児童英語・図書出版社 創業者のこだわりブログ

30歳で独立、31歳で出版社(いずみ書房)を創業。 取次店⇒書店という既成の流通に頼ることなく独自の販売手法を確立。 ユニークな編集ノウハウと教育理念を、そして今を綴る。

2006年03月

10年以上にわたり刊行をし続けた「月刊 日本読書クラブ」の人気コーナー「本を読むことは、なぜ素晴しいのでしょうか」からの採録、第4回目。

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● 真実に目をむけて深くものを知る
今回は、ほんとうのことに目を向け、少しでもほんとうのことを知り、ほんとうの疑問をもつために、という観点から問題を考えてみましょう。
一般的に、疑問は、ものごとを知らないからおこると思われています。しかし、これは、80パーセントまちがっています。日常的な疑問の多くは、生活的、便宜的なものであり、真理、真実に目を向けて問いを発した疑問はあまりにも少ないからです。
つまり、ほんとうの疑問は、ものごとを「知る」ことによっておこるものです。知る→疑問がおこる→学んでもっと深く知る→もっと深い疑問がわく→さらに深く知りたくなる……このような疑問、こうして深まり広まった疑問こそが、ほんとうの疑問というものではないでしょうか。
ところが、少しきびしいいい方をすれば、そのような疑問を発するほどのことを 「知っている人」 「知ろうとする人」 が、あまりにも少ないように思われてしかたがありません。これは強く言えば、ものごとの皮相的なことしか知らないから、また、知ろうともしないから、ものごとを考えて判断する知性や、自分の思想や言動をかえりみる内省から発した深い疑問をいだくことができなくなってしまっているのでしょう。

● ほんとうの疑問を持つ心
これは、なぜでしょうか。 端的にいえば、多くの人びとが、マイホーム主義に代表される「物の世界」と、進学・受験戦争に代表される 「形式の世界」 におぼれ毒されて、いつのまにか、ものごとの真実を見つめたり、考えたりする 「心の世界」 を、どこかに置き去りにしてしまっているからではないでしょうか。 物の豊かさのみに心を奪われた中流意識や、形を追いかけるだけの知識偏重主義がおそれられるのは、まさに、そのためです。
「人間は……」 などといえば、あまりにも思いあがったいい方かもしれませんが、それにしても、いまの日本人は、もっと、ほんとうのことを知る心をもつべきでしょう。
ところが、隣を見ても、友だちを見ても、なにかを学びに行っても、その多くが毒されてしまっていますから、まったく手のつけようがありません。少し極端なことをいえば、一般的な日常生活のなかででは、もはや 「ほんとうのことを知る」 すべが、なくなってきています。
さて、だからこそ、おとなも子どもも、本を読むことがたいせつなのです。本は、童話や小説などの文学はもちろんのこと、自然科学の書も、社会科学の書も、歴史の書も、すべて、真理、真実を求めて書かれたものです。世の名作のなかに、真理、真実を追究していないものは、たったの1冊もありません。文学書は人間を、あるいは命あるものを追究しています。科学書は自然界と社会のしくみを追究しています。歴史書は人類の興亡と変遷を追究しています。
したがって、本のページをめくれば、だれだって、いつの世だって、真理、真実を見つめる目にぶつかることができます。そして、表面には表われていない、ものごとの深い部分を知り、それによって、知性的、内省的な疑問をもつことができるようになります。
たとえば、太平洋戦争というのろわしい戦争を書きのこすことのたいせつさが叫ばれ、戦争告発の書がたくさん出版されていますが、戦争を知らない世代の人びとは、それらの本の幾冊かに接しないかぎり、おそらく、戦争の悲惨さも、戦争のむなしさも知ることのないまま、時をすごしてしまうでしょう。つまり、戦争に対する、ほんとうの疑問をもつことのないまま、終わってしまうことでしょう。実は、これこそおそろしいことであり、だから、戦争告発の書の1冊や2冊はだれもが読まなければいけないのです。
読書は、考える人間をつくるといわれます。それは、いいかえれば、真の疑問をもつことのできる人間をつくることでもあります。
「知る」 ため 「疑問をもつ」 ために、いまほど、1冊でも多くの本を読むことのたいせつなときはないでしょう。一人ひとりの子どもにも、幼いうちに、「疑問をもつ心」 を育ててやりたいものです。

