児童英語・図書出版社 創業者のこだわりブログ

30歳で独立、31歳で出版社(いずみ書房)を創業。 取次店⇒書店という既成の流通に頼ることなく独自の販売手法を確立。 ユニークな編集ノウハウと教育理念を、そして今を綴る。

2006年04月

10年以上にわたり刊行をし続けた「月刊 日本読書クラブ」の人気コーナー「本を読むことは、なぜ素晴しいのでしょうか」からの採録、第24回目。

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今回紹介するのは「しょうぼうじどうしゃ じぷた」(渡辺茂男作・山本忠敬絵 福音館書店刊) です。

● ちびっこを笑ってはいけない
ある町の消防署。高いビルが火事のきは、ぐんぐんはしごをのばして指揮する、はしご車の、のっぽくん。どんな大火事でも、すごい圧力で水をふきかけて火を消してしまう、高圧車の、ぱんぷくん。けが人がでると、矢のような早さで病院へはこぶ、救急車の、いちもくさん。そして、はたらきものだが、ちびっこの、じぷた。でも、じぷたには、なかなか出番がありません。
いつも、のっぽくん、ぱんぷくん、いちもくさんの自慢を聞きながら、出番を待っています。なにもしないから、町の子どもたちも、見向きもしてくれません。ところがある日、山火事がおこり、大きな車は通れず、じぷたの出番。じぷたは必死の活躍で、みごとに火を消しとめ、つぎの日、その活躍ぶりが新聞に……。この物語を読んだ子どもたちが、いちように声をあげているのは 「がんばれ、じぷた」 「よくやったね、ちびっこじぷた」 という言葉です。1年生になったばかりの1人の男の子は 「ぼくは、むちゅうになって、じぷたを、おうえんした。じぷたは、いままで、みんなからばかにされていたこともわすれて、いきのつづくかぎり、がんばった。ぼくは、はらはらしたが、ひとりで火をけしてしまったとき、おもわず、やったあ、とさけんだ」 と、語っています。読んでいくうちに、じぷたと自分がひとつになってしまうのです。

● ちびっこだって負けやしない
でも、子どもたちは、ただ 「じぷたがんばれ」 「じぷたよかったね」 で終わっているのではありません。じぷたから、すばらしいことを、くみとっています。
それは、ちびっこだって、いっしょうけんめいにやれば、だれにも負けはしないんだ、ということです。また、みんなに笑われたくらいで、めそめそすることなんかないんだ、ということです。「ぼくは、クラスのなかでも、いちばんのちびっこだ」 という男の子が、この物語を読んだあと、胸をはって言っています。
「ぼくは、みんなから、ちびっこちびっことばかにされ、いつも、大きくなりたい、大きくなりたいと、おもってきた。かみさまにも、いつも、大きくしてくださいと、おいのりしてきた。でも、この本をよんで、そんな、おいのりなんか、することないってことが、はっきりわかった。ちびっこだっていい。じぷたみたいに、がんばればいいんだ。じぶんで、ちびっこちびっこと、おもって、ちいさくなっているから、みんなに、ばかにされるんだ。もう、これからは、まけない。ちびっこといわれても、へいきだねえ、じぷたくん。そうだよね。じぷたくん、すばらしいことおしえてくれて、ありがとう」
また、ちびっこ、ちびっこと、からかわれて、いつも悲しかったという女の子は、つぎのように語っています。
「この本を読んだあと、どこからか、ちびっこでも、つよくならなければいけないんだよ、というこえが、聞こえてきました。きっと、じぷたのこえです。じぷたは、わたしを、はげましてくれたんです。じぷたさん、ありがとう。じぷたさん、いつまでも、わたしと、なかよしでいてね」
この物語のなかに、ちびっこでも強くならなければ、というような教訓的な言葉は、でてきません。でも、子どもたちは、じぷたとひとつになることで、それを学びとっているのです。
「ちびっこだからといって、けっしてばかにしてはいけないんだ」 「じぶんだけが、
いいことができたからといって、じまんしては、いけないんだ。人が、さみしそうにしているときは、その人のきもちを、かんがえてあげないといけないんだ」 と、のっぽくん、ぱんぷくん、いちもくさんの立場から、他人への思いやりを考えている子どももいます。
わずか28ページの1冊の絵本が、この本を読んだすべての子どもたちへ、すばらしい心の贈りものをしているのです。この本が出版されたのは昭和38年。それからもう40年以上も読みつがれています。

