児童英語・図書出版社 創業者のこだわりブログ

30歳で独立、31歳で出版社(いずみ書房)を創業。 取次店⇒書店という既成の流通に頼ることなく独自の販売手法を確立。 ユニークな編集ノウハウと教育理念を、そして今を綴る。

2007年04月

先日、「さくら会」主催の講演会へ出かけました。山崎章郎先生による「ケアタウン小平について」という演題でした。「さくら会」 というのは、小金井市にある桜町病院ホスピスで亡くなった人の配偶者や家族の会です。1990年に「病院で死ぬということ」(主婦の友社刊・現文春文庫)を著して話題の人となった山崎章郎先生が、聖ヨハネ会桜町病院に乞われて付属のホスピス科の責任者となり、日本を代表する理想的なホスピスに作り上げたことで有名ですが、「さくら会」はこのホスピスで亡くなった人の遺族のケアを目的に、山崎先生の提案で始まったと聞いています。

2年半ほど前に肺がんで亡くなった私の妻は、山崎先生じきじきに、自宅で何回か往診を受けた後、桜町病院のホスピスで90日間お世話になりました。在宅で終わりたいとこだわっていた妻が、2、3日の検査入院のつもりで20床あるホスピスにきたところ、リゾートホテルのようなすばらしい環境と、山崎先生他3名の医師、20名の看護師、100名を越えるボランティアの人たちの見事な対応と連携のよさに感動し、ここで最期を送りたいと前言を取り消したほどでした。そして、残り半月程度とあきらめていたのが、ホスピスでお世話になってから急に元気になり、充実した3か月が送れたことを今も深く感謝しています。

ひょうひょうとして、少しも偉ぶらない人柄、ご自身の描いた夢や願いにむかって着実に歩まれる山崎先生が、一昨年、桜町病院ホスピスを離れ、新たな計画に取り組んでおられることは、小耳にはさんでいました。ホスピスが末期がん患者に限定されてしまうことへの懸念、他の病気であってもホスピスケアを求めたい、ガンになっても苦痛なく住み慣れた自宅にいたい、病気や障害をかかえながらも一人で生きたいといった人々の役に立ちたいといった使命感に燃えて、桜町病院ホスピス科長というイスを後継者に譲り、より困難な道を選んではじめられたのが「ケアタウン小平」だということでした。さまざまな方々の支援はあったとしても、クリニック、訪問看護ステーション、デイサービスセンター、ひとり暮らしの方のためのアパート(いっぷく荘)などの施設をこしらえ、新たな目標に向かって突き進む姿勢に敬意を表します。

「いじめによる自殺する子どもを地域社会から出さないようにしたいという願いもありまして、末期ガンの人たちへ心のケアをしてきた体験を生かすことができないかと、子育て支援事業も活動のひとつにとり入れています」とたんたと語る先生の、内に秘めた情熱がなんとも頼もしく思えたものでした。

昨日(4/10号)に続き、25年ほど前に初版を刊行した「子どもワールド図書館」(38巻) 第15巻「東南アジア(2)」の巻末解説を記します。

「東南アジア(2)」 について

東南アジアの中でも、ここでとりあげたマレーシア、シンガポール、インドネシア、フィリピンの4か国は、赤道のまわりに点在するたくさんの島々から成り立っています。熱帯雨林気候でありながら、季節風の影響で気温はやわらげられ、人間にとって暮らしやすい環境です。そのため、この地域には*[2億あまり]の人が住んでいます。なかでも、インドネシアの人口はとびぬけて多く、世界の大国と肩を並べて*[第5位]を占めています。これほど多くの人が集まっているのは、気候、風土の条件の良さとともに、地理的重要性もみのがせません。ここは西ヨーロッパと東アジア、アジア大陸とオーストラリア大陸をつなぐ世界交通路の交差点なのです。はやくから、この地に人間が集まってきたのも歴史の必然といえるでしょう。ヨーロッパ列強国にとって、ここの島々は、ぜひ手に入れたい場所でした。南国の豊かな自然は、人間に必要なさまざまな産物をもたらしてくれます。石油やスズ、ゴムはもちろんのこと、熱帯地方特産の香料は、イギリスやポルトガル、オランダなどの触手を刺激しました。そして、ついにマライ半島はイギリスの、インドネシアがオランダの、フィリピンがスペインの植民地にされてしまったのです。16世紀半ばから19世紀にかけてのことです。こうして、第2次世界大戦までの300年にわたる年月を、南海に浮かぶ島々の人々は、圧迫と屈辱の中に生きてこなければなりませんでした。
*[2005年現在の人口は、マレーシア2530万人、シンガポール430万人、インドネシア2億2280万人、フィリピン8310万人、計3億3000万人以上。インドネシアの人口は、中国、インド、アメリカ合衆国についで世界4位です。]

