児童英語・図書出版社 創業者のこだわりブログ

30歳で独立、31歳で出版社(いずみ書房)を創業。 取次店⇒書店という既成の流通に頼ることなく独自の販売手法を確立。 ユニークな編集ノウハウと教育理念を、そして今を綴る。

2007年04月

先日の多磨霊園めぐり(4月10日号)の途中、あるキリスト教系の墓地の前で、若い神父さんの説教を聞く10数人の遺族と思われるグループに出会いました。そこに、聴き覚えのある音楽が流れています。何の歌だったかと思い浮かべているうち、「千の風になって」のメロディであることに気づきました。この歌は、昨年末のNHK紅白歌合戦で、秋川雅史というテノール歌手がうたって大好評だったこと、翌1月15日に発売したCDが翌週オリコンのシングルチャート第1位となり、その後も売れ続け80万枚を超えたこと、クラシック系の音楽としては異例の売れ行きになったということは、新聞などの報道で知っていました。この詞の内容は、次のようなものです。

私のお墓の前で泣かないでください そこに私はいません 眠ってなんかいません
秋には光になって畑にふりそそぐ 冬はダイヤのようにきらめく雪になる
朝は鳥になってあなたを目覚めさせる 夜は星になってあなたを見守る
私のお墓の前で泣かないでください そこに私はいません 死んでなんかいません
千の風に 千の風になって あの大きな空を吹き渡っています

おそらく、亡くなった方の遺志でこの歌が流されていたのだと思われますが、「お墓にこなくてもいい、お墓にいないのだから」という歌がお墓の前で流れている矛盾はともかく、この詞の内容が、キリスト教や仏教などの考え方とは全く異質のものであるだけに、私には特に印象深く思えました。

この歌は欧米では以前からよく知られていましたが、さらに有名になったのは、2001年9月11日のニューヨーク同時多発テロ事件で亡くなった方々の1年後の追悼集会で、この歌の原詩が英語で朗読され、世界中の人々を感動のうずに巻きこんだことがキッカケでした。芥川賞を受賞した作家新井満氏もこの詩の存在を知り、この歌を訳詞し、曲もそえてみずから歌唱したのがCDになって話題になりました。朝日新聞「天声人語」などにも紹介され、その後写真集や絵本、DVDも発売されて、日本中に広まっていきました。(以下次回)

本日より、新サイトでの投稿となります。再スタートの気持で、いっそう充実した内容を心がける所存です。ひきつづきご愛顧のほどよろしくお願い申し上げます。

 こうすれば子どもはしっかり育つ「良い子の育てかた」 32

● けんかをするのをこわがらない

子どもを、集団のなかで行動できる子、社交性のある子、協調性のある子にしたいなら、幼児期から、仲間とのけんかをおそれないことです。 3、4歳になった子どもを、同じ年頃の子どもと遊ばせる。すると、必ず、おもちゃの取りっこになって、子どもどうしでけんかをする。そして、おもちゃ取りに勝ったり負けたりして、相手を泣かせたり、自分が泣かされたりすることになります。

こんなことがあると、それからは、わが子を、そのような場では遊ばせないで、ひとりで遊びばかりさせる。ほかの子どもがだれもいないときだけを見はからって、子どもを公園につれて行くようにする母親をよく見かけます。この年頃の子どもは、自分の欲しいものを奪ったり奪われたり、あるいは、けんかをしかけたり、しかけられたりしながら、自分を主張することや自分がしりぞくこと、物をゆずったりゆずられたりすることを覚えていく。

けんかの意味を知ることをとおして、仲間とじょうずにつきあっていくことを身につけていくといってよいでしょう。けんかの場を全く与えられない幼児は、そんな社交性の育たないまま、独占欲の強い、わがままな子になってしまいます。また、仲間との争いをさけることばかりを考えているうちに、自分の意思を表にださない、消極的でひっこみ思案な子になってしまいます。とにかく、友だちとじょうずにつきあえる子にしたいなら、幼児のうちから、けんかをするのをこわがらないことです。

前日(4/24号)に続き、25年ほど前に初版を刊行した「子どもワールド図書館」(38巻) 第21巻「アフリカ(2)」 の巻末解説と、その後の変化を記した補足事項を記します。

