児童英語・図書出版社 創業者のこだわりブログ

30歳で独立、31歳で出版社(いずみ書房)を創業。 取次店⇒書店という既成の流通に頼ることなく独自の販売手法を確立。 ユニークな編集ノウハウと教育理念を、そして今を綴る。

2006年06月

10年以上にわたり刊行をし続けた「月刊 日本読書クラブ」の人気コーナー「本を読むことは、なぜ素晴しいのでしょうか」からの採録、第43回目。



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● 自分の言葉で物語を作り、自分の力で感じとる

この絵本(太田大八絵 文研出版刊)には、文章がありません。どのページをめくっても、絵ばかりです。

雨の日、赤いかさをさした女の子が、おとなのかさを一本持って歩いて行きます。駅まで、お父さんを迎えにいくのです。

ぶらんこが雨にぬれている公園の前を通り、池のふちに立ちどまって、あひるの親子をながめ、友だちに会って声をかけあい、雨にすっかりぬれた犬に会い、陸橋から線路をながめ、ケーキ屋さんやショーウインドーの人形をのぞいたりしながら、 やっと駅へ。

そして、帰りは、さっきのぞいたケーキ屋さんでケーキを買ってもらい、それをだいじにかかえて、お父さんのかさにいっしょに入って……。

これだけの話ですが、なんて、楽しい絵本でしょう。女の子のかさだけが赤く彩られ、あとのかさは、すべて黒の濃淡。ページをめくりながら赤いかさを追っていくと、それだけで、あたたかい物語が伝わってくるのです。

お母さんと子どもが向きあい、お母さんがひざの上にこの絵本を立て、「さあ、お母さんがページをめくるから、お話をつくってみましょう」 と誘いかけると、子どもは、目をきらきらさせながら 「あのね、雨がふってきたからね……」 と語り始めます。

そして、お話をつくっていくうちに、女の子のちょっぴり不安な気持や、駅でお父さんに会った時のほっとした気持、それに、お父さんのあたたかさも、家で二人を待つお母さんのやさしさも、すっかり感じとっていきます。

一人でお父さんを迎えに行く女の子の、ちょっぴりおとなになったようなうれしさも、味わいとることでしょう。

ほんとうにすてきです。話を終わった時の子どもの表情、それを見ると親のほうがうれしくなってしまいます。そして、おそらく、ほとんどの親が 「絵本はいいなあ」 と思ってしまいます。自由に創造する子どもの心の美しさと、創造の中にひたった子どもの心の高まりが、体に伝わってくるからです。

もう一つ、すばらしいことがあります。それは、文章がないからこそ、子どもは、全く自由に考え、全くすなおに想像することです。

しかも、テレビの映像のように画面が流れていくのではなく、一つのページを前にしていくらでも考えることができるのですから。「えーと、えーと」 「それからね……」 などと、つっかえながら、思いっきり想像力をふくらませます。

そして、人に読み聞かせてもらって感じとるのではなく、自分の力、自分の言葉で考えて、登場人物のやさしさやあたたかさを、自分の心の中に湧きでるままに何かを感じとります。

ある著名な作家が言っています。

「わたしは、やさしい心のたいせつさも、思いやりのたいせつさも、それから、ものを空想する力も、すべて、小学校へ上がる前に母親が与えてくれたような気がする。あれは、どんなものにも代えがたい、かけがえのないものだった」