支配国は、大農園を経営し、鉱山を開発し、街を整備しました。しかし、その利益は、現地をうるおすことなく全部支配国に持ち去られ、現地人は奴れいの如く働かされ、もちろん、教育など放置されたまま3世紀にもおよんだのです。こうした圧迫に対して、インドネシアやフィリピンでは激しい民族解放運動が起こりました。スぺインの圧力に抵抗し、フィリピン人民解放のために35年の生涯を燃やし尽したのが、ホセ・リサールです。リサールは獄中で、祖国への訣別の詩を書き、それをアルコールランプの中にしのばせて妹に手渡し、処刑場におもむきました。「愛する母国よさようなら! 南の太陽に抱かれるいとしい国よ! 東の海の真珠なる国よ、ああ奪いとられたる楽園よ!」 という、愛国の情あふれる言葉で始まるこの詩は、いまも、フィリピンの至宝となっています。

第2次世界大戦で、ヨーロッパ諸国にかわって、この楽園を踏み荒したのは、アメリカと日本の軍靴でした。戦後まもなく、インドネシアとフィリピンは独立し、それぞれの道を歩き出しましたが、大戦や植民地時代に奪われたものはあまりにも大き過ぎました。マレーシアとシンガポールには、いまもってイギリスの力が大きく及んでおり、そのために隣国インドネシアとのあいだもうまくいきません。

東南アジアには、多くの人種が集まっていますが、中でもマレーシア、シンガポールは人種のるつぼといわれるほどの多民族国家です。人種によって、もちろん言葉も違い、宗教も職業までも違っています。これは、単一民族、同一言語の日本には想像もつかない困難さを抱えているといえるでしょう。それに加えて、教育の遅れ、資本の不足、技術の後進性などが、工業の発展を大きくはばんでいます。戦争の賠償で、近代的なホテルや工場も建てられ、道路なども整備されましたが、それは大都市に限られています。農村地方は電気も水道もない村などめずらしくありません。豊かさと貧困、近代化と未開がとなりあわせているのが現状です。これらの国では、大国からの経済・技術援助を望みながらも、援助という名の植民地化をとても恐れています。それは長いこと国を奪われていた民族の持つ恐れとして当然のことでしょう。

前回(4/9号)に続き、25年ほど前に初版を刊行した「子どもワールド図書館」(38巻) 第14巻「東南アジア(1)」の巻末解説を記します。

「東南アジア(1)」 について

インドシナ半島には、北方のヒマラヤ山脈からまるで指をひろげたように、いくつかの山系が南下しています。その山と山の間の険しい谷間を、イラワジ、サルウィン、メナム、メコン、ソンコイなどの大きな川が流れ、下流に広大なデルタ地帯を作っています。そのデルタに住みつき、米づくりをはじめた人々が、この半島の祖先です。
ラオスをのぞき、*[ビルマのラングーン]、タイのバンコク、カンボジアのプノンペン、ベトナムのハノイ、これらは、みんな大河下流のデルタに開かれた都市です。
*[1989年、軍事政権は国名を「ミャンマー」に改めました。軍政を支持した日本政府はいち早く承認し、日本語の呼称も「ミャンマー」としています。しかし、軍政を認めないアメリカ、イギリス、オーストラリアなどは、今も「ビルマ」としています。EUでは、「ビルマ」「ミャンマー」を併記しています。ラングーンは、「ヤンゴン」に改称、2005年には首都を「ピンマナ」に移転しています。また「イラワジ川」は「エーヤワディー川」と呼ぶことが多くなりました]