10年以上にわたり刊行をし続けた「月刊 日本読書クラブ」の人気コーナー「本を読むことは、なぜ素晴しいのでしょうか」からの採録、第3回目。

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● テレビは思考の浅い人間をつくる
前回は、テレビ視聴が受動的な行為であるとすれば、読書は能動的ないとなみであろうということについて考えてみました。そこで今回では、もう一歩すすんで、テレビのもつ宿命的なものとの比較のうえで、読書の大切さを考えてみましょう。
デレビの最大の宿命は、一過性であるということです。映像も音も、視聴者の意思にはかかわりなく流れていきます。ある場面で視聴者が立ちどまって考えようとしても、つねにそれを拒んで、瞬間、瞬間で消えていきます。しかも、再放送を待つか、ビデオテープにたよるかしないかぎり、その番組を、もう二度と求めることはできません。
つまり、くる日もくる日もテレビばかりを楽しんでいると、自分でも気づかないうちに、立ちどまって思考することを忘れていきます。マスコミとの接触を皮相的、せつな的なものに終わらせることに慣れてしまいます。また、疑問を疑問のままにほうむり去ることにもなれ、これらが、思考の浅い人間を形成することにつながっていくのです。
さて、これに対して読書は、まず、なによりも、その本の1ページを相手に、1行を相手に、読者の意思のままに立ちどまって考えることを許してくれます。その1ページ、1行と反復して対話することも許してくれます。また、疑問が生じたときは、その本とのつきあいをいちじ中座して疑問をとき、ふたたび、つきあいをはじめることもできます。さらに、もしも、その本が身近にあれば、その本を生涯の友、生涯の師とすることもできます。つまり、これらが読書本来の価値として高く評価されてきたものであり、だからこそ深い読書が、思考の深い人間の形成に大きく寄与することになるのです。

● 本は立ちどまって深く考えさせる
物理学者・随筆家として名高い寺田寅彦は、名著 「寺田寅彦随筆集」 中で 「読書と今昔」 について語り、そのなかで、つぎのようなことを言っています。
「あるとき、ちっとも興味のなかった書物が、ちがったときに読んでみると、ひじょうに興味をおぼえることも珍しくない。(中略) たいへんおもしろく、読めば読むほど、おもしろ味の深入りする書物もある。(中略) 二、三ページ読んだきりで投げ出したり、また、ページをめくって挿絵を見ただけの本でも、ずっと後になって、意外に役だつ場合もある」。
寺田寅彦がここで言っているのは、1冊をなんどでもくり返して読めることへの、楽しみではないでしょうか。また、その本と、自分の思いどおりに対話できることへの、よろこびではないでしょうか。
ところが、当然のことながらテレビは、中途で投げ出しておいて、のちに、再び見ることなど、また、なんどでも見ることなど、とてもできません。内外の思想家は 「人間は、あるときはとまどい、あるときはつまずきながら反復して考えることがたいせつであり、立ちどまって考えることは人間を深くする」 という意味のことを言っていますが、テレビにそれを要求することはできません。というより、テレビは、むしろ、それを阻害しているのです。

10年以上にわたり刊行をし続けた「月刊 日本読書クラブ」の人気コーナー「本を読むことは、なぜ素晴しいのでしょうか」からの採録、第2回目。

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● 自分の意志で行動を起こす
今回は、本を読む行為の能動性について考えてみましょう。
まず対比的に、テレビ視聴のときの身構えを思いだしてみますと、人が映像にむきあっているときは、多分に受動的です。それは第1に、受像機のスイッチをひねりさえすれば、全く労せずに映像が目に、音が耳に、とびこんでくるからです。そして第2には、たとえチャンネルと番組は選べるとしても、基本的には、放送局から一方的に送られてきたものを、受ける形で視聴するよりしかたがないからです。まして、とくに見たい番組もないのに、ただ暇つぶしにテレビにむかっていたとしたら、それはもう受動の極致です。
考えてみれば、テレビ視聴者のこの状況は、動物園にとじこめられている動物たちの状況に、よく似ています。
オリのなかの動物は、ねころんでいようが、あくびをしていようが、自分がオリの中にいさえすれば、人間たちが向こうからやってきてくれます。日曜や祭日にでもなれば、それはもう、うんざりするほどやってきてくれます。しかし、会いたいと思う人間に会うことを求めることはできません。
ときには、人間の顔を見るのにすっかり、あきてしまうこともあるでしょう。しかし、他になにもすることがないから、やっぱり、つい、人の顔をみながら、なんとなくすごしてしまいます。そして、それが習慣化してしまうと、人間を見てもなにも感じなくなるうえに、人間以外のことは、なにも考えようとしないようにもなってしまいます。また、オレは、ほんとうは強い動物だということも、草原をどんな動物よりも早く走れるのだということも忘れてしまいます。