「アフリカ(2)」 について

産業の不振とともに、アフリカの多くの国ぐにがかかえている大きな問題の一つに、人種の複雑さがあります。アフリカ大陸には、*[4億をこえる人びと]が住んでいます。そのほとんどは原住民です。
*[2002年現在の人口約9億人]

植民地時代が終わったあとも、地下資源の開発などにともなって、ヨーロッパ人の侵出がふえてはいます。しかし、白人たちの総数は、1000万人をこえるまでには至っていません。しかも、その白人たちの多くは、南アフリカ共和国やアルジェリアや*[ローデシア]などに、片寄って住んでいます。したがって、南アフリカ共和国などを除く多くの国ぐにでは、100人のうち99人までが原住民だというわけです。ところが、その原住民が、あまりにも複雑なのです。アフリカ原住民のあいだには、現在も、1000種ちかいことばが使われ、ことばのうえから分類すると、1000種ちかい部族が住んでいることになるのです。
*[ローデシアは、ザンビア、ジンバブエを合わせた白人政権が用いた名称]

部族間で異なるのは、もちろん、ことばだけではありません。牧畜や農業を営む部族から、木の実や野獣の肉を食べて生きる部族まで、生活習慣は、これも分類できないほどさまざまです。定住の民もいれば、遊牧の民もいます。イスラム教やキリスト教のほかに、小部族が信仰を続ける伝統宗教も残っています。このような人種の複雑さが、とうぜんのことながら多くの国の国民構成の複雑さを生み、それが、独立国としての民族的な国のまとまりのむずかしさとなって、現われているのです。
そのうえ、これだけは共通の文盲率の高さが、その国のまとまりのむずかしさに、さらに拍車をかけています。それぞれの国が、高い文盲率の解消を図りながら、いかにして、異種部族からなる国民の統一を推進していくか。これは、アフリカ全体にのしかかっている民族的課題だといえるようです。

人種の問題にからんで、もう一つ、早急に解決されなければならないことがあります。それは、ローデシアおよび南アフリカ共和国における人種差別(アパルトヘイト)の問題です。ローデシアでも南アフリカ共和国でも、白人が、政治と経済の実権をにぎってしまっています。とくに、南アフリカ共和国では、白人たちは、人種差別の法律まで作り、黒人たちを、政治はもちろん、社会からもはじきだしてしまっています。黒人たちの教育水準が少しずつ向上してきて、白人たちの立場がおびやかされるようになったことから、人種隔離政策による一定居住地への黒人の封じ込めなど、横暴な白人防衛策をおしすすめているのです。
これでは、近代国家への発展など、のぞめるはずがありません。植民地時代となんら変わらないどころか、むしろ後退です。
この南アフリカ共和国の人種差別に対しては、アフリカ全土の黒人たちが、「アフリカ人のためのアフリカ」 と叫びながら、なかまたちの解放のために闘っています。また、世界の国ぐにも、きびしい批判の目を向けています。しかし、早急な解決はのぞめそうにもなく、かりに解決へ向かったとしても、白人と黒人の対立が、ながく尾をひくことは、まちがいありません。  
この人種差別が存在する限り、アフリカ大陸にも、そしてアフリカ人にも、ほんとうの平和はおとずれません。
多くの国にみられる白人の大企業独占を排除していくことなども含めて、白人の優位意識が消え去ること、そのためには、文盲社会の解消等によって、アフリカ人たちの力が向上していくことを、期待したいものです。
アフリカ諸国の発展に対する、世界の人びとの積極的な理解と協力がのぞまれます。

補足事項
1989年に南アフリカ(南ア)大統領に就任したデクラークは、アパルトヘイト撤廃の政治方針を固め、1990年、27年におよぶ獄中生活をしいられていた黒人解放運動家マンデラを釈放しました。マンデラは南アのアパルトヘイト政策の完全撤廃を国際世論にうったえるために、欧米14か国はじめ、日本にも訪れました。一方、デクラーク大統領も欧米を訪れ、南アのアパルトヘイト改革の努力を説明するとともに、国連で決議された経済制裁の緩和と見直しを求めました。こうして、マンデラ、デクラーク両氏の登場によって、南アに新しい社会の創造をめざす対話の時代をむかえました。そしてついに、1991年、デクラーク大統領は「新・南ア宣言」を発表。アパルトヘイトの全廃を宣言しました。宣言は、すべての人は、法のもとに平等であり、人種、肌の色、性別、宗教にかかわらず、平等の権利を享受できるとしています。撤廃後も、アパルトヘイト時代の白人と黒人の間の教育水準格差は歴然としていたため、黒人の失業率が白人を大きく上回っていました。しかし、最近になってこの差も急速に縮小しているようです。