5か国とも米作中心の農業国です。米の他に、トウモロコシ、イモ、トウガラシなどを作り常食としています。
温度と湿度が高いので、植物は勢いよく繁茂し、ベトナムでは米の二期作もおこなわれています。赤道の北側にあるため、雨は5月~10月にかけて集中的に降り、南側の雨季とは時期的に、ちょうど反対になります。
この地域はインドシナという名が示すように、インドと中国が出会い、行き交う場所でした。根強く幅広い仏教信仰は、インドの強い影響をうけています。この仏教を離れてインドシナ諸国を語ることはできません。
インドシナ民族の精神のよりどころとなっている仏教は、日本の仏教とは違った、戒律のきびしい小乗仏教です。僧は生産活動にはいっさいかかわらず、ひたすら徳を積むことに専念します。おびただしい数の僧の生活を支えているのが一般民衆です。民衆にかわって修業に専念し功徳を積んでくれる僧は聖なる存在なのです。来世を信じ、ひたすら僧や寺院のために私財をつぎこみ、物を持つことに固執しないのが土着の人々の生き方です。華僑や印僑がインドシナの経済をにぎり、財を成していった歴史は、こうした仏教信仰とも無関係ではありません。

19世紀、緑あふれるのどかな国々をゆさぶったのは、西欧の列強国でした。イギリス、フランスに植民地化されて以来、本当の独立を勝ち得る20世紀の今日まで、インドシナには戦争がたえませんでした。その戦乱ゆえに、この地域は、死の十字路とさえいわれました。東西の接点であり、まさに世界の十字路として重要な位置にあります。ここを掌中におさめようとする強大国アメリカがインドシナにくすぶる火をあおり、大きな戦争へと駆りたてていったのがベトナム戦争です。同じ民族同士が、長いあいだ戦い、インドシナの山河は荒廃し尽しました。あらゆる技術が結集されてつくりだされた残酷きわまりない爆弾が、毎日毎日、ベトナムの森に、畑に、道に、人家に雨のように降りました。兵士のみならず、弱い老人や子どもや母親たちまでが、たくさん殺されました。いつ果てるともなく、永遠に続くかのように戦争は広がっていきました。

  子どもよ、大きくならないで
  おまえが大きくなると
  戦争に行って
  きっと死んでしまうだろう
  子どもよ、
  どうかこのまま
  このままでいておくれ

ベトナムの母親たちのあいだで歌いつがれた子守歌です。戦争の中で生まれ育っていく我が子を、勇敢な戦士として戦場に送り出したいと思う反面、少しでも戦火から遠ざけたいという母親の切なる祈りがこめられています。これは、世界じゅうの母親の願いでもあります。戦禍で荒れ果てた大地に、小さな緑が芽ぶきはじめたように、インドシナの国々は、今やっと一人立ちをはじめたところです。世界の先進諸国は、若い芽の成長をじっと見守り、あらゆる援助を惜しんではならないでしょう。

1ヶ月ほど前、書店で「東京さわやか散歩」(山と渓谷社刊) というガイドブックを立ち読みしているうち、41コースのうちの36番目、武蔵野の川と雑木林の自然に親しむ「野川公園から浅間山公園」のところに目がうつりました。以前の住居が三鷹市深大寺だったために、野川公園や武蔵野公園には、休日によく散歩したものでした。所要時間2時間30分というこのコースは、西武多摩川線「多磨駅」からスタートし、近藤勇の生家跡、野川公園、武蔵野公園を通り、多磨霊園から浅間山公園をめぐって「多磨駅」にもどるという、かなりよくばった行程になっています。4ページにわたり地図と写真を15枚ほどちりばめて簡潔に解説した、よくできたガイドブックだなと思いました。特に目を引いたのが、「有名人の墓をめぐる」というコラムで、多磨霊園には菊池寛、北原白秋、三島由紀夫、与謝野鉄幹・晶子、吉川英治、梅原龍三郎、山本五十六、朝永振一郎らたくさんの有名人の墓があること、そして、管理事務所で案内図を求めることができるとありました。さっそくこのガイドブックを買い求め、桜の季節にでも訪ねてみようと思っていました。多磨霊園へは、亡き妻の先祖の墓があるため、すでに10回以上も墓参したことがあり、ゆったりとした、公園のような美しい墓地のことはよく知っていました。でも、こんなにたくさんの有名人のお墓があるとは思ってもみませんでした。