● 能動的に活動する人間を育てる
さて、以上のようなテレビ視聴時の状況に対して、本を読むときはどうでしょうか。
まず第一に、本を読もうとするときは、自分で読みたい本をえらんで、その本を自分のところに持ってこなければなりません。つまり、テレビのように与えられるものを受身で待つのではなく、自分の意志によって、自分で行動をおこさなければなりません。
つぎに、 本はテレビ番組をえらぶように一定の枠のなかからの選択を、余儀なくされるのではなく、無限の量のなかから自由にえらぶことができます。いいかえれば、本をえらぶことひとつにもその人の主体性を十分に生かすことができ、つねに、能動的でありうるわけです。
つまりこれは、動物にたとえるなら、オリから解放されて野生にかえった動物の行為です。自分の意志で自分が行動をおこさないかぎり、人間に会うことも、食べものにありつくこともできません。そのかわり、広大な草原をかけまわれば、さまざまな生きものにであうことができます。また、自由に冒険を楽しむこともできます。
さあ、どうでしょうか。オリの中の動物と、野生の動物とでは、その動物にとって、どちらがすばらしいのでしょうか。それは、いうまでもなく野生の動物のはずです。
動物園の動物たちは、飼育されるうちに、敵と戦うことも、大自然のきびしさに耐え勝っていくことも、もう、忘れてしまっているのかもしれません。
これでは、あまりにもかわいそうでしょう。とすれば、人間がオリの中の動物のようにならないためにも、読書を通じて能動性をしっかり育てていくことが大切でしょう。

「月刊 日本読書クラブ」は、1983年2月の第1号から、1993年8月通巻123号で休刊するまで10年以上にわたり刊行し続けた。その内容は、読書に関するさまざまな情報を中心に、実に多岐にわたっていたが、その中でも特に人気と評価の高かった「本を読むことは、なぜ素晴しいのでしょうか」というコーナーを、このブログを通じて紹介してみよう。

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● 自分の頭で想像する力をはぐくむ
ここ20数年、日本人がますます本を読まなくなってきていることが嘆かれています。それは大づかみにいえば、日本人は「ものを考えることを忘れ、豊かな心を失ってしまう」 ことへの恐れを嘆くものです。そこで、いまやマスコミの王者であるテレビと対比しながら問題を考えてみましょう。
児童文学者で、「日本読書クラブ」の講師でもあった椋鳩十さんの作品に、小学校の教科書にもおさめられている「月の輪ぐま」という短編があります。
山で母と子のクマにであった人間が、あるとき、川原で子グマだけがあそんでいるのを見つけて、その子グマをいけどりにしようとします。ところが、子グマを谷川の滝壷の近くまで追いつめたとき、高さ30メートルもある滝の上に、母グマがあらわれ、その母グマが、子グマを助けたい一念で滝にとびこむという、母グマの崇高な愛情をえがいた名作です。
さて、この作品を、子どもたちが本をとおして楽しむときは、目で文字を追いながら、頭のなかでは、山奥の谷川と滝の情景を、いろいろ想像するでしょう。母グマが、川岸の大きな岩をだきおこして、子グマにカニをとらせるところがありますが、そこでは、母グマのあたたかい姿と、子グマのかわいい姿を、あれこれ頭にえがいてみるでしょう。また、人間に追われて、いっしょうけんめいに逃げていく子グマの姿、子グマのことを心配して滝の上から人間をにらみつけ、やがて、まっさかさまに滝へとびこむ母グマを、いろいろ思いうかべるでしょう。さらには、そんな情景だけではなく、谷川の水の音、山にこだまする滝の音、それに、子グマのなく声、母グマのほえたてる声も想像するでしょう。

● 自由で主体的な思考をはぐくむ
ところが、もし、この物語をテレビで見たとしたら、どうでしょうか。谷川や滝の景色も、母グマや子グマの姿も、すべて、完成した画像になって目にとびこんできます。谷川の水の音も、滝の音も、クマのほえたてる声も、視聴者に想像するいとまも与えずに聞こえてきます。つまり、視聴者は、自分ではなにも想像しなくてもいいということになり、ここに本を読むことと、テレビを見ることの決定的なちがいがあるのです。
本を読むときは、文字が語っているものを、目には見えていないものを、自分の頭をはたらかせて映像にし、あるいは音にして、思いをめぐらしながら、いろいろ考えます。でも、テレビを見るときは、その必要がありません。したがって、本を読んでいるときの考える行為と、テレビを見るときの考える行為には、おのずから深浅の差が生まれ、これが、テレビ人間がふえればふえるほど読書の効用が問われる理由の、最大のものではないでしょうか。
それから、もうひとつ大切なことがあります。それは、たとえば5人がいっしょに一つのテレビ番組を見ているとしたら、その5人は一方的に送られてきた共通の映像を楽しむことしかできませんが、本は、たとえ同じ本を読んだとしても、5人が、それぞれ独自の映像をえがくことができるということです。つまり、テレビを見ながらの思考は、画一的なものになりがちなのに対して、本を読みながらの思考は、自由で、主体的で、個性的であることが許され、この自由な思考こそが、人間のほんとうの「考える」いとなみを育ててくれるのです。
テレビを見るな、などというのではなく、テレビを見ても、それにむしばまれてしまわないためにも、やはり読書の大切さを、もっと知るべきではないでしょうか。