前日(4/23号)に続き、25年ほど前に初版を刊行した「子どもワールド図書館」(38巻) 第20巻「アフリカ(1)」 の巻末解説と、その後の変化を記した補足事項を記します。

「アフリカ(1)」 について

アフリカ(主として北西部)は、新興国家がひしめきあっている大陸です。大いなる未来への希望にみちあふれている大陸です。しかし、独立後20年たらずの国ぐにの現実をみると、あまりにも多くの難問をかかえています。
その難問のなかで、各国に共通しているもっとも顕著なものは、産業のおくれです。
アフリカは、地下資源の宝庫だといわれています。たしかに、石油、天然ガス、ダイヤモンド、金、白金、ボーキサイト、銅、リン鉱石などの埋蔵量は、世界一あるいは世界有数です。しかし、それらの鉱物の産出国はおよそ半数の20数か国に限られ、しかもこの鉱業以外の産業は、ほとんどおしなべておくれているのです。
たとえば農業は、綿花、カカオ、ピーナッツなどの生産は盛んでも、原住民のアフリカ人たちのほとんどは、自分たちの食べる分だけは自分で作るという、原始的ともいえる農業を、いまだに営んでいます。しかも、綿花、ピーナッツなどを栽培する大農園の多くは、ヨーロッパ人の経営になるものです。
これでは、国の産業としての農業の発達も、こんごの人口増に対応する計画的な農作物の生産ものぞめません。多くの国が農業国という看板をかかげていながら、その内実は、たいへんに貧困だというわけです。
農業に関連していえば、林業も、未開発だといってもよいくらいです。大陸中央部などに広大な森林が広がってはいます。しかし、輸送手段のたちおくれが、せっかくの森林をねむらせてしまっているのです。
つぎに、アフリカの国ぐにの近代化という立場から考えて憂慮されているのが、工業の未発達です。工業国といえるのは、南アフリカ共和国とエジプトなどの数か国にすぎず、40か国以上は、工業生産力はゼロもしくはゼロに近いという状況です。資本の不足、科学・技術の後進性、それに、ながいあいだ本国への原料供給地であったが植民地時代のなごりが、各国の工業の発達を停滞させているのです。
さいごに、漁業となると、これまたほとんど発達していません。植民地時代のヨーロッパ人たちは、陸地の資源にだけ目を向けて、港を開こうとはしなかったのです。

以上のように、アフリカ大陸の産業を概観してみると、そのおくれの大きさが、よくわかります。結論めいたものをだせば、アフリカの国ぐには、「独立」によって政治的には独立したものの、経済的には、多くの国がまだ独立し得ていない、ということになるようです。いいかえれば、経済的には、今もって植民地時代の暗さが続いている、というのが現状です。産業の発達がない限り、国は富みません。国民の生活も豊かにはなりません。アフリカ大陸の国ぐにが、近代国家への道を切り開いていくためには、自国の資本による、自国の国民のための産業の開発が、急務といえるようです。

ところで、こうしてアフリカの産業のおくれを考えてみると、どの国の発展にも、ながいあいだの植民地政策が大きくわざわいしたことが、よくわかります。
アフリカ大陸に侵入してきたヨーロッパ人たちは、おぞましい黒人どれい狩りをはじめとして、この広大な大陸でいったい何をしたのか。ヨーロッパ人たちの植民地政策は、数億ものアフリカ原住民たちに、何を残したのか。原住民たちは、独立のために、いかに戦ったのか。黒人たちが打ち鳴らす太鼓のひびきが訴えるものは何か。太鼓のリズムの奥に秘めるものに耳を傾けてみることが、アフリカの理解のためにはたいせつなことのようです。

