児童英語・図書出版社 創業者のこだわりブログ

30歳で独立、31歳で出版社(いずみ書房)を創業。 取次店⇒書店という既成の流通に頼ることなく独自の販売手法を確立。 ユニークな編集ノウハウと教育理念を、そして今を綴る。

2006年12月

とにかく、子どもは親の後姿を見ながら育ちます。親の対応の仕方で、子どもを「ダメにする」ことはじつに簡単です。ところが、「良い子に育てる」には、親は相当努力をしなくてはなりません。
そこで、今回からは、だれにもできる逆説的しつけ論「ダメな子の育てかた(●印))」と、努力を伴う期待型しつけ論「良い子の育てかた(○印)」を併記して綴ることにします。
以前、「月刊 日本読書クラブ」に連載していた「わが子をダメにしたいお母さんへ」「わが子をよい子にしたいお母さんへ」を基に、加筆、訂正しながら進めます。子育てはどうあるべきかを、いっしょに考えてまいりましょう。

● 心のひがんだ子にするには

学校のテストで悪い点数をとってくるたびに、何か失敗をしでかすたびに、「おまえは、ほんとうにダメな子だねぇ、先が思いやられるわ、まったく」と言ってやることです。子どもは期待通りにダメな子になってくれます。ぼくは生まれつきダメなんだ、わたしはやっぱりダメなんだわと思いこむようになり、頭をもたげることにあきらめてしまうからです。勉強がきらいな子になってくれるだけではありません。しだいに、仲間はずれにされ、心のひがんだ子どもにもなってくれます。
こんなことではなまぬるい、もっと早く子どもをダメにしたいときはこう言います。「そんなこともわからないの? 頭が悪いわね、少しバカじゃないの」 子どもはどんどん、ダメでバカになってくれます。

○ 何か買ってほしいとわめく子に

基本的には、子どもに取り合わない、きびしい態度が必要です。子どもがどんなに泣きわめいても、泣きやむまで待つのもよいでしょう。小さい子なら、グイとかかえて連れ去るのもよいでしょう。人前だからそんなことをしてはみっともないと思ってはいけません。泣きわめくのは、子どものひとつの知恵です。どんなに泣きわめいても、必要でないものは買ってもらえないことを、子どもに早くさとらせるべきです。「そのかわり、あれを買ってあげるね」「お家へ帰ったら、あれをしてあげるからね」といってなだめるのもよくありません。泣くことによって、子どもの要求を少しでも通させることになってしまいます。親の毅然とした態度を、こういう時こそ発揮しなくてはなりません。

ごく最近も、大きくふくらんだイメージ体験をしました。今年の2月ごろ、話題になっていた「ダビンチコード」を読んだのです。キリスト教の世界を良く知らない日本人にはかなり骨の折れる作品だなと思いながらも、展開するストーリーの面白さにグイグイ引きつけられて10日ほどで読破しました。5月に映画が公開されたのは知っていましたが、あまり見に行きたい気になれませんでした。

その後、ダビンチに関する本を数冊読み、聖書の勉強もし、11月のDVD発売後すぐに購入して早速観てみました。感想は、やはりがっかりでした。本でイメージしていた世界は、相当深く大きなものでした。ところが、映像のそれは、たしかにストーリーはほぼ原作通りに展開していましたが、2時間程度で表現できる内容はたかが知れています。

一方、原作を読み終えるまでには、おそらく30時間以上も費やしたはずです。しかも、読みながら、どんどんイメージがふくらんで、私なりのダビンチコード像ができあがっていきました。このように、人のイメージする力というのは、映像をはるかに越えるものがあるということです。是非、テレビや映画などの面白さとは別に、イメージをどんどんふくらませることのできる読書の面白さを、子どもの時代に体験させてやってください。
イメージ力(想像力)は、創造力につながり、強い意志力と向上心をはぐくみ、たくましく生きる力を養ってくれるからです。

読書したり、本を読んでもらったりすると、どのようなことが展開するのかを少し掘り下げて考えてみましょう。読んだり聞いたりしたその言葉から、人は独自のイメージを創りあげます。さまざまな体験をもとにしたイメージです。幼児はその体験が少ないので、さし絵が必要になります。絵本の1シーンを見せ、次のシーンを思い浮かべることを容易にするためです。そのうち文字や言葉だけで、自由に想像することができるようになるわけですが、これはくりかえしの訓練をしないとむずかしい作業です。子どもの成長にあわせ、あきさせない工夫をしながら、段階的にすすめていく工夫をしてみてください。