先週の日曜日、急に思い立って訪ねてみることにしました。管理事務所で、B3二つ折りの平面図(著名人150人の墓所付)を50円で買い求め、さっそく地図と住所? (26の区域に番号で整理されている) を照らし合わせながら、見てまわりました。なにしろ39万坪という広さ、墓地の数7万以上の中から探しだすのですから、1つのお墓をみつけるのも容易ではありません。
川合玉堂、徳川夢声、中村歌右衛門、舟橋聖一、小泉信三、新渡戸稲造、山本五十六、東郷平八郎、有島武郎と訪ねるうち、全域をまわるのはとても無理、今回は4分の1だけにしようと決めました。ちょうど桜は満開、中央にある500メートルほどもつづく桜並木は見事なもので、暖かい散歩日和にもめぐまれて、大満足の半日でした。
たくさん見たお墓のうちで、最も感銘深かったのは、岡本一平、岡本かの子、岡本太郎のお墓です。まだ、岡本太郎が健在だったころ、偶然このお墓に出会ったことがありました。岡本太郎がこしらえたという父親一平の墓は、例の太陽の塔を小型にしたような、おっぱいが水入れになっている像を見て、妻とふきだしたことを思い出しました。岡本太郎の新しい墓は、両親の墓と向かい合い、子どものあどけない顔をした像が、いかにも太郎の作品らしく必見です。墓の真ん中に、川端康成の文「岡本一平、かの子、太郎は、私にはなつかしい家族であるが、また日本では全くたぐい稀な家族であった。私は三人をひとりびとりとして尊敬した以上に、三人を一つの家族として尊敬した。この家族のありように私はしばしば感動し、時には讃仰した。一平氏はかの子氏を聖観音とも見たか、そうするとこの一家は聖家族でもあろうか。あるいはそうであろうと私は思っている。家族というもの、夫婦親子という結びつきの生きようについて考える時、私はいつも必ず岡本一家を一つの手本として、一方に置く。……」という石碑は、心打つものがありました。
もうひとつ、小さな山を盛り上げたような北原白秋の墓も印象深いものでした。
なお、三島由紀夫はペンネームで、平岡家の墓となっていますので注意が必要です。

