この特別展は、朝日新聞社やNHKなどが主催となっていますが、1年以上も前からイタリア文化財・文化活動省やフィレンツェ科学史博物館館長らを説得し、開催の裏で活躍された藤ひさし氏の努力に敬服いたします。氏につきましては「Growth Compass = 成長の羅針盤」で取材していますので、ぜひ一読してみてください。

なお、第2会場にはウフィツ美術館が所蔵する絵画作品、今回第1会場に展示されている「受胎告知」のほかに「東方三博士の礼拝」「キリストの洗礼」の3点が、原寸大の複製として展示されています。高精密なデジタル技術が可能にさせたということですが、2度ほど訪れたことがあるウフィツ美術館の雰囲気が伝わってきます。藤ひさし氏とも以前話したことがありますが、「モナリザ」や「最後の晩餐」なども同様な方法で複製画にし、「レオナルド美術館」が身近にあったらいいなと改めて思いました。資金力のあるどこかの企業さん、実現してくれませんでしょうか。

前日(4/3号)に続き、25年ほど前に初版を刊行した「子どもワールド図書館」(38巻) 第12巻「中国(2)」の巻末解説と、その後の変化を記した補足事項を記します。

中国(2) について

前巻にひきつづき、中国の歩みをたどってみましょう。
中国国民党と中国共産党が合流した国民革命軍の進撃で、中国に希望の灯がともされたかにみえました。ところが、それもつかの間、思いがけない落し穴が、暗い大きな口をあけてまちかまえていました。
それは国民革命軍の総司令官、蒋介石のクーデターです。共産党を弾圧すれば「新政府として承認しよう」 とささやく、列国と財閥の求めに応じました。孫文の三民主義の理想を忘れ、中国をあらす帝国主義の諸外国としたしみ、国民をなおざりにしたのです。
蒋介石は1927年4月、労働者をおそって武器をとりあげ、共産党を攻撃したため、国共合作はくずれてしまいました。蒋介石の 「赤狩り」 はし烈をきわめ、犠牲者はわずか3年間で45万人にも達しました。
共産党は勢力の立て直しにつとめ、満州事変が起きた1931年の11月、江西省瑞金に中華ソビエト共和国臨時政府をつくり、毛沢東を主席にえらびました。国民政府は日本軍の侵略には目をつぶり、ひたすら共産党の攻撃に明け暮れました。
共産軍 (紅軍) は、たびかさなる攻撃をそのつど撃退しましたが、犠牲も大きく、1933年、60万の兵に共産党の根拠地瑞金を攻められたときは、兵力の半分を失ないました。共産党は全滅か降伏かという苦境に立たされていました。
このとき、毛沢東は全紅軍に移動を命令したのです。1934年10月、紅軍の主力9万に農民も加わり移動がはじまります。これが世界に名を残した1万2000キロメートルにおよぶ「長征」で、総勢約30万人の大移動です。
瑞金をかこんだ国民党軍の包囲網を突破するのに、2万5000人の兵隊を失いました。紅軍は、飛行機と近代兵器で装備した国民党軍と戦いながら、けわしい山道を夜も移動しなければなりませんでした。
紅軍は、368日間の移動中に18の山脈をこえましたが、そのうちの5つは万年雪のけわしい山でした。また、ぬかるみの大草原や砂漠を横切り、橋のない24の河を渡り、苗族やシャン族などが住む6つの少数民族地方を通過しました。
なかでも、揚子江上流のターツー川を渡るときは、18時間ぶっとおしで崖をよじ登るという行軍でした。こうした大長征をおえて、陜西省の西北にある延安へ到着したときは、30万の人びとが、わずか3万人たらずに減っていました。
やがて、日中戦争 (1937年) が起きました。戦況が激しくなり、蒋介石が味方の将校に監禁されるという西安事件を経て、共産党と国民党はふたたび手をにぎり、日本に立ちむかいました。共産党は朱徳を総司令官とする八路軍や新四軍を編成して、不敗の日本軍の伝説をうちやぶるいっぽう、地主の土地を小作人にわけてやる解放区を、つぎつぎ広げていきました。
日本軍は1945年8月、ついに降伏しますが、それに先立つ40年ごろから、国民党は独裁政治をするようになり、共産党の新四軍をだましうちにしたため、内戦へ突入することになります。国民党はアメリカの援助を受け、1946年、共産党に全面戦争をしかけました。はじめのうちは、アメリカの兵器で武装した国民党軍が優勢でした。しかし、独裁と腐敗の政治にたまりかねた国民に見放され、450万の大兵力をもちながら、3年半でほとんど潰滅状態になってしまいました。蒋介石は、やむなく本土を捨て、残った50万の軍隊をひきつれて、台湾に逃がれました。
中国全土を解放した中国共産党は、毛沢東を最高指導者にえらび、1949年10月、社会主義国の中華人民共和国の成立を宣言しました。
中国の空に、五色旗にかわる新しい国旗、五星紅旗がへんぽんとひるがえりましたが、それからの中国の歩みも、けして楽なものではありませんでした。革命当初、指導と援助を受けた兄弟国のソビエトと意見がかみ合わなくなったのです。新中国の指導者たちは、共産主義の理論をつくりあげたマルクスやレーニンの考え方を、正しく実行しているのは自分たちであると考えています。そうした立場から 「ソビエトは理論を修正している」 と、批難するようになり、友好関係が急速に冷えていったのです。誕生したばかりの新中国にとって、ソビエトの経済援助の中止は大きな痛手でしたが、世紀の実験といわれた人民公社の成功などによって、めざましい回復をなしとげました。
また、1966年には紅衛兵を中心にはじまったプロレタリア文化大革命の嵐が、10年近く吹き荒れ、文革がおさまるころ、新中国の指導者、周恩来と毛沢東をあいついで失いました。
そうしたなかでも、中国の国際的地位は着々と高まりました。1971年には、それまで自由主義諸国の多くが、中国の正統政府としてみとめていた台湾の国民政府にかわり、中国が国連にはいりました。翌72年には日本も新中国と国交正常化のとりきめを調印しました。
革命30年で近代国家に生まれかわろうとする中国は、いま、日本のよいところを社会主義の中に活かす努力をしています。日本も侵略戦争を反省しながら、隣国の中国と友情を深める努力をしています。しかし、第2次大戦後、30年近い交流の空白があり、おたがいを理解できるまでには、まだまだ時間がかかりそうです。

