児童英語・図書出版社 創業者のこだわりブログ

30歳で独立、31歳で出版社(いずみ書房)を創業。 取次店⇒書店という既成の流通に頼ることなく独自の販売手法を確立。 ユニークな編集ノウハウと教育理念を、そして今を綴る。

2006年09月

● ヘビをつかまえてきて喧嘩、寺子屋ではいたずらばかり

少年時代の退助には、後藤象二郎という幼なじみの友だちがいました。象二郎も、のちに、明治維新のために活躍した人です。退助と象二郎は、たいへん仲がよいのに、どういうわけか、いつも、けんかをしました。けんかになると、退助は、象二郎がいちばんきらいなヘビを、つかまえてきて、びゅんびゅんふりまわしながら 「おい、これでも、くるかっ」。すると、象三郎は、家へかけこんで、おけを、かかえてきます。肥えの入ったおけです。そして、ひしゃくですくった肥えを、退助めがけてふりまきながら 「どうだっ、おまえこそ、これでも、くるかっ」。ヘビでおどかそうとしても、これにはかないません。退助はヘビを片手に、にげまわりました。
退助は、このように、たいへん、わんぱくでした。夏、家にいたおばさんが、雷をこわがって部屋のすみでふるえていると、家じゅうのそろばんを、すこしはなれたろうかでゴロゴロころがして、おばさんを、よけいにこわがらせたこともあったということです。
でも、こんなことをしても、母には、あまり叱られませんでした。
「男の子は、わんぱくでも元気なほうがいい」 というのが、母の考えだったからです。寺小屋へ行っても、いたずらをしては先生に叱られるばかりでした。しかし、本だけはたくさん読んで、人間の自由をたいせつにする心を、自分で育てていきました。

板垣退助(1837~1919)──「板垣死すとも自由は死せず」という信念で、自由民権運動の先頭にたって活躍した明治時代の政治家。

詳しくは、いずみ書房のホームページにあるオンラインブック「せかい伝記図書館」をご覧ください。
http://www.izumishobo.co.jp/onlinebook/c02_denki/itagaki/index.html

● 誰からでも学べる、まわりの人はみな先生

孔子は、小さいときに父を亡くしましたが、その父は、戦争で手がらをたてて貴族となった、勇かんな武士でした。
しかし、孔子は、父のあとをついで武士になる気持ちは全くなく、少年のころから、自分は学問の道へ進むことを心にきめていました。13歳のころから学校へ行きはじめました。いまからおよそ2500年も前のことですから、学校といっても、村の年よりたちから、村に伝わっている古い話や、人間として守らなければいけないことなどを聞くだけの、ほんとうにそまつな学校でした。
でも、こんな学校で学んだことは、孔子には、かえってしあわせなことでした。年よりから話を聞くほかは、どんなことも自分の力で学んでいくことのたいせつさを、教えられたからです。
孔子は、村の人たちが 「しつこく聞かれるのには、まったくかなわないよ」 と逃げだしてしまうほど、だれにでも、いろんなことを聞きました。孔子にとっては、どんな人からでも、なにかを学ぶことができ、自分のまわりの人たちみんなが、先生だったからです。
記憶しておく知識よりも、どうしたら人間としてりっぱに生きていけるか、ということをたくさん学び、学んだことは、すぐ実行していきました。そして、いつも自分からすすんで人の意見を聞き、自分の行ないがまちがっていれば、すぐ、それを正し、やがて、自分の信じたことを、多くの人びとへ説くようになっていきました。

孔子(BC551~BC479)──国と人との正しい道を説きつづけて「論語」を残した中国の学者、思想家。

詳しくは、いずみ書房のホームページにあるオンラインブック「せかい伝記図書館」をご覧ください。
http://www.izumishobo.co.jp/onlinebook/c02_denki/koushi/index.html

● 自分に厳しい努力を重ね、ひとつひとつを成就

幼いときから、なによりも本が好きだった白石は、3歳のときには、もう字をおぼえ、6歳になると、むずかしい詩を暗記して、みんなをおどろかせました。
武士だった父のいいつけで、9歳のときから、文字の手習いを始めました。人から教わるのではありません。紙に、なんどもなんども書いて、1字1字、文字をおぼえていくのです。
白石は 「昼のあいだに3000字、夜は1000字だ」 と決心して、毎日、4000字ずつの手習いです。ところが、夜おそくなると、眠くなってしまいます。目がつぶれそうになって、文字がかすんできます。でも、4000字が終わるまでは、ぜったいにくじけず、眠くなったときは、どんなに寒い夜でも頭から水をかぶって、がんばりつづけました。
白石は、ものおぼえのよい少年でしたが、生まれつきの天才だったのではありません。
「苦しいことに負けてはだめだ。いちど決心したことは、けっしてくじけずに、さいごまでやりとおせ」。
父の、この教えを守り、人のなん倍も、なん十倍も努力をかさねて、ひとつ、ひとつ、ものごとをなしとげていったのです。
13歳になったころには、父のかわりに、あるときは父の仕える藩主のかわりに、たいせつな手紙を書くほどになりました。