なお、この本は、「えほんナビ」でも紹介されています。
http://www.ehonnavi.net/ehon00.asp?no=220

10年以上にわたり刊行をし続けた「月刊 日本読書クラブ」の人気コーナー「本を読むことは、なぜ素晴しいのでしょうか」からの採録、第23回目。

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「ひさの星」(斉藤隆介作 岩崎ちひろ絵・岩崎書店刊) のあらすじは次のとおりです。
11歳のひさは、無口な、おなごわらし。小さな子がイヌにおそわれたとき、ひさは、小さな子の上にかぶさって、その子を守ってやり、自分はイヌにかまれてけがをしたのに、だれにも、なにも言わない女の子でした。ある雨の多い夏、水かさがました川へ、男の子が落ちました。男の子は助かったのですが、ひさの姿は見えなくなってしまいました。「ひさが、ひさが」 と泣きさけぶ男の子。やがて雨がやむと、東の空に青白い星がひとつ……。

● ほんとうのやさしさとは何か
「ひさちゃん、犬にかまれて、いたくなかったの?」 「ちゃいろの水にしずんでいって、こわくなかったの? くるしくなかったの?」 などと語りかける子どもたち(小学1・2年生) は、この作品を読んで、まず第1に、ひさの心のやさしさに、いちように強くうたれています。
「ひさは、いつも、じぶんのことよりも、人のことばかり、かんがえたのね」 「ひさちゃんの心は、きっと、かみさまのように、うつくしかったんだね。だから、ひさちゃんが、しんだとき、かみさまが、ひさちゃんを、ほしにしてくださったのね」 「にんげんの心に色があるとしたら、ひさちゃんの心はどんな色だったんだろう。きっと、あのすみきった空を、きれいな水にとかしたような色だったのね」
しかし、ただ、やさしさにうたれるだけではありません。多くの子どもたちは 「こころでは、わかっていても、人をたすけるために、じぶんが犬にかまれるようなことは、わたしには、とてもできない」 「じぶんが、おぼれてしまうのがわかっていて、川にとびこむようなことは、きっと、ぼくにはできない」 などと自分の本心を見つめながら、ひさの心のやさしさは、ほんとうは何だろうと考えています。
そして 「ひさちゃんは、りっぱなことをしても、どうして、おっかあや、みんなに、だまっていたの?」 「わたしだったら、すぐ、おかあさんに、じまんして、おはなしするのに、ひさちゃんは、なぜ、だまっていたの?」 と問いかけ、そこから、ひとつのことをひきだしています。
それは 「ひさは、けっして、むくちで、おとなしい女の子だったから、だまっていたのではない」 「よその、おうちへいっても、いちばんあとからあがって、そっと、うしろにすわるようなおとなしい子だったから、いつも、だまっていたのではないのね」 ということ。

● ほんとうの強さとは何か
つまり、その問いかけから多くの子どもたちがひきだしているのは 「ひさは、きっと、だれよりもつよい心をもっていたのだ」 「むくちで、おとなしいひさは、ほんとうは、とってもつよい心をもった女の子だったのね」 ということです。
1年生の女の子が言っています。「ほんとうに、つよいこころになるには、すこしいいことをしたからって、すぐ人にはなしたくなるようでは、だめなのね。だまって、人のためにしてやれるようにならなければいけないのね。ほんとうの、やさしい心をもつことは、とっても、たいへんなことなのね。ひさちゃん、いっぱいおしえてくれてありがとう。わたしが、そらの、ひさちゃんのほしをみたときは、また、おしえてね」
子どもたちは、美しくも悲しいこの物語から、さいごには、人間の勇気というものについて学びとっています。それは、1年生の子どもにさえ 「ほんとうのゆうきは、ちからがあるから、だせるのではないのだ。ひさのような、やさしい、うつくしいこころを、もっていないと、ほんとうのゆうきは、だせないのだ」 ということが理解できたからです。また、2年生の子どもには 「ほんとうに、ゆうきのある、つよいにんげんになるには、ほんとうの、やさしい心をもたなければいけない」 ということが理解できたからです。
2年生のひとりの男の子は、このことから 「にんげんが、せんそうをするのは、きっと、心がよわいからなんだ」 と言っています。
たった30ぺージたらずの1冊の絵本から、子どもたちは、なんとすばらしいことを学びとるのでしょう。
この物語をいちどでも読んだ子どもは、岩崎ちひろのえがいた、ひさちゃんのすがたを、いつまでも忘れないのではないでしょうか。そして、夜の空にひさちゃんの星をさがしては 「ひさちゃん、私も、つよい心をもつように、がんばってるからね」 と、語りかけるのではないでしょうか。