何をいおうとテレビは、イメージをそのまま見せてしまいますから、このイメージ力が育ちません。私は、子どもにテレビを見せるなというつもりはありません。テレビ文化のおかげで、どんなに子どもの世界は豊かになったか、はかりしれないものがあるからです。しかし、テレビの世界とは別に、本の世界という、まことに奥深い、面白い世界があることを幼児期に是非体験させて欲しいのです。相手を思いやれるやさしさ、やつけられた気持ちをイメージできる子が増えれば、陰湿ないじめは今よりずっと少なくなるにちがいありません。

ラジオを聞くことも、読書と似た体験をすることになりました。まだ私が小学生のころ、NHKラジオで夕方放送していた「白鳥の騎士」「笛吹童子」「紅孔雀」といった15分ほどの放送劇に夢中になっていたことがありました。音が時折消えかかる受信機のスピーカーにかじりつくように、ひとつの言葉も聞き漏らすまいと集中していました。ひとつの話は1年間続いていたはずですから、丸3年間は欠かさずに聞いたはずです。ある時、近くの映画館で「笛吹童子」が上映されることになりました。親にねだって、見に行かせてもらいました。感想は、何とおそまつな映画なのだろうと、がっかりした気持ちをいまだに覚えています。1年間積み重ねてきた私のイメージに、映画はとてもかなわなかったのです。(以下次回)

テレビがなかった頃は、どの家も、ひとつちゃぶ台を前にみんな集まり、おしゃべりしながら食事をするなど、貧しくとも、会話と団らんがありました。私の子ども時代を思い起こせば、食事を終えると冬はコタツに入り、みかんを食べながらトランプやいろはカルタ、時には百人一首に興じ、満ち足りた時間を過ごしたものです。夏はひとつ蚊帳に入り、ラジオを聞くのを楽しみにしていたことを思い出します。

そして、寝る前は本を読んでもらう時間。私と妹は、一冊ずつその夜に読んでもらう本を決めていて、これが日課であるかのように、父親は毎晩グリムやアンデルセンなど、心わくわくする童話や名作を読んでくれたものでした。

やがて、聞く読書から、自分自身で読む面白さを知るようになり、アラビビアンナイトの不思議な世界、ガリバー旅行記、幸福の王子、クリスマスキャロルのような人生を深く考えさせてくれる物語にふれました。さらに放送劇でその面白さを知った「次郎物語」(下村湖人) や「宮本武蔵」(吉川英治)、担任の先生に勧められた「ドリトル先生」旅行記シリーズを小学校高学年の頃に読破していきました。そこから得た感銘は、この世の奥深さを知ると同時に、しっかり勉強して大人になれば、もっと面白いことにたくさん出会えそうだという、大きな夢や希望につながったような気がするのです。(以下次回)

朝から晩までテレビの勧善懲悪ストーリーを見続け、やっつける疑似体験を何度もしているうち、これを試してみたくなります。学校へ行くようになり、ちょっとこいつは弱そうだなと思えば、手をだしてしまいます。幼児の頃に他の子どもと触れ合う体験をしていれば、やられた時の悔しさやイヤな気持ち、やっつけた時も快感ばかりでなく心の痛むことがあることを知っています。そんな体験をしていないまま、いじめた子が抵抗しなければ、これは面白いとばかりエスカレートしていきます。

やられた子どもはしょげかえります。ほしいものは何でも買ってもらえ、かわいいかわいいと甘やかされて育ってきていますから、いきなり友だちに暴力をふるわれたり、仲間はずれにされたりすると、免疫がないのですぐにまいって、学校へ行きたくないといいます。その理由を知った親も親で、一方的に怒り狂い、いじめた子の親と話し合うでもなく、担任の教師や学校を通り越して、教育委員会に怒鳴りこむというのですから、嘆くより、あきれてしまいます。

それでも小学校低学年で発覚したらまだよい方で、高学年や中学生になってからではだんだん始末におえなくなります。親にも友だちにも言えず、内にとじこもってかたくなになり、自分には生きる価値や意味がないのではないかとまで自分を追い込み、ついには自殺という最悪の道を選んで実行してしまうのです。なんと救いようのない悲しい結末なのでしょうか。(以下次回)

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