児童英語・図書出版社 創業者のこだわりブログ

30歳で独立、31歳で出版社(いずみ書房)を創業。 取次店⇒書店という既成の流通に頼ることなく独自の販売手法を確立。 ユニークな編集ノウハウと教育理念を、そして今を綴る。

2006年11月

● 「またあの小僧がきてる」といわれるほどの図書館通い

五重塔の建立に命をかける、二人の大工の情熱と争いと友情を描いた代表作『五重塔』で知られる露伴は、生れつき体が弱く、幼年期には医者からなんども見はなされたほどでした。5歳で手習いを始めたころ目を悪くして、ほとんど盲目同様になってしまったこともありました。しかし、早くから学問を好み、6歳をすぎたころから塾へ通って漢書の素読を始めました。
9歳で東京師範の付属小学校へあがったときは、数学がたいへん得意でした。でも、とくに数学だけを勉強したというのではなく、ひまさえあれば『弓張月』『田舎源氏』『白縫物語』などの草双紙 (絵入りの小説) を続みふけりました。勇ましくも悲しい歴史物語が、露伴の小さな胸をふるわせて離さなかったのでしょう。
12歳で東京府立第1中学校へ進み、1年後には東京英学校へ変りました。ところが父が下級官吏だったために学費がつづかず、中途で退学しなければなりませんでした。
しかし、露伴は学校で学べなくなったことを悲しみもせず、かえって自分の力で勉強にうちこんでいきました。勉強の場は、お茶の水にあった東京図書館でした。毎日のように図書館へ行っては、図書館員に 「また、あの小僧が来てる」 と言われるほど、さまざまな漢書、小説、仏典などを借り出して読みつづけたのです。
17歳のとき、生活のため電気技手として北海道へ渡りました。でも、漢書や小説に夢中になるうちに、生活費を得るための電気技手の仕事がいやになり、2年後に東京へ舞いもどりました。そして、こんどはもう迷うことなく作家の道へ進んでいったのです。

幸田露伴(1867~1947)──男性的、理想主義的な作風で、尾崎紅葉とならび称せられた作家。

詳しくは、いずみ書房のホームページにあるオンラインブック「せかい伝記図書館」をご覧ください。なお、「せかい伝記図書館」では、世界と日本の歴史に名を残した最重要人物100名の「伝記」、重要人物300名の「小伝」をすべて公開する計画です。「伝記」終了後、ひきつづき幸田露伴を含む「小伝」に移りますので、ご期待ください。

● 豊かさと貧しさを共に体験

主人公のノラが、最後に、妻や母であるまえに1人の人間として生きることを求めて家を出て行く『人形の家』。この3幕の社会劇で世界的に名を高めたイプセンは、ノルウェーの小さな港に生まれました。父は、裕福な貿易商人でした。
ところが、イプセンが8歳のとき、父は投機の失敗で家は破産、一家は、町の中心にあった大きな家を去って、郊外の小さな家に住むことになりました。すると、町の人たちの目はいっぺんに冷たくなり、父は、そんな町の人びとに腹をたてて、家にとじこもるようになってしまいました。
イプセンは、ラテン語学校へ行くことさえできず、小さな私塾のような学校へ通うのがやっとでした。友だちと遊ぶこともなく、家族ともほとんど口をきかず、いつも孤独でした。学校の成績も目立たず、絵だけが少しすぐれていました。そこで画家になることを考えましたが、家の貧しさがそれを許しません。いつも 「ぼくは、どうなるのだろう」 という不安を抱きながら、古材木を集めてきては建築家のまねをしながら小さな自分の部屋で遊びました。
15歳で町の薬屋へ徒弟奉公にでました。でも、このころから社会を風刺的に見るようになり、やがて劇作家の道へ進んで行きました。青年時代も水しか飲めないほどの苦しい生活を送り、このような少年時代からの苦しみが、北欧最大の劇作家への心を育てていったのです。

イプセン(1828~1906)──苦しみの中から社会を批判する心を育てたノルウェーの劇作家。

詳しくは、いずみ書房のホームページにあるオンラインブック「せかい伝記図書館」をご覧ください。なお、「せかい伝記図書館」では、世界と日本の歴史に名を残した最重要人物100名の「伝記」、重要人物300名の「小伝」をすべて公開する計画です。「伝記」終了後、ひきつづきイプセンを含む「小伝」に移りますので、ご期待ください。

● 神経質で、しょっちゅう自家中毒にかかる

「潮騒」 「金閣寺」 などの名作で知られる三島由紀夫は、子どものころ、たいへん、ひ弱でした。生まれつきではなく、あまりにも祖母にかわいがられすぎたのです。しょっちゅう自家中毒の症状を起こしては、みんなを心配させました。
6歳で学習院へ入学しました。少し神経質な少年でしたが成績はすぐれ、放課後、命じられて教壇に立ち、先生の代わりに同級の成績の悪い子どもたちに教えたこともありました。体は弱くても、精神は人一倍強いものをもっていたのです。
勉強はもちろん好きでしたが、それよりも、もっと好きなことがありました。それは童話を読むことでした。小川未明や鈴木三重吉などの作品を見つけてきては、一人静かに、美しい世界、悲しい世界を心に描いて楽しみました。
本に夢中になることに父は反対でした。しかし、どんなに反対されても、文学に親しむことだけは捨てませんでした。初等料から中等科へ進んだころには、もう 「ぼくも小説や詩を書いてみよう」 という決心のようなものさえ芽ばえていたのですから。
13歳のときには、学習院の雑誌に作品を発表、その後は、外国の作品もむさぼり読んで、ひたすら作家への道を進んで行きました。少年時代からの夢を一筋に貫いたのです。
成人した由紀夫は剣道や空手などで体を鍛え、自分にきびしく生きながら、ほんとうの〈日本人の心〉を求め続けました。

