児童英語・図書出版社 創業者のこだわりブログ

30歳で独立、31歳で出版社(いずみ書房)を創業。 取次店⇒書店という既成の流通に頼ることなく独自の販売手法を確立。 ユニークな編集ノウハウと教育理念を、そして今を綴る。

2006年10月

● 友だちに遊んでもらえず ひとりで植物さがし

父も母も小さいときに亡くして祖母に育てられた富太郎には、友だちができませんでした。そのうえ、みんなから 「西洋ハタットオ」 とよばれて、からかわれました。富太郎が生まれた高知県あたりでは、バッタのことをハタットオとよび、やせて骨のでっぱった富太郎のからだつきが、すこしかわったバッタに、にていたからです。
富太郎は、酒屋だった牧野家のあとつぎでしたから、祖母には、たいへん、かわいがられました。しかし、どんなに祖母にかわいがられても父も母もいないうえに、友だちにもあそんでもらえないのでは、さみしくてしかたがありません。富太郎は、小学校へあがるまえから、さみしさを忘れるために植物さがしに、むちゅうになりました。そして、植物をさがして野山をあるいているうちに、からだもじょうぶになっていきました。
9歳のときには寺小屋へ、10歳のときには名教館という塾へかよって勉強してきた富太郎は、このころ日本ではじめてできた小学校へ12歳で入学しました。そして、わずか2年で、いちばん上の学年まですすんでしまうと、もう、それで学校へ行くのをやめて、それからのちは、本を読んで、自分ひとりで勉強していきました。この自分で学ぶ努力が、富太郎を大植物学者にしたのです。

牧野富太郎(1862~1957)──自分の力で勉強をつづけて、1000種におよぶ新種の発見に生涯をささげた植物学者。

詳しくは、いずみ書房のホームページにあるオンラインブック「せかい伝記図書館」をご覧ください。近日中にアップする予定ですので、ご期待ください。

● 炭鉱の蒸気機関をながめながら、粘土で模型をつくって遊ぶ

スチーブンソンの父は、炭鉱の坑内にわきだす水を外にくみだす蒸気機関の、かまたきでした。家は、1軒の家に、よその3家族といっしょに住まなければならないほど貧乏でしたから、スチーブンソンは学校へも行かせてもらえません。学校へ行くどころか、友だちと遊びたいのもがまんしてもはたらかなければなりませんでした。
少年スチーブンソンの仕事は、牧場の番でした。1日じゅう、ヒツジを見まもっているのは、たいくつです。だから、いつも、遠くに見える炭鉱の蒸気機関ばかりながめていました。シュッシュ、シュッシュ、シュッシュ、シュッシュ。まるで生きもののように動いている蒸気機関をながめていると、これを動かしている父がうらやましくてしかたがありません。そこで、スチーブンソンは、粘土をとってきては、牧場の草の上で、いくつもいくつも、蒸気機関の模型を作りました。
14歳になった年から、炭鉱ではたらくことになりました。父の助手です。顔や手がまっ黒になっても、蒸気機関のそばにいられるだけで、しあわせです。18歳になると、夜の学校へ通って 「そんなに大きいのに、字も読めないの?」 と笑う年下の子どもたちと机を並べてABCを学び、やがて、本が読めるようになると自分の力で蒸気機関の研究をつづけて、世界の「鉄道の父」 への道を、まっしぐらに進んで行きました。

スチーブンソン(1781~1848)──小さいときから蒸気機関に興味をもち、自分の力で勉強をつづけて蒸気機関車を発明した鉄道の父。

詳しくは、いずみ書房のホームページにあるオンラインブック「せかい伝記図書館」をご覧ください。
http://www.izumishobo.co.jp/onlinebook/c02_denki/stebnson/index.html