決して言い過ぎではなく、幼児期に絵本と遊ぶことを知っている子どもは、より豊かな心を育むことができるのです。

『おおきなかぶ』『ぐりとぐら』『ちいさなねこ』『ねずみくんのちょっき』など、文章の部分をわざとかくして、子どもに話をつくらせてみるのもおもしろいでしょう。

なお、この絵本は、「絵本ナビ」のホームページでも紹介されています。http://www.ehonnavi.net/ehon00.asp?no=1641

10年以上にわたり刊行をし続けた「月刊 日本読書クラブ」の人気コーナー「本を読むことは、なぜ素晴しいのでしょうか」からの採録、第42回目。

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● マンガでは育たない豊かな心

最近は 「子どもとマンガ」 のことがあまり口にされなくなりました。
これは、子どもたちがマンガを読まなくなったからでも、こんなにマンガばかり読んでいていいのかという不安がなくなったからでもありません。
その理由の最も大きなものは 「これだけ子どもの生活に入りこんでしまったものを、批判ばかりしていてもはじまらない。質の高い作品に見られる芸術性や児童文化財としての価値をみとめ、マンガはもう子どもたちとは切り離せないものとして、とらえ直していこう」 という考えから、子どもたちの生活にすっかり受け入れられてしまったからです。
しかし、「こんなにマンガばかり読んでいていいのかしら」 という不安がなくなったのではないということだけは、十分に知っておかなければいけません。なぜなら、マンガを見ることと、物語や童話を読むこととは、やはり本質的に違うからです。
こんなことを言えば、一部のマンガ愛好家の方から文句がとんでくるかもしれません。
かりに、質のよいマンガばかり読んだとします。でも、それから得る感動は、質の悪いマンガから得るものとは違うとしても、目で、すでに描かれている絵を追いながら読みとっていくという読みの方法は、どのマンガでも同じです。
「マンガばかり読んでて」 という不安が去らないのはここです。物語や童話を読むとき、あるいは読み聞かせてもらうとき、子どもは、文学または言葉をとおして、話の主人公の姿や行動や、物語の場面や展開を、自分で想像しながら頭のなかに描いていきます。
絵本には絵の部分が多いとしても、マンガほどこまかくは描かれていません。
たとえば、以前紹介した 「ひさの星」 の絵本にしても、ひさが犬におそわれた赤ん坊を助ける場面や、川に落ちた男の子を助けだす場面などは描かれていません。ひさが濁流にのまれていくところも描かれてはいません。マンガだったら必ず描かれているはずです。
だから、子どもたちは読みながら、ひさの悲しい姿や、その悲しい場面などをいっしょうけんめい想像します。
ところどころにさし絵が入っただけの物語や童話だったら、なおさらです。子どもは、読みとった文字から、自分の頭のなかに絵を描きながら一歩一歩読み進めていく、つまり、文字や言葉のなかの目には、見えない世界を自分の頭のなかで想像しながら理解していく、これこそ、かけがえのないことなのです。
マンガの伝記が多く読まれていますが、この場合、その人の生きた軌跡や業績を知ることについてはマンガでも物語本でも同じかもしれません。しかし、知るに至るまでの思考の方法と深さには絶対的な違いがあり、だから 「マンガでは想像的に深く考える力がつきませんよ」 となるのです。
「マンガのほうがよくわかる」──マンガのすきな人は、よくこう言います。
でも、あまり考えなくてもわかるということは、せっかく人間に与えられた 「考えることの楽しみ」 を、自ら放棄しているのだということを忘れてはなりません。

ほとんどの子が小学校へあがるとマンガにとびつきます。
この時、マンガしか見ない子になるか、童話や物語も読みマンガも見る子になるかは、すべて、就学前にどれほど絵本に親しんだかにかかっています。
小学校にあがってから、「マンガばかり読む子」 「マンガしか読まない子」 になったとしたら、それは子どもが悪いのではありません。多くの場合、お母さんに責任があるのです。
就学前に絵本に親しむ機会を与えられないでいて、学校にあがったら 「どうしてマンガばかり読むのよ」 と叱られたのでは、子どもはたまりません。


本日掲載したグリム童話「おおかみと7ひきの子やぎ」は、英国レディバード社とのタイアップ企画「レディバード特選100点セット」の1点に収録されていますので、レディバッドブックスの絵と、該当部分の日本語訳を紹介してみましょう。



 