前回(4/4号)に続き、25年ほど前に初版を刊行した「子どもワールド図書館」(38巻) 第13巻「朝鮮・モンゴル」の巻末解説(一部訂正)を記します。

「朝鮮・モンゴル」 について

[朝鮮] アジア大陸の東はしに朝鮮半島があり、大陸を背に、海をへだてて日本と向かいあっています。この朝鮮半島の人びとは、中国人や日本人と同じ膚の色をしています。いま日本にはおよそ数十万人の朝鮮の人びとがいます。なぜこんなにたくさんいるのでしょうか。日本と朝鮮の交流は古くからあり、5世紀のはじめには朝鮮からの渡来人がふえ、大陸のすぐれた知識や技術が盛んに伝えられました。イネの育て方、鉄器の作り方、漢字、仏教のほか、暦や医学、養蚕、機織り、造船、建築など、日本の文化の基礎は朝鮮人によってもたらされたといっても過言ではありません。
ところが、20世紀初頭、日本の大陸侵出によってまるでようすが変ってしまいました。港に着く船からは、たくさんの鉄砲と兵隊がおろされ、たちまち日本の軍隊と商社に占領されてしまいました。こうして第2次世界大戦が終わるまでの三十数年間、朝鮮半島は植民地として日本の思うままにされました。土地をうばわれた農民たちは生活ができなくなり、満州などに出かせぎにいきました。むりやり日本に送られ、炭鉱や工場、土木工事などで、安い賃金で働かされた人もおおぜいいます。
やがて戦争が終わり、やっと日本から祖国をとりもどした朝鮮は希望に燃えました。しかし、すぐにまた北緯38度線を境に南はアメリカ、北はソビエトに占領されました。そして、大韓民国 (韓国) と朝鮮民主主義人民共和国 (北朝鮮) の2つの国家が成立したのです。1950年には、南北の対立が深まって、朝鮮戦争となり3年にわたりはげしい火花をちらしました。
1965年に日韓条約が結ばれました。それは、韓国と日本が手を結び合う約束をとりかわしたものです。しかし、北朝鮮との交流はありません。そのため、ほんのわずかな帰国者をのぞいて、ほとんどの北朝鮮の人びとがふるさとに帰れずに日本で暮らしているのです。
東京のある小学校での話です。一年生の教室で先生が朝鮮の民話を読んだ後、「このお話は日本にいちばん近い国の話です。さて、どこの国の話だと思いますか」と質問しました。子どもたちは、アメリカ、フランス、イギリス、イタリア、スイスなど40あまりの国の名をあげました。しかし、とうとう朝鮮の名はでてこなかったということです。
この子どもたちを責める資格が、現在の日本のおとなにあるでしょうか。むしろ、それはおとなたちの責任として問われるべきでしょう。
アジアの片隅にありながら、日本の関心は常にアメリカとヨーロッパに向けられていました。めざましい経済成長をとげた日本は、アメリカやヨーロッパの資本主義国の仲間入りを念願するあまり、アジアの身近な国々との交流をあまりたいせつにしませんでした。
フランスの子どもがイタリアを知らなかったり、スペインの子どもがポルトガルを知らないということが、あり得るでしょうか。私たち日本人は、子どもだけでなく、おとなも隣国 「朝鮮」 を、もっとしっかり知る必要があると思います。
韓国と北朝鮮は、1948年の建国以来敵対関係にあり、3年にわたる朝鮮戦争後も小規模な衝突をくりかえすなど、常に緊張状態がつづいてきました。
1998年に大統領となった金大中政権が北朝鮮に対する融和的政策(太陽政策)を掲げてからは、表面的には友好関係が築かれたようにみえました。でも、北朝鮮の核開発問題や拉致問題など、未解決な問題が数多くあり、北朝鮮の経済的な破綻や人権問題の噴出により、南北統一にはなかなかつながっていないのが現実のようです。
日本にたくさんの恩恵を与えてくれた朝鮮、かつて日本が悲しみを与えてしまった朝鮮、その朝鮮の南北が一日も早く統一できるよう、日本は心からの応援を責任として果たすべきではないでしょうか。

[モンゴル] モンゴルの首都ウラン・バートルは周囲を山に囲まれた盆地の中央にあります。ぬけるような青空と澄み切った空気は、ここを訪れる旅行者の心をしんから洗い清めてくれます。ところがこの美しい街に、ゴビ地方から用事でたまにでてくる人たちは、ウラン・バートルの空気は排気ガスの臭いがしてたまらないと嘆くのです。彼らが日本にやってきたらどうでしょう。東京や大阪の繁華街などを歩いたら、たちまち窒息してしまうかも知れません。
日本の人口密度が1平方キロメートルに314人という過密ぶりに対して、モンゴルは、ふたりに満たないのです。人口をふやすことは、モンゴル国の大切な政策として長年取り組まれてきました。積極的な多産の奨励と、衛生管理の改善によって、近年の人口は年3パーセントの割合で増加しています。労働力としての人口がふえれば、地下資源に恵まれているモンゴルは、工業国としても大いに発展するでしょう。
最近は、素朴な自然の残されている国としてその名も次第に高まり、観光旅行者もふえつつあります。草原には観光用のパオも設営されています。自然の中に浸り心ゆくまで堪能したいのは誰しも望むところです。しかし観光という名のもとに、モンゴルの自然と人々のおだやかな生活を、踏み荒すことのないよう気をつけなければなりません。モンゴルの豊かな草原は、モンゴルのものであると同時に地球の大切な財産なのですから。
なお、モンゴルは、1980年代の後半よりソ連や東欧諸国情勢に触発されて民主化運動がおこり1990年には一党独裁を放棄して複数政党制を導入。1992年に社会主義を完全に放棄し、アメリカ型の資本主義を取り入れています。

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