● 習字を書いていると、いつのまにか字が絵になっていた

雪舟は、7歳か8歳のころ、生まれた家の近くの寺に小僧としてあずけられ、坊さんになる修業をはじめました。
ところが、しばらくすると、坊さんになる勉強には、あまり身がはいらなくなってしまいました。習字を習っていると、いつのまにか、字が絵になってしまうのです。
ある日雪舟は、とうとう、きびしい罰をうけました。こらしめのために寺の本堂の柱に、くくりつけられてしまったのです。
雪舟は、すぐ絵をかいてしまう自分が悪いとわかっていましたから、はじめは、がまんしました。でも、夕方ちかくになってくると、だれもいない本堂にひとりぼっちでいるのがさみしく、いつのまにか涙をこぼしはじめました。
やがて、そこへ、そろそろ雪舟を許してやろうと、おしようさんがやってきました。すると、雪舟は、うつむいていっしょうけんめいに足の指を動かしています。おしょうさんは、ふしぎに思って近づいてみました。そして、思わず 「あっ」 と声をあげてしまいました。雪舟の足もとに、1匹のネズミがいたからです。
ところが、ネズミは動こうとしません。よく見ると、雪舟が床に落ちた涙をすみのかわりにして、足の指でかいたネズミです。
それからというもの、おしようさんは雪舟が絵をかいても、もう、けっしてしかりませんでした。

雪舟(1420~1506)──少年時代から墨で絵をかきつづけ、生涯をかけて日本の水墨画を完成させた画僧。

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● 寝るところもなく、公園のベンチや道ばたで夜を明かす

チャップリンの両親はまずしい旅芸人でしたが、チャップリンが6歳のときに父が亡くなり、7歳のときには、母が苦しい生活のために精神病にかかって、ときどき、病院へ入院するようになってしまいました。
母が入院しているとき、あとにのこされたのは、チャップリンと兄のシドニーのふたりきりです。チャップリンは、母のことを思うと悲しくて、あしたの生活のことを考えると心ぼそく、小さなアパートの屋根裏の暗い部屋で、兄を見つめながら涙をながしました。
はじめのうちは、アパートの管理人のおばさんが、パンやスープをもってきてくれましたが、それも、わずかなあいだでした。ふたりは、床屋の手つだいをしたり、マーケットの売り子をしたりして、いっしょうけんめいに働きました。でも、食べるのがやっとです。アパートの部屋代は、とても払えません。そんなとき、ふたりは、寝るところもなくなって、公園のベンチや道ばたで、夜をあかしました。
やがて、母の病気はよくなり、まずしくても、母子3人いっしょにくらせるようになりました。そして12歳になったとき、やっと、チャップリンに幸せがおとずれました。母が、むかし歌手だったころの知りあいにたのんでくれたおかげで、「シャーロック・ホームズ」という劇の子役に出演することができたのです。母のやさしさに心から感謝したチャップリンは、5年後には、こんどは兄のシドニーのおかげでカルノ一座という名高い劇団に入ることができて、世界の喜劇王への道を歩んでいきました。

チャップリン(1889~1977)──山高帽、だぶだぶのズボン、大きな靴で世界じゅうの人びとを笑わせた喜劇王。

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● 目がみえなくなっても悲しい顔をせず、耳から学び続けた

保己一は、5歳のころ、高い熱がつづく病気で目が見えなくなってしまいました。しかし、目が見えなくなっても、いつも明るくふるまいました。わが子を盲目にしてしまった両親の悲しみが、耳から聞くことばで、よくわかったからです。
保己一は、両親の 「目は見えなくても、人に負けない人間にしてやらなければ」 という願いで、やがて、和尚さんが開いている寺小屋へ、かよいはじめました。目は見えないのですから、自分で本を読むことも、字を書くこともできません。じっと、すわって、和尚さんの話を聞くだけです。ところが、しばらくすると、和尚さんをおどろかせてしまいました。和尚さんが、歴史物語の「太平記」を読んで聞かせて記憶をたしかめてみると、保己一は、ひとこともまちがえずに、すっかり暗しょうしてみせたのです。
保己一は、それからも、耳から話を聞いて学問をつづけながら、たとえ目は見えなくても自分のことは自分でする、しっかりした少年に育っていきました。11歳のときには、やさしかった母が亡くなって、いく日もいく日も泣きつづけましたが、まもなく、気をとりなおして 「あの世の母がよろこんでくれる人間になろう」 と決心すると江戸へ──。そして、想像もできないような記憶力と努力で 「群書類従」 という全部で670冊の本を出版して、日本じゅうの人びとをあっといわせました。

塙保己一(1740~1821)──すばらしい記憶力と努力で大事業をなしとげた、江戸時代の盲目の国学者。

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