補足事項
中国(中華人民共和国)は、国家指導者の指導理論や政策などによって、毛沢東時代(1949~1978年)と�搶ャ平時代(1978年~現在)の2つに大きく分けて考えられています。毛沢東のひきいた時代は、社会主義化を促進して大きな成果をあげましたが、たくさんの餓死者を出すなど、政策は失敗に終わりました。さらに、経済の建て直しをめぐる対立から、毛沢東は文化大革命を発動して、反対派とされた人たちをつるしあげたり抹殺するなど、国内は内乱状態になりました。
文化大革命は1978年の毛沢東の死により終結し、かわった�搶ャ平が経済開放政策を打ち出しました。これをきっかけに、中国の近代化や経済の急成長をもたらしたことは高く評価されています。1997年の�搶ャ平死去後も、江沢民、胡錦濤といった指導者たちは基本的に�搶ャ平路線を引き継いでいるといってよいでしょう。しかし、急速な経済成長によるひずみが、貧富の拡大、空気汚染をふくむ環境破壊など、あちこちに露呈されています。共産党の一党独裁を維持するために、強行なやり方で分裂や脅威となる動きを封じる姿勢に、国際的に危惧がいだかれているのも事実です。
なお、中国は現在、ブラジル、ロシア、インドと並んで「BRICs」(ブリックス)とよばれる新興経済国群の一角にあげられています。


前日(4/2号)に続き、25年ほど前に初版を刊行した「子どもワールド図書館」(38巻) 第11巻「中国(1)」の巻末解説(一部改訂)を記します。なお、第10巻「東ヨーロッパ」は、2月19日、20日号に記しましたので省略します。



「中国(1)」について


中国の正式な国名は、中華人民共和国です。世界第3位の広い国土に、おおくの少数民族をふくむ、13億以上の人たちが暮らしています。世界一の人口をかかえ5000年もの歴史をもつ国です。

いまから95年ほど前まで清王朝が支配していました。そのころ、ヨーロッパの経済は、日ましに進歩し、アジアへ植民地の手をのばしはじめました。19世紀に入ると、インドを征服したイギリスが、まっ先に、中国に貿易の手をひろげました。