なお、この本は、「えほんナビ」でも紹介されています。

10年以上にわたり刊行をし続けた「月刊 日本読書クラブ」の人気コーナー「本を読むことは、なぜ素晴しいのでしょうか」からの採録、第22回目。

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「ガラスのうさぎ」(高木敏子作・金の星社刊) のあらすじは、つぎの通りです。
太平洋戦争末期、東京下町に住む少女・敏子は敗戦色が濃く物資が欠乏した厳しい世の中で、家族とともに一生懸命生きていました。しかし、昭和20年3月10日の東京大空襲で、敏子は母と二人の妹を失ってしまいました。焼け跡から、空襲の猛火で形の変わったガラスのうさぎを掘り出した敏子は、戦争の恐ろしさを目の当たりにします。さらに疎開の途中、駅で米軍機の機銃掃射を受け、父までも亡くしてしまいました。たったひとりになった敏子は、絶望の果てに死を見つめ深夜の海辺をさまよいますが、「私が死んだら、お父さん、お母さん、妹たちのお墓参りは誰がするの。私は生きなければ……」と孤独と悲しみの中で、心を奮い立たせるのでした……。

● 悲しみに耐える主人公の強さ

この作品を読んだ子どもたち(小学校4~6年生) が、まず、いちように口にしているのは 「戦争のこわさ、むごたらしさ、悲しさを知った」 という、おどろきの言葉です。また 「なんの罪もない無数の人たちを殺し、たくさんの不幸な人たちをつくりだす戦争を、人間は、なぜしたのだろう」 という、戦争への疑問です。そして 「わたしたちは、もう二どと戦争をしてはならない」 という戦争否定への誓いです。
これは、空襲で母を失い、 2人の妹を失い、さらには父までも失った主人公敏子の悲しみが、じんじんと伝わってくるからでしょう。
しかし、そのような、戦争へのおどろき、疑問、そして不戦の誓いなどは、戦争をえがいたもの、戦争告発を主題にしたものであれば、深浅の差はあれ、どのような本からでも感じとることができるものです。もしも、子どもたちが、この 「ガラスのうさぎ」 から感じとるものがそれだけなら、この作品が創作児童文学の名作として読みつがれるゆえんがありません。
この 「ガラスのうさぎ」 が子どもたちの心をゆさぶるものには、もっと深いものがあります。それは、涙をこらえ、悲しみに耐えつづけた主人公敏子の、あまりにも強い、あまりにもけなげな生き方への感動と、その敏子とくらべて 「いまの自分はこれでよいのか」 という、平和に慣れすぎた自分の生き方への問いかけです。
母と妹についで父を失い、父の葬式をひとりで出して生きていく敏子に、子どもたちは 「12歳の少女が、なぜ、こんなにまで強くなることができたのだろう」 「私は生きなければ、がんばらなければと、立ちあがる敏子のたくましさは、どこからでてきたのだろう」 などと、おどろきに似た言葉をもらしています。そして、ある子は 「敏子は、まわりのものが死んでいけばいくほど、命の尊さを知ったのだ、みんなのかわりに生きていかなければと思ったのだ」 と言っています。また、ある子は 「敏子は、たったひとりで、いっしょうけんめいに戦争と戦ったのだ」 と言っています。

