児童英語・図書出版社 創業者のこだわりブログ

30歳で独立、31歳で出版社(いずみ書房)を創業。 取次店⇒書店という既成の流通に頼ることなく独自の販売手法を確立。 ユニークな編集ノウハウと教育理念を、そして今を綴る。

2006年10月

● 寺へ出された弟との別れに声もでなかった

少年時代の崋山は、なにかひとつ考えはじめると、そのことだけに夢中になってしまう子どもでした。考えごとをしながら歩いているうちに、大名行列を横ぎろうとして家来にとがめられ、あやうく命をおとしてしまいそうになったことがあります。勉強ずきのあまり、湯をわかしながら、かまどの火明かりで本を読んでいるうちに着物をすっかりこがして、母にしかられたこともあります。
しかし、崋山は、心のやさしい少年でした。着物をこがしたときも、よそへ借金に行って寒い雪のなかを帰ってくる母のために、足を洗う場をわかしてやろうとしていたのです。
そんな崋山にとって、いちばん悲しかったのは、家が貧しかったので、すぐ下の弟が3歳のときに寺へ小僧にだされ、つづいて、その下の弟もよその家へ養子にやられてしまったこと。知らない人に手をひかれて、こちらをふりかえりふりかえり行ってしまう弟を見送るときは、声もでないほど悲しくてしかたがありませんでした。
でも、大名行列の家来にとがめられたり、家が貧しくて弟たちと別れ別れにならなければならなかったことは、自分へのきびしいムチになりました。しっかり学問をして大名からでもバカにされない人間になろうと、すぐれた画家になって、苦労している父母や弟たちを助けてやろうと決心した崋山は、人いちばい努力するようになっていったのです。

渡辺崋山(1793~1841)──画家・思想家として日本の夜明けにむかって強く生きぬいた江戸時代末期の武士。

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http://www.izumishobo.co.jp/onlinebook/c02_denki/kazan/index.html

● 空想ばかりして人に笑われ、学校はいつも長続きしなかった

アンデルセンは、6歳で、貧しい家の子どもだけが通う学校へ入りました。でも、すぐ、やめてしまいました。そして、その後2回かわった学校も、やはり、長続きしませんでした。
勉強がきらいだったのではありません。いろいろなことを、ひとりで空想するのが好きで、女の子に 「ぼくが大きくなったら、ぼくのお城の、乳しぼりにしてあげるよ」 などと言っては、みんなに笑われ、学校へ行くのが、いやになってしまったのです。
くつ屋だった父は、アンデルセンが11歳のときに亡くなり、家は、ますます貧しくなりましたが、その父が 「自分の気のすすまない道へすすんではいけない。自分のなりたいと思うものになることが、たいせつだよ」 と言いのこしてくれたのが、しあわせでした。
アンデルセンは、父を失ったあと、りっぱな芸術家になる夢を、いっそう強くもちつづけ、本を読んだり、人形劇をしたり、歌をうたったりして、すごしました。本で、いちばん好きだったのは、シェイクスピアの 「ハムレット」 や「リア王」 です。10歳をすぎたばかりの少年に、こんなむずかしい劇の本のほんとうの内容はわかりません。しかし、物語にでてくる魔法使いや、ゆうれいが、おもしろく、やがて、自分でも、王さまや魔女の物語を書いては、人に読んで聞かせました。ただ、母には心配ばかりかけつづけ、20歳をすぎて母が亡くなったときは、親不幸をわびて、いく日も泣きました。