イギリスは中国の茶を買い、代りにインドでケシを栽培してつくった麻薬のアヘンを売りこみました。清国がこれを防ごうとしたため、1840年、アヘン戦争が起こりましたが、イギリスの近代兵器のまえに、もろくも敗れて香港を失い、上海、広州などを貿易港としてひらきました。

清国の弱体ぶりが暴露されると、アメリカやフランスもイギリスにみならい、不平等条約を強要しました。侵略者に対する中国民衆の怒りが高まり、洪秀全が内乱を起こし、太平天国を建設しましたが、失敗におわりました。

19世紀後半になると、中国への侵略はますますひどくなりました。日本も侵略国の仲間に入り、1894年に日清戦争が起きましたが、この戦争でも、清国はやぶれてしまいました。力の弱まった清国に、列国は資本主義、帝国主義の要求をつぎつぎに突きつけては、それをおしとおしました。

広州、上海、南京などの開港場に、中国の主権がおよばない租界をもうけ、そこに銀行、会社、工場をつくって、中国市場へ商品を流すいっぽう、農村から安い原料と安い労働力をあつめました。さらに、こうした搾取を強めるために、鉄道の敷設権を得て、沿線の鉱物資源を支配したり、貿易に関税をかけて中国の権利をうばいました。そればかりか、租界の治外法権を利用し、租界と権益を守る理由で軍隊をとどめたので、中国は列国の半植民地になってしまいました。

侵略の道具に利用された地主や官僚はともかく、ききんや揚子江、黄河、淮河の大洪水などに、苦しみつづけてきた中国の農民たちには、列国の侵略は二重の苦しみでした。これらの苦しみに加え、ふはいした役人や軍閥、地主の横暴にも農民たちは苦しんでいました。

大河の治水工事も、プランはできても、役人がその費用を自分たちのふところにしまいこんでしまうし、ききん地帯に送れる小麦やアワがあっても、軍閥の手でおさえられてしまう有様だったのです。
おまけに、2000年以上も遠いむかしから、封建的な地主たちが、中国の農村をわがものにしていました。わずか10パーセントにもみたない地主たちが、60パーセントから80パーセントもの広い土地をにぎり、小作農から作物の半分以上をまきあげていました。

やがて、義和団という、反帝国主義の大反乱が起きましたが、日本やイギリスをはじめとする8か国の連合軍に鎮圧されてしまいました。いっぽう、日本に戦争でまけたロシアでは、1905年に革命が起きました。大陸つづきの中国にも、いちはやく伝わり、中国革命の新しい芽ばえが生まれました。

祖国の危機を救おうと、革命団体を統一して立ちあがったのが孫文でした。彼は民族の独立をめざす 「民族平等」、人民の主権を認め、政治に参加させる 「民権主義」、民族資本を育て、経済上の不平等をなくし、生活の安定をはかる 「民生主義」 の三民主義をとなえ、1912年、中国革命軍をひきいて南京を占領、中華民国の成立を宣言しました。この革命が辛亥革命とよばれるものです。

清朝はほろびましたが、実権は軍閥がにぎりました。しかし、勢力あらそいがたえず、孫文は広州に独立政府をつくり、ソビエトとなかよくし、毛沢東らの共産党と協力する政策をとりましたが、革命が成功しないまま世を去りました。

孫文のあとをひきついだ蒋介石は、北伐軍をひきいて南京に国民政府をつくり、まもなく北京に入って中国全土に勢力をひろげました。蒋介石は第1次国内革命戦争 (北伐) に、中国共産党の協力で成功をおさめましたが、その同志をすてて、帝国主義諸国のきげんをとる政策に方向転換してしまいました。

中国に、本格的な思想運動がわき起こったのは、1914年にぼっ発した第1次世界大戦前後からです。『狂人日記』などの小説をつうじ、魯迅が権力盲従や旧思想の批判をおこなったころ、毛沢東や周恩来らも、それぞれ地方で結社をつくり、思想運動にとりくんでいました。

そうした運動は、まず北京大学の学生たちに受け入れられ、民衆の共同闘争に火をつけました。1919年5月4日におこなわれた北京大学生の 「五・四運動」 とよばれるデモは、上海はじめ、各地の労働者に強い影響を与えました。

労働者の大規模な波状ストライキは、パリ講和会議に出席していた北京代表に、不平等な講和条約をおもいとどまらせる、大きな力を発揮しました。革命は、目の前にありましたが、孫文の死後、180度政治をかえてしまった国民政府のために大きく後退し、以後約20年間にわたり、中国の国土は戦場と化してしまいました。