● 戦争のむごたらしさと、みずみずしい決意

つまり、この本を読む子どもたちは、自分と同年令、もしくは同年令に近い主人公敏子の、この強い生き方にひきつけられ、敏子がひとりで戦争と戦っていけばいくほど、「生きる」ことをかさねあわせ、戦争について深く考えているのです。また、けなげな敏子の姿とかさねあわせて、戦争のない時代にのんびり生きる自分のあり方を、内省的に考えているのです。
「私は、平和な日本に生まれ育ち平和であることが当然であるような顔をして生活してきた。自分に気に入らないことがあると、すぐ、わがままばかり言ってきた。私には、自分にきびしく生きる心が欠けていたのではないだろうか、平和に慣れきった私の心の底に、戦争以上のむごたらしさがあるのを発見して、私はおどろいてしまった」
ある6年生の少女は、こう語っています。そして、人間に進歩をもたらすためには、その時代に生きる人びとが、自分自身とのたたかいにうちかって生きなければならないのだ、と言い切り、私もこの少女のように自分の目で時代をしっかり見つめて、確かな足あとを残したい、と結んでいます。
実は、たんに戦争の恐しさを知ったというよりも、この6年生の少女のような、みずみずしい決意こそがたいせつなのです。ひとりひとりの、こんな決意こそが、これからのちの戦争をくいとめる、もっとも大きな力になるのですから。
この 「ガラスのうさぎ」 を読んだ子どもたちは、だれもが、主人公の敏子を心の友として生きていくでしょう。そして、苦しみにぶつかっては敏子を思いだし、敏子の姿を思いおこしては、戦争へのにくしみを育てていくでしょう。たった1冊の本でも、その力は計りしれぬほど大きいものです。

10年以上にわたり刊行をし続けた「月刊 日本読書クラブ」の人気コーナー「本を読むことは、なぜ素晴しいのでしょうか」からの採録、第21回目。

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● 虫たちへの愛の心
「ファーブルの昆虫記」 を読んだ子どもたち(小学校1~6年生) は、大きくわけると2つのことについて、おどろいたり感銘したりしています。
まず1つは、この昆虫記のなかにえがかれている虫たちへのおどろきと、そのおどろきから発展しての、深い思考です。
アリ、ハチ、クモ、セミ、カマキリなどの生きる姿の、あまりにもの不思議さ、神秘さ、強さ、悲しさ、やさしさ。子どもたちは、これらに目を見はり、いちように 「ただ虫けらだと思っていた虫たちは、みんないっしょうけんめいに生きているのだ」 「虫はのんびりしているようだけど、ほんとうは、ほかの生きものたちとたたかいながら、いのちがけで、生きつづけているのだ」 「どんな小さな虫たちにも、にんげんとおなじような心があるのだ」 「虫たちは、とても人間なんかがかなわないような、すばらしいちえを、たくさんもっているのだ」 などと語っています。
そして、このおどろきは、たんなるおどろきにとどまらず、「これからはけっして虫をいじめないようにしよう」 「どんなことがあっても、たった1ぴきの虫でも、ころさないようにしよう」 「これからは、虫をころしている人を見たら、ぜったいにゆるさない」 などと、虫たちへの愛の心を大きく育てています。また 「虫たちは、みんな、じぶんひとりで生きているのだ。にんげん、にんげんっていばっているけど、わたしには、とてもできない」 「カマキリは、オスがメスに、よろこんでたべられてしまうけど、にんげんにあんなことができるだろうか。とってもできないと思う」 などと、虫たちへの尊敬の心さえ、芽ばえさせています。

● 自分のやりたい道をつらぬくすばらしさ
いっぽう、この虫の世界へのおどろきは、すべての子どもたちに、虫のことについて、これまであまりにも知らなかったことに気づかせ、自分のまわりの自然を、あらためて見なおす目を開かせています。「虫たちがしていることは、それが、なんでもないことのようでも、みんな、ちゃんとした意味があるのだ。これからは、虫の心を考えながら、しっかり、虫をかんさつすることにしよう」 「わたしも、虫をさがして、やさしい心で、かんさつしてみよう。虫からおそわることが、たくさんあるかもしれない」 などと語っている子どもたち。この子どもたちは、自分のすぐ身近なところに、これほどまでに自分の知らない世界のあったことを、はじめて知り、その知らなかったということを知ったことで、知ることの楽しさとたいせつさを知ったのです。また、自然について疑問をもつ心、調べる心、たしかめる心に、火をつけられたのです。
同じ昆虫をえがいた本でも、ここまで、子どもたちの心を高めさせるものは、めったにありません。ファーブルの昆虫への愛と昆虫観察へのおどろくべき執念が結晶しているからこそ、この昆虫記が、これほどまでに子どもたちをひきつけ、これほどまでに子どもたちへ大きなものを与えるのです。
子どもたちが抱いている感銘の第2は、ファーブルの、その偉大さです。1つの昆虫の観察に、なん日、なんか月、なん年もうちこみつづけた熱心さ、がまんづよさ。また、昆虫の観察と研究にささげつくした生涯。すべての子どもたちが、この 「自分の生きたい道を生きた」 ファーブルの偉大さに心をうたれ、ぼくも、わたしも、このファーブルのような信念のある生き方ができたら、どんなにすばらしいだろう、と語っています。
昆虫の世界をとおして知った、いのちあるもの、すべての生命の尊さ、そして、ファーブルの生き方をとおして知った、人間が自分の夢をつらぬきとおして生きることのすばらしさ。この 「昆虫記」 を読んだ子どもと、読まない子どもの、その心の深まりの差は、想像以上に大きいようです。