7ひきこやぎ4.5
昔、7ひきのかわいい子やぎのいる、母やぎがいました。子やぎをみんな、愛情をこめてかわいがっていました。ただ一つ恐れていたことは、いつか、おおかみが子どもたちを捕えてしまうのではないかということです。ある日母やぎは、食べものをさがしに森の中へ入っていかなければなりませんでした。出かける前に彼女は、7ひきのかわいい子やぎを呼び寄せました。




7ひきこやぎ6.7
「かわいい子どもたち」 と、彼女は言いました。「私がいない間は、おおかみが近くにこないように注意しなさい。ドアには鍵をかけておくの。もし、おおかみが入ってきたら、あなたたちはみんな食べられてしまうからね。変装してくるかもしれませんが、ガラガラ声とまっ黒な足で、おおかみだということがわかるでしょう」

子やぎは答えました。「お母さん、心配しないでちょうだい。私たちはよく気をつけます」そこで、母やぎは子やぎを家に残して森へ入っていきました。






7ひきこやぎ8.9
ドアがノックされるまでには、長くかかりませんでした。誰かが大声で叫びました。「子どもたちや、おかあさんのためにドアを開けておくれ。みんなにおみやげを持ってきたよ」
しかし子やぎたちは、そんなガラガラ声がお母さんの声であるはずがないとわかっていました。「ドアなんか開けないよ」と、みんなで叫びました。「おまえは、お母さんじゃないよ。お母さんは優しい声をしているけれど、おまえの声はガラガラだもの。おまえはおおかみだ」






7ひきこやぎ10.11
そこで、おおかみは店に行ってチョークをひと固まり買いました。声を優しくするために、それを全部食べてしまいました。彼はそれからやぎの家にもどって、ドアをノックしました。

「子どもたちや、お母さんのためにドアを開けておくれ。みんなにおみやげを持ってきたよ」と、おおかみは優しい声で言いました。






7ひきこやぎ12.13
おおかみは話しながら、窓のさんに黒い足をのせました。子やぎたちは優しい声を聞いて、最初のうちはお母さんの声だと思いました。そのとき、黒い足が見えたので叫びました。「ドアなんか開けないよ。おまえはお母さんじゃない。お母さんは黒い足をしていないよ。おまえはおおかみだ」







7ひきこやぎ14.15
この言葉を聞いて、おおかみはパン屋に走りました。「私は足にけがをした」 と、おおかみは言いました。「足に生パンをこすりつけてくれ」

パン屋はおおかみがこわかったので、言われたとおりにしました。






7ひきこやぎ16.17
次におおかみは粉屋に走りました。「小麦粉を私の足にふりかけてくれ」 と言いました。
粉屋は思いました 「おおかみは誰かをだましたいと思っているな」 そこで、彼は断りました。すると、おおかみは、「私の言うとおりにしないと、おまえを食べてしまうぞ」。 それで粉屋は恐ろしくなって、おおかみの足に小麦粉をふりかけました。






7ひきこやぎ18.19
おおかみはやぎの家にひきかえすと、3たびドアをノックしました。「子どもたちや、お母さんのためにドアを開けておくれ」 と、彼は言いました。「みんなにおみやげを持ってきたよ」

子やぎたちは優しい声を聞きましたが、まだ警戒していました。「はじめに足を見せてちょうだい」 と叫びました 「私たちにお母さんかどうかわかるように」






7ひきこやぎ20.21
おおかみは窓のさんに足をのせました。子やぎたちは白い足を見ると、ほんとうにお母さんだと思いました。彼らはドアを広く開けました、すると、そこにはおおかみが立っていたのです。






7ひきこやぎ22.23
子やぎたちは、恐れおののき、身をかくそうと走りました。1ぴきは机の下にかけ込み、2ひき目はベッドの中にとび込み、3びき目はストーブの中に、4ひき目は台所に、5ひき目は戸棚に、6ひき目は洗い桶の下に、そして7ひき目は時計の中にとび込みました。




7ひきこやぎ24.25
おおかみが子やぎたちを見つけるのには、たいして時間がかからず、次から次と、できるだけ速く子どもたちを飲み込んでしまいました。時計の中にかくれていた1番年下の子やぎだけが、おおかみに見つかりませんでした。