(以下、次回へ)


 



前回(3/29号)に続き、25年ほど前に初版を刊行した「子どもワールド図書館」(38巻) 第9巻「ギリシア」の巻末解説と、その後の変化を記した補足事項を記します。
「ギリシア」 について
ヨーロッパの南東部、バルカン半島の南端にあるギリシアは、日本の北海道と九州をあわせたほどの広さで、山地や丘陵が80%を占める山国です。そして、「多島海」 と呼ばれるエーゲ海には、山脈が沈んでその山頂があらわれてできた無数の小さな島々うかんでいます。
そんな地理的な条件から、陸上交通はあまり発達しませんでしたが、本土の複雑なリアス式海岸により良港にめぐまれ、エーゲ海の島々とを結ぶ海上交通は古くから大いに発達しています。
二千数百年もむかし、ギリシアにはアテネを中心に輝かしい文化がおこりました。その頃のギリシアは、ポリスという小さな都市国家の寄り集まりでしたが、地中海沿岸に植民地をつくりながら発展させ、古代文明の花を咲かせました。そのもとになったのは、古くから文化の開けていたエジプトやメソポタミア (今のシリア、イラクの付近) 文明でした。古代ギリシアはそれを受けついで、より高く、後のヨーロッパ文明の基礎ともいうべきすばらしい文化を打ち立てたのです。
ソクラテス、プラトン、アリストテレスらの大哲学者の出現をはじめとして、おおらかで明快な美しさをもつ建築や彫刻群、さらに文学、天文学、航海術、スポーツなど、あらゆる人類の文化が、古代ギリシアの花園にいっせいに咲き誇ったのです。古代ギリシアの都市国家の間に戦争がおきないよう、オリンピアの神々の前で4年に1度スポーツのわざを競いあった古代オリンピックが、近代オリンピックのもとになったことは、よく知られています。ギリシアは、紀元前492~前480年に力の強いペルシア軍に 3度も大遠征を受けました。でもギリシア軍は数は少なかったにもかかわらず、よく団結して、マラトンの戦いや、サラミスの海戦といわれる戦いに勝利しました。
優れた文化を持つばかりでなく、勇敢な民族でもあったギリシアでしたが、紀元前2世紀にはローマに滅ぼされ、その後も長く他民族の支配を受けました。15世紀末からはトルコに支配されるようになりました。しかし、さまざまな弾圧を受けながらも、ギリシア人たちは、信仰のほか商業と教育の自由を享受し、ギリシア国民としての誇りを保ちつづけていました。これが独立闘争の招来につながるわけです。そして1821年、イギリスの詩人バイロンが参加したことでも有名なギリシア独立戦争がおこり、イギリス、フランス、ロシアの力を得てトルコを敗り、1829年に独立しました。
その後、3国の保護のもとに王制になり、第1次世界大戦後は共和制になりました。その後もトルコとはいく度も戦いをくりかえし、また、ほかの大国の間にもはさまれて国情はなかなか安定しませんでした。そして、第2次大戦後はイギリスの支援を得て王制になりましたが、1973年には再び共和制になって現在に至っています。
ギリシアには、かんがいに適した大河もなく、典型的な地中海性気候のため、夏になると雨が降らず、乾燥してしまうので、土地はやせています。けれども暖かい気候を利用して、タバコ、オリーブなどの栽培や、ヒツジ、ヤギなどの牧畜を中心に、住民の半数以上が農業を営んでいます。耕地もせまいので農民のくらしは決して楽ではありません。
また、鉄や大理石などの鉱物資源は多いわりに重工業の開発があまり進んでいません。国の経済としては輸入が輸出の2倍以上となっているので、赤字を補うのは海運の収入と、膨大な歴史を背景とした観光収入ということになります。
しかし、近年は各国の援助により改革の気運が高まっているので、あの古代の輝かしい伝統を呼びさます日が再びやってくることも夢ではないかもしれません。
補足事項
ギリシアは1981年EC(ヨーロッパ共同体)の10番目の加盟国になりました。1993年にEU(ヨーロッパ連合)になってからも指導的役割をにない、通貨も、2002年にユーロに完全に切り替わりました。2004年には2回目のアテネオリンピックが開催されました。

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