なお、いずみ書房のホームページにある「せかい伝記図書館」のオンラインブックで「ファーブル」を紹介しています。

10年以上にわたり刊行をし続けた「月刊 日本読書クラブ」の人気コーナー「本を読むことは、なぜ素晴しいのでしょうか」からの採録、第20回目。

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● 人間のからだの神秘に目をみはる
お母さん方は、子どもに本を読ませたいと思うとき、まず第一に、童話を中心にした物語の本を考えます。それは、1冊の本から、子どもが、できるだけ大きな感銘を受けることを期待し、その感銘は、文学作品から受けるものが、もっとも大きいと思っているからでしょう。
ところが、じっさいは必ずしもそうではありません。子どもは、伝記や科学物語はもちろんのこと、絵を中心にした図鑑類からも、すばらしい発見の感銘、おどろきの感銘を受けています。
ここに、「ひとのからだ」 「からだのひみつ」 「からだのふしぎ」 などと題した本を読んでの感想文があります。
小学校1~3年生の子どもたちが書いたものですが、いちように口にしているのは 「こんな本は、はじめてよみました」 「人のからだは、ふしぎでいっぱいですね」 ということです。子どもたちは、赤ちゃんが小さな豆つぶから大きくなること、おへそが、とってもたいせつなものであったこと、のうの王さまがめいれいをくだして手や足がうごくこと、ひふにたまるアカは、ほこりやどろではなく、ひふがしんだものであったこと、かおや手のしわは、としをとって、からだがやせてくるからではなく、ひふの下のあぶらがなくなってできること、小さな舌なのに、あまさや、からさや、にがさや、すっぱさを感じるところは、みんなちがうこと……などに、目を見はっています。そして、人間が生まれてくることの神秘さ、人間のからだのしくみの神秘さに、はじめて心をうたれ、自分で自分のからだを見なおしています。
客観的におどろくだけではありません。たとえば、舌の味を感じる場所のちがいを知った子ども(1年生) は、鏡の前へ行って、本を見ながらじっさいに、さとうやら、しおやらを舌の先にのせたり、奥にのせたり、すを舌のはしのほうにつけてみたりして、自分でたしかめることをくり返しています。
また、骨のことを知った子ども(2年生) は、父や兄といっしょにふろに入ったとき、胸の骨を教えあったり、骨の太さや長さをくらべあったり、関節のしくみを話しあったりして、これも、自分でなっとくすることをくり返しています。

● 文学にはない発見の感銘
このほか、なぜ血は赤いのだろうか、なぜ髪や爪はのびてくるのだろうか、なぜめがねをかけた人と、かけない人がいるのだろうか、なぜ手や足にものがささったら痛いのだろうか、強くぶつけたら、なぜこぶができるのだろうか、悲しいとき、なぜなみだがでるのだろうか、からだにくすぐったいところがあるのは、なぜだろうか……などについて、みんなが考えています。そして、いま読んだ本でわからなければ、ほかの本をもっと読んでみようと言っています。なぜだろう、どうしてだろうという思いが、ひとりひとりの子どもの探求心をよびおこすのです。
これまで、ひとつも気にしていなかったこと、あたりまえだと思っていたこと、ふしぎでもなんでもなかったことを、たった1冊の本にふれたことによって、改めて見なおすようになる。つまり、科学する心を、自分で育てていく。すばらしいのは、からだの本や図鑑を読んで、からだのことについての知識をふやしたことよりも、この科学的に物を見たり考えたりする心を、子どもが、ふくらませてくれることです。このことを、文学作品に要求しても、それを求めることはできず、だから、すべての子どもに、童話などと同じように科学の本を与えることの必要性が説かれているのです。新しいことを知ることの、おどろきとよろこび、これも、すばらしい感銘です。
もしも、子どもがどうしても本好きになってくれないなら、童話などにあわせて、科学の本を与えてみる……子どもが、いくつかのページで発見のよろこびを味わえば、必ず、本の楽しさを知ってくれます。

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