三島由紀夫(1925~1970)──童話を読んだ楽しさを忘れず、父に反対されても文学への道を突き進んだ作家。

詳しくは、いずみ書房のホームページにあるオンラインブック「せかい伝記図書館」をご覧ください。なお、「せかい伝記図書館」では、世界と日本の歴史に名を残した最重要人物100名の「伝記」、重要人物300名の「小伝」をすべて公開する計画です。「伝記」終了後、ひきつづき三島由紀夫を含む「小伝」に移りますので、ご期待ください。

● 小学校も満足に通えず、人前で役者きどり

史上最大の劇作家といわれるシェークスピアは、イギリスのストラトフォード・オン・エーボンという小さな町に生れました。
父は、町長のような地位にまでついたことのある人物でしたが、シェークスピアが生れたときには、すっかりおちぶれていて、農産物や雑貨を扱う商売をしていました。
したがって、家は貧しく、シェークスピアが通ったのは、そのころ文法学校とよばれた小さな小学校だけでした。この小学校ですら満足に行けずに、中退してしまったとも言われています。
少年時代のことはほとんど記録が残っていませんが、肉屋へ奉公にだされたとき 「牛が殺されるときは、いつも、もったいをつけて一席ぶった」 という逸話があります。人前で役者気取りになるようなところが、早くからあったのかもしれません。
18歳で8歳年上の女性と結婚しましたが、このあと25歳くらいまでのことも、はっきりわかっていません。ロンドンに出て、劇場の客の馬の番人をしていたことが伝えられており、27、8歳のころには、名の知れた役者・劇作家になっていました。
その後、自分も舞台に立ちながら 「ハムレット」 「ロミオとジュリエット」 「べニスの商人」 「リア王」 などの名作を書きつづけました。シェークスピアの作品は、現在でも多くの劇場で上演され、多くの人を楽しませています。

シェークスピア(1564~1616)──今もなお親しまれている数多くの名作をのこしたイギリスの劇作家、詩人。

詳しくは、いずみ書房のホームページにあるオンラインブック「せかい伝記図書館」をご覧ください。なお、「せかい伝記図書館」では、世界と日本の歴史に名を残した最重要人物100名の「伝記」、重要人物300名の「小伝」をすべて公開する計画です。「伝記」終了後、ひきつづきシェークスピアを含む「小伝」に移りますので、ご期待ください。

● 木登りもできない弱虫でも、学ぶことはだれよりも好き



結核で35歳の短い生涯を終えた子規は、子どものころから、ひよわでした。仲間とけんかをすれば、きまって負け、いつもしくしく泣きながら家へ帰っていきました。

木のぼり遊びのときは、どうしても自分だけのぼれず、みんなに笑われました。くやしくて必死にのぼろうとしても、腕の力が弱く、両手で木にしがみついても、ずるずるとずり落ちるばかりだったのです。

しかし、学ぶことはだれよりも好きでした。それに、驚くほどもの覚えがよく、まわりの人びとに早くから将来を期待されました。

11歳のとき、はじめて漢詩を作り、それからは毎日1句ずつ作って、土屋文明 (歌人) の指導を受けました。また、なによりも文学が好きで『源平盛衰記』『水滸伝』『八犬伝』などを早くから読み、12歳で中学校に入ってからは仲間と回覧雑誌を作って、多くの詩文を発表し、批評しあいました。自分の書いたものへの批評は、どんなにきびしいものでも受けとめて、自分をみがいていこうとしたのでしょう。
15歳のころには、当時の自由民権運動にひかれて、政治家を夢みたこともありました。しかし、やがて自分から中学校を退学すると、郷里の松山をあとにして上京。大学予備門 (第一高等学校) に入って哲学や短歌を学び、18歳のときには早くも俳句を発表して、俳人への道を歩みはじめました。でも、もうこのころから結核による喀血がはじまっていました。

子どものころ子規はけんかに負けてはいましたが、けっして自分自身には負けず病気と闘いながら、強く生きていったのです。



正岡子規(1867~1902)──病床に臥せながらも文学活動を続け、写生を重んじた明治期の俳人・歌人。



詳しくは、いずみ書房のホームページにあるオンラインブック「せかい伝記図書館」をご覧ください。なお、「せかい伝記図書館」では、世界と日本の歴史に名を残した最重要人物100名の「伝記」、重要人物300名の「小伝」をすべて公開する計画です。「伝記」終了後、ひきつづき正岡子規を含む「小伝」に移りますので、ご期待ください。

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