6ひきの子やぎを飲み込んでしまうと、おおかみは眠くなりました。彼は牧草地にはいり、木の下に横になって、すぐにぐっすり眠ってしまいました。




7ひきこやぎ26.27
まもなく、母やぎが森から家へ帰ってきました。なんという光景が目にうつったことでしょう。家のドアは広く開いたままでした。テーブルもいすもひっくり返されていました。洗い桶は粉々にこわれていました。枕もふとんもベッドから引きずりおろされていました。




7ひき28.29
母やぎは7ひきの子やぎをさがしましたが、どこにも見つかりませんでした。それで絶望して、彼女は子やぎの名前を1ぴきずつ呼びました。最後に7番目の子やぎの名前を呼ぶまで、誰も答えませんでした。彼女がその名前を呼ぶと、小さな声が答えました。「お母さん、私は時計の中よ」




7ひき30.31
大喜びで、彼女は小さい子やぎを時計の中から出してやりました。子やぎは、どのようにしておおかみが他の6ひきの子やぎを食べてしまったのかを、話しました。その悲しい話が終ると、母やぎと7番目の子やぎはいっしょに泣きました。




7ひき32.33
しばらくして、かわいそうな母やぎは、かわいい子やぎを連れて外に出て、悲しげに牧草地をさまよいました。そこには、木の下で、おおかみがぐっすり眠っていました。たいへん大きないびきをかいていたので、木の枝がふるえるほどでした。




7ひき34.35
母やぎは眠っているおおかみのまわりを歩き、大きなふくれたお腹を見ました。もっとよく見ると、何かがおおかみのお腹の中で動き、もがいているように思えました。

「これはこれは」 と、彼女は叫びました。「おおかみの飲みこんだ子やぎたちが、まだ生きているのかしら」




7ひき36.37
「すぐに家にもどりなさい」 と、母やぎは7番目の子やぎに言いました。「はさみと針と糸を持ってきておくれ」

それから、母やぎはおおかみのお腹を切り開きました。はじめに少し切ると、1ぴきのかわいい子やぎの頭がひょいと出てきました。




7ひき38.39
彼女がおおかみのお腹をさらに切っていくと、もう1ぴき、またもう1ぴきというように、子やぎたちがとび出しました。とうとう、6ぴき全部が生きたまま自由になりました。どれも傷ついていませんでした、というのも、おおかみは食い意地がはっていたので、子やぎたちを丸のみにしてしまったからです。




7ひき40.41
子やぎたちはまたみんないっしょになれて、なんと幸せだったことでしょう。かわいそうな母やぎはまた泣きましたが、こんどは嬉し泣きでした。7ひきの子やぎたちは幸せそうに、眠っているおおかみのまわりをとんだりはねたりしました。




7ひき42.43
しかし、すぐに母やぎはみんなに話しかけました。「大きな石をさがしてきなさい。そして、それを私のところに持ってきなさい」

そこで、7ひきの子やぎたちは見つかるかぎり大きな石をさがし、それをおおかみが寝ているところへ持ってきました。




7ひき44.45
母やぎはできるかぎり多くの石を、おおかみのお腹の中に入れました。それから、すばやくお腹を縫い合わせました。おおかみはその間じゅう大いびきをかいて寝ていて、何が起ったのかわかりませんでした。




7ひき46.47
とても長いこと眠った後、おおかみは目を覚まし、のどがかわいていたので水を飲もうと井戸の方に行きました。彼が歩くにつれて、お腹の中の石がお互いにぶつかり合って、ゴロゴロ音をたてました。それで、おおかみは叫びました、

「何がゴロゴロ鳴ったりころがっているのだろう。私のあわれな体の中で。私は6ひきの若い子やぎを食べたのに。彼らは6つの石みたいだ」




7ひき48.49
おおかみはよろけながら、またゴロゴロ音をたてながら、長い時間かかって井戸に着きました。水を飲もうと身をかがめると、お腹の中の重い石が、彼をぐらつかせました。おおかみはボチャンとびっくりするような音をたてて、井戸の中にまっさかさまに落ちてしまいました。