新井白石(1657~1725)──人一倍の努力に努力を重ねて学問をつづけ、将軍に仕えて正しい政治をすすめた江戸時代の学者。

詳しくは、いずみ書房のホームページにあるオンラインブック「せかい伝記図書館」をご覧ください。
http://www.izumishobo.co.jp/onlinebook/c02_denki/arai/index.html

● ウソを見破る母の冷徹なまなざしに……

ガンジーが7歳のころのことです。ある日、はじめてイギリス人を見たガンジーは、インド西部の小さな国の総理大臣をしていた父にたずねました。「あの人たちは、インドへ来てなにをしているの?」
父は、はじめはインドと貿易をしようと思ってやってきたイギリス人が、もう300年もインドにいて、とうとう、インド全土を支配するようになったことや、イギリス人を追いはらうためにインドの軍隊がどんなに戦っても、イギリスの軍隊にはかなわなかったことなどを教えてくれました。
(イギリス人は、どうしてそんなに強いのだろう) ガンジーは考えつづけました。そして、ひとつのことを考えつきました。(イギリス人は、肉を食べるから強いのだ) このころのインド人は、動物は神のつくりたもうたものと信じて、肉を食べなかったのです。
ガンジーは、こっそり肉を食べはじめました。ところが、外で肉を食べた日は腹がすかず、家の夕食を食べる気がしません。そこで 「ぼく、気分が悪くて食べられません」 などと、うそを言いつづけました。でも、うそをついたとき、じっと自分を見つめる母の目が、どうしても気になってしかたがありませんでした。
「母にうそをつくのは、やはりいけないことだ」
ガンジーは、肉を食べるのをやめました。そして、やがてイギリスの大学へ入って法律を学び、インドの独立のために戦いつづける大いなる魂 (マハトマ) の男へと成長していきました。そのごは、いつも母の目を思いだして、生涯、肉を口にしなかったということです。

ガンジー(1869~1948)──生涯を祖国独立のためにささげたインドの指導者。

詳しくは、いずみ書房のホームページにあるオンラインブック「せかい伝記図書館」をご覧ください。
http://www.izumishobo.co.jp/onlinebook/c02_denki/gandhi/index.html

● 夜ひとりで山奥へ入り、木や岩を敵にして竹刀をふった

義経は、小さいころの名を牛若といいました。牛若が生まれたつぎの年に、父は、平氏との戦い (平治の乱) にやぶれて、殺されてしまいました。そして、牛若は、母と、今若、乙若のふたりの兄といっしょに、平氏の大将平清盛のもとにとらわれの身となり、やがて6歳になると、京の都の北にある鞍馬山の寺へあずけられました。清盛に 「武士になってはならぬ」 と、いいわたされたのです。
ところが牛若は、ある日、自分が源氏の大将の子であることを、はじめて知りました。父が死んだとき、兄の義平、朝長も殺され、もう一人の兄の頼朝は伊豆へ流されていることも知りました。
「いつか、きっと、父や兄のかたきを討たなければならぬ」
牛若は、平氏をたおすことを心にちかいました。そして、僧になる勉強をしているふりをしながら、ひそかに、剣のけいこを始めました。夜、寺をそっとぬけだして鞍馬山の奥の深い谷へ入り、木や岩を平氏の武士と思って木刀をふりおろすのです。
「鞍馬山の奥で、天狗が剣術をしているそうだ」
しばらくすると、鞍馬山の人びとのあいだに、こんなうわさがひろまりました。牛若が、京の五条の橋で大男の武蔵坊弁慶をうち負かしたと伝えられているのは、このころのことです。やがて、牛若は鞍馬山をぬけだすと名を源九郎義経と改め、りっぱな武将へ成長していきました。

源義経(1159~1189)──鞍馬山でひそかに剣にはげみ、平氏をほろぼして父や兄のかたきを討った源氏の武将。

詳しくは、いずみ書房のホームページにあるオンラインブック「せかい伝記図書館」をご覧ください。
http://www.izumishobo.co.jp/onlinebook/c02_denki/yositune/index.html

↑このページのトップヘ