アンデルセン(1805~1875)──幼いころから魔法使いなどの物語を書いて芸術家への夢を追いつづけた童話の王さま。

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● ひとりで山にのぼり、りっぱな人間になるように祈る

林蔵は、貧しい農家に生まれましたが、幼いころから 「人のために、りっぱな仕事をする人間になりたい」 と、思っていました。
12歳のときのこと、村の人たちにつれられて筑波山へ行きました。すると、夜中に、旅館は大さわぎになりました。林蔵が、いなくなってしまったのです。みんなは、夜、外へでて、てんぐにでも、さらわれたのではないかと心配しました。
ところが、朝になると、林蔵は、なにもなかったような顔をして、もどってきました。手のひらを見ると、黒くすすけて、やけどをしています。「どこへ行ってたんだ」 と聞けば 「立身岩で、お祈りをしてたんだよ」 と答えて、けろりとしています。
筑波山のなかに、立身岩とよぶ高さ9メートルの大きな岩が立っていて、この砦の前で人に知られないようにして熱心に祈れば、人びとにみとめられる、りっぱな人間になれると、いわれていました。林蔵は、こっそり、ここへきて、手のひらに油をたらし、その油につっこんだ燈しんに火をともして、ひと晩じゅう、一心に、お祈りをしてきたのです。
やがて、15歳を数えるころになった林蔵は、常陸国 (茨城県) から東京へでて、測量術にすぐれた地理学者のもとで学ぶようになり、日本各地を南から北へ西から東へ歩きつづけながら、探検家への夢をひろげていきました。

間宮林蔵(1775?~1844)──樺太が島であることをはじめて明らかにして、いまも世界地図に間宮海峡の名を残す探険家。

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● 大理石のカケラをおもちゃにしてあそぶ

ミケランジェロは、フィレンツェの警察長官の子として生まれながらも、生後まもなく、親戚の石彫工の家へ里子に出されました。母のからだが弱く、すでにミケランジェロの上に、1歳半になる手のかかる子どもがいたからです。しかし、およそ4年のあいだ石彫工のもとへあずけられたことは、母親の愛にはめぐまれずに終わった (母はミケランジェロが5歳のときに死亡) としても、その後のミケランジェロのためには幸いでした。里子に出されていた幼年時代に、大理石のかけらをおもちゃにして育ったことが、のちの大芸術家を生む契機となったのです。このことは、ミケランジェロ自身、「わたしの彫刻家としての天分は、里親の乳を飲んだからだ」 と語っています。
6歳で小学校に入学しました。ところが、いつも素描 (デッサン) にばかり熱中して、教師や父を怒らせました。このことも 「素描に熱中したために父や叔父たちからよくは思われず、しばしば、ひどく打たれた。父や叔父は芸術家という仕事をひどくきらって、家の中から芸術家を出すことは恥だと思っていた」 と語っています。
少年時代のミケランジェロはひどく孤独でした。でも、13歳のときその孤独にうち勝ちました。頑固に決意をまけず、学業を捨てて芸術家のもとへ弟子入りして、彫刻家への道を歩みはじめたのです。そして決意をまげなかったことが、ミケランジェロを世界の芸術家へとみちびいていきました。

ミケランジェロ(1475 1564)──少年時代の孤独をのりこえ、つねに 「生きている人間」にとりくみつづけた大芸術家。

詳しくは、いずみ書房のホームページにあるオンラインブック「せかい伝記図書館」をご覧ください。近日中にアップする予定ですので、ご期待ください。

● まま母にしかられながら子守り

一茶というのは、句をよむときの名まえです。ほんとうの名は、信之 (のぶゆき) といいました。3歳のときに母がなくなり、信之は祖母に育てられました。祖母は、かわいがってくれました。しかし、村の子どもたちからは 「親のない子は、どこでも知れる。つめをくわえて、かどに立つ」 と、からかわれ、いつも、ひとりぼっちでした。このころのさみしさは、のちにつくった 「われと来て 遊べや 親のないすずめ」 という句に、よくあらわれています。
7歳になったとき、新しい母がきました。でも、信之は、どうしても、なつくことができず、この新しい母からは、かわいがってもらえませんでした。弟の仙六が生まれると、ちいさな背におぶって子守りをさせられ、仙六がむずかって泣きだすと 「お母さんを困らせようと、わざと、おまえが泣かしたんだろう」 と、しかられました。
これを見て心配したのは父です。父は 「しばらく、お母さんと別れてくらしたら、仲がよくなるかもしれない。江戸へでてみたらどうだ」 と、すすめてくれました。
14歳になった信之は、思いきって、江戸へでました。そして、他人の家の軒下に寝るような苦しみをつづけ、やがて、苦しい生活の支えとして、俳句を学ぶようになっていきました。

小林一茶(1763~1827)──3歳で母に死に別れ、14歳で江戸にでて、心やさしい、そぼくな歌を読みつづけた俳人。

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