やぎと子やぎたちは、びっくりするようなボチャンという音をきくと、井戸にかけていきました。おおかみがおぼれてしまったのを見て、大喜びでした。

「おおかみが死んだ。おおかみが死んだ」 と叫びながら、みんなでとびまわりました。母やぎが森に行くとき、もう、子やぎたちをおいていくのをこわがる必要はありませんでした。



10年以上にわたり刊行をし続けた「月刊 日本読書クラブ」の人気コーナー「本を読むことは、なぜ素晴しいのでしょうか」からの採録、第41回目。

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● 子どもは自分が子やぎになって、みずから母親のやさしさを思う

子どものための世界の聖典といわれるグリム童話は、ヤコブ、ウィルヘルムのグリム兄弟が、ドイツに古くから語り伝えられている昔話を集めたものです。したがって、もともと 「語り聞かせ」 のために生まれたものです。
さて、「おおかみと七ひきの子やぎ」 は、そのグリム童話の中でも、もっとも親しまれている話の一つです。なぜでしょうか。それは、おおかみが、やぎを食い、そのおおかみが最後には殺されるという残酷な話の中に母が子を思う心、子が母を慕う心、つまり母と子の愛が語られているからです。
この話を、まだ一度も聞いたことのない子どもに、絵本を見せながら語り聞かせたらどうでしょう。
おおかみがやってきて 「あけておくれ、おかあさんですよ」 というとこうになると、子どもは、ほんとうに胸をドキドキさせながら聞き入ります。心の中では、きっと 「あけてはだめよ、おかあさんじゃないよ」 と叫んでいるのです。
その次に、とうとう、おおかみが入ってきて末っ子のやぎだけを食べ忘れて、あとの6ぴきを食べてしまうところや、やがて帰ってきたお母さんやぎが、おどろき悲しむところになると、話を聞いている子どもの表情も沈んでしまいます。お母さんやぎの気持ちを思って、いっしょに悲しむのです。
ところが、さいごに6ぴきの子どもが、おおかみの腹の中から元気に現われ、腹に石をつめられたおおかみが井戸に落ちて死んでしまうと、話を聞いていた子どもたちは、やさしい笑顔になって、読み聞かせているお母さんの顔をみつめます。お母さんやぎのうれしさを感じ、それを、目の前の母親のやさしさと重ねあわせてほっとするのです。
このお話を読み終えたあと、子どもに言い聞かせるお母さんがいます。
「この子やぎたちは、お母さんやぎの言うことを、よく聞かなかったから、こんなめにあったのよ。だから、これから、○○ちゃんも、お母さんの言うことを、よく聞くのよ」
しかし、この言いきかせは全く無用のことです。そんなことを言いきかされなくても、子どもは、かわいい子やぎのことを心配したお母さんやぎのやさしさと、みんなを助けてくれたお母さんやぎの強さを通して、ごく自然に、お母さんにすがりつきたいような気持ちを発酵させているのですから。
おおかみに襲われて死の恐怖にさらされながら、お母さんやぎの力で助けられた七ひきの子やぎたち。子どもは読み聞かせに耳をかたむけているあいだ、自分がすっかり子やぎになって、自分たちを心配してくれた、お母さんやぎの心を思うのです。
日常の生活のなかで、お母さんはいろいろなことを子どもに言い聞かせます。しかし、その言い聞かせは、たいていの場合、子どもにとっては実感をともなわない、いわば親のおしつけです。だから、言い聞かせたあと、子どもに 「いいわね、わかったわね」 と、だめを押します
すると、子どもは 「わかったわよ─」 などと答えて、わかったことにしてしまいます。
こんなことを考える時、すばらしい本を通じて、だれかが 「教える」 のではなく、物語を通じて子ども自身がみずから 「わかる」 ことのすばらしさを再認識せずにはおれません。