補足事項
1990年代のはじめから武装イスラム集団によるテロが活発になり、国内情勢は不安定なアルジェリア、最近は沈静化しつつありますが、今も国家非常事態宣言が発令されたままです。1980年代から、反欧米、反イスラエルを掲げるリビアは、アラブ諸国の中でももっとも強硬な国家として、欧米からテロ国家と非難されてきました。最近少しずつ軟化していることから、アメリカはテロ支援国家指定からはずして国交正常化を発表しました。リベリアは、1989年におきた内戦により30万人以上が難民となるなど、西アフリカ最悪の紛争地域となっています。
このように、この巻で紹介した地域には、政治的に不安定な国がいくつもあります。一方、モロッコ、ナイジェリア、チュニジアのように、政治的にも経済的にも比較的安定している国もあります。どの国にも安全に行き来できるようになるためには、まだまだ時間がかかりそうです。

前回(4/19号)に続き、25年ほど前に初版を刊行した「子どもワールド図書館」(38巻) 第19巻「エジプト」の巻末解説と、その後の変化を記した補足事項を記します。

「エジプト」 について

エジプトは、メソポタミアとともに人類の文明発祥の地として知られています。その歴史の古さは、日本人が弥生式文化を持ちはじめたころより3000年もまえに、大都市をつくり、文化生活をしていたというのですからおどろきます。ピラミッドをはじめ、たくさんの大建築をのこし、すぐれた造船技術をもち、文字を発明し、さらに絵画や彫刻にすばらしい芸術性をみせているエジプト人は、よほどすぐれた民族だったのでしょう。

その社会は、強い権力をもった王を頂点に、王の一族、神官、地方の族長や書記、職人などの市民と、圧倒的に多い農民たちでつくられた王国でした。当時の人びとの心をしっかりとらえていた宗教は、太陽神信仰というもので、太陽神ラーがあり、王は死後、神になるという考えです。ですから、ピラミッドは大ぜいの農民の血と汗の上につくられたといっても、王が神と一体となる墓づくりに、わたし達が思いわずらうほどには、つらい仕事ではなかったのだろうといわれています。王は神なのですから、絶対の力をもって国を治めていたわけです。

エジプト王国には、紀元前3200年から、紀元前332年まで、31王朝があり、それぞれに強国として栄えた時代を、古王国、中王国、新王国時代とよんでいます。ピラミッド時代は、古王国で、アブ・シンベル大神殿やツタンカーメン王の時代は、新王国です。クレオパトラは、王朝がほろびてからのちにおこされた、プトレマイオス朝の女王で、エジプト王国もこれを最後に滅亡していったのです。いっぱんに王をさす名まえのファラオは、新王国時代の末にあらわれた呼び名ですから、歴史の上ではずいぶんあとになります。

古い国エジプトにはこのような歴史がありますが、現代のエジプトは、まだ新しい歩みをはじめたばかりの国です。アフリカ大陸のはしにあるエジプトは、地中海と紅海をはさんで、アフリカ、ヨーロッパ、アラビアがあわさる地点にあたります。このため、外国からの侵略を受けやすく、クレオパトラ以来、独立国にはなれませんでした。なかでも、アラビア人による支配はながくて、それだけ影響もうけやすく、中世には、イスラム教化されました。また、スエズ運河が、紅海をとおってインド洋と結ばれるという貿易上のことから、ヨーロッパ側の進出もはげしく、つい60年まえまで、イギリスの植民地となっていました。

エジプトは、1922年に独立したばかりの国です。長い間のたびたびの占領で、国の力が弱まっているところにナセル大統領 (1918~70年) が中心になって、革命がおこりました。1956年に、エジプト共和国が成立し、新しい指導者をえて、国民の生活は、少しずつ変わってきました。ナセル大統領は社会主義という考え方のもとに、社会のしくみをかえて、国民の生活をよくしようと努力しました。いまもむかしも、エジプトをつくってきたのは、おおぜいの農民や、労働者です。古くは王のため、そして富んだ人のため、あまりいいめにあわなかった人びとにも権利と自由が平等にあたえられることになりました。ナセル大統領は亡くなりましたが、政策は、次の指導者に受けつがれて、新しい力のある国として、世界に認められています。雨が降らないということは、とてもきびしい自然をつくります。そのなかで、変わらずに親切な川ナイルとともに、エジプトはよりゆたかな国へと進んでいます。

補足事項
ナセル大統領の後をついだサダト大統領は、社会主義経済政策をとり、イスラエルと融和する政策をとりましたが、イスラム主義の抵抗にあって1981年暗殺されてしまいました。かわったムバラク大統領は、対米協調とイスラム主義運動を抑えながら独裁を続け、20年以上も政権を維持しています。

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