1983年1月に設立した「日本読書クラブ」。設立から10年後の1992年5月、公文教育研究会の発行する月刊教育情報誌「ケイパブル」に掲載された記事の後半を紹介する。

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●『月刊・日本読書クラブ』


月刊読書クラブ





設立と同時にクラブでは、会員配布用の機関紙『日本読書クラブ』(第1号1983年2月1日発行) を毎月出し続けて、今年5月号でちょうど通巻111号になる。B5判でわずか8ページの小冊子であるが中身は充実していて感動的な記事にあふれている。ここ数か月の継続している紙面のテーマとその内容をあげてみよう。
* その月の特選図書の紹介 (表紙)
* 「かんがえるこどもたち」(P2~3) 読書調査や読書体験、教育現場や社会の情報などをもとにした読書についての考察。
* 「しつけ」(P4) 平常のしつけがいかに子どもの人間形成にとって大事であるかを、親子の実際の事例を紹介しながら考える。
* 「こどものほんだな」(P5) 新旧を問わず、すぐれた絵本や児童書の紹介。毎号2点。
* 「ラ・フォンテーン寓話」(P6) 寓話のジャンルを完成させたフランスの詩人ラ・フォンテーンの寓話1話とその格言。
* 「お母さんの勉強室」(P7) 子どもの作文を紹介しながら、そのよいところを考える。また敬語の正しい使い方の解説。
*「読み聞かせ」(P8) 読者の投書や見聞などをもとに、読み聞かせの方法や効果、心構え、本選びなどを紹介し、読み聞かせについて総合的に考察。
『日本読書クラブ』は、現在このようなテーマにそって、毎号編集されている。そのなかの1、2を次に紹介しよう。

● 読書で心を深める子ども
今年2月号の 「子どもは著者の心にふれながら自分の心を深めていく」 と題された記事には、「書物を読むのは、ほんとうは他人の思想や考えを学ぶためでなく、自分自身の思想を深めるためであると思います。つまり、他人の思想を通じて自分の思想を深めるのが読書の真の目的であると考えます」 という評論家澤潟久敬氏の言葉を実証する例として、小学1年生の女の子が書いた感想文が取りあげられている。
山にすむちびおにが帽子をかぶり、服を着て変装し、町の幼稚園にやってくる。そして池に落ちてびしょぬれになった子どもに自分の正体がばれるのもかまわず、服をぬいで着せてやる。おにであることがわかっていじめられるのではないかと思ったが、子どもたちにかえって歓迎されて楽しく過ごすことができたという『ちびっこちびおに』の話である。
その女の子は、この話を読みながら、なぜだろうと考えたり、どうなるだろうと心配したり、ああ、よかったと安心したりしたこと、また読み終わって、ちびおにのやさしさに感じいったことなどを素直に書いている。
記事は、この感想文を再録した上で、「子どもは、本を読むことを通して、自分の心を深めていくのです」 と、締めくくっている。
また3月号の「読み聞かせ」 には、次のような読者の事例が載っている。
東京・多摩市のある主婦が、4歳半になる子に読み聞かせを始めたところ、2歳半になる子がいつの間にか側によってきて熱心に聞くようになり、今ではその子のほうが読み聞かせを要求するようになったという。その体験から、読み聞かせは、たとえ1歳からでも早すぎないのではないかと気づいたという。
これは、まさにその通りで、母親の読み聞かせが、幼い子どもにとっていかに大きく心をふくらませてくれるものかという事例として、掲載されている。
このような記事が毎号のっている『月刊・日本読書クラブ』の年間購読料は1200円とのこと。「本を読む人を一人でも二人でもふやしていく、親子の心が通いあった家庭を1軒でも2軒でもふやしていく」 ことを目指している日本読書クラブに入会するのに、なんの入会制限もない。「誰でも気軽に入ってきてほしい」 と、編集長の酒井義夫氏はかたっている。

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