10年以上にわたり刊行をし続けた「月刊 日本読書クラブ」の人気コーナー「本を読むことは、なぜ素晴しいのでしょうか」からの採録、第40回目。

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● 笑いころげて読むうちに自分の心を解放していく
「ねしょんべんものがたり」(椋鳩十監修 童心社刊)は、児童文学者の岩崎京子、神沢利子、坪田譲二、椋鳩十ら、女性7名、男性13名が語った、幼い日のねしょんべん体験記。1971年に出版されて以来、爆発的な人気をよび、今もなお、小学2~4年生を中心に、多くの子どもたちに読みつがれています。たんに、おもしろいというのではなく、ふしぎなほど、子どもたちの心に安らぎを与えるからです。 
この本を読んでの感想文のなかで、子どもたちは楽しそうに言っています。
「わたしは、この本を読んで、ほんとうに安心しました。学校の先生だって、童話を書いている人だって、えらい人だって、みんなみんな、おねしょしたことがあるんだもの」
「おねしょして、なやんでいる日本中の子どもたちに、この本読ませてあげたい。みんな、おねしょしたってへっちゃらだよ」
「ぼくは今まで、だれにも、ぼくのねしょんべんのことは話したことはありませんでした。ぼくひとりだろうと思って、はずかしくて、だれにもいえなかったのです。でも、この本読んで、なんだか、あんしんしたような気もちになりました」
「もう、へっちゃらだ。これから、ねしょんべんたれたら、きょうは、アメリカの勉強したんだぞーっ、きょうは、オーストラリアの勉強したんだぞーって言ってやろう。もうあんしんだ。この本読んで、ほんとにすっとしました」
「この本は、いちばんに、妹に読んでやろう。おねしょしたって、平気のへっちゃらだってわかったら、妹、よろこぶだろうな」
「先生がこの本読んでくれてから、先生が、きのう、ふとんの中に雨をふらせた人、なんて言うと、いつも何人かがいばってハイハイと手をあげるようになった。1人か2人のときは、先生は、なーんだ、たったのこれだけかと言って、みんなをわらわせます。ねしょんべんたれの子にとって、この本は神さまです」
「これまで、ぼくは、ねしょんべんした朝は、おい、おちんちん、また、やったんか、きょうはゆるすけん、あしたはすんなよ、と、いいきかせてきました。でも、もう、いうのやめます。おい、おちんちん、よかったね」
「この本、お母さんにもよませました。お母さん、アハハ、オホホとわらいながらよみました。ぼく、お母さんのところへ行って、もう、ねしょんべんたれのばかじゃないからねといいました。お母さん、また、アハハ、オホホとわらいました」
子どものこんな声に耳をかたむけていると、こちらまで楽しくなってきます。今まで秘密にしていたことを、みんなぶちまけてせいせいしている子どものきもちが、あたたかく伝わってくるからです。
子どもたちの心は、「ゆかい、ゆかい」 「おかしくて、おかしくて」 と読んでいるうちに、「わたしだって、ねしょんべんたれだったよ」 という (えらい人) たちの心と一つになってしまっています。つまり、同化しています。
実は、これがすばらしいのです。同化によって、孤独な苦しみ、悲しみ、さみしさから解放され、心を明るく開いていく──これこそ、かけがえがないのです。
苦しい環境の子どもが、苦しみに耐えて生きる子どもの物語を読んで感動したとき、「苦しいのは自分だけではないのだ。がんばらなければ」 と思い、苦しみにうちかつ力を自分自身で育てていく……これと同じだと言ってもよいでしょう。
よく 「私をかえた1冊の本」 などと言われるように、本は、たしかに、人間を変える力をもっています。
しかし、人間を変えるなどと言っても、むずかしく考えることもありません。「ねしょんべんものがたり」 を読んだ子どもは、ねしょんべんたれの孤独の悲しみから自分を解放することによって、自分を変えたのですから。

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