児童英語・図書出版社 創業者のこだわりブログ

30歳で独立、31歳で出版社(いずみ書房)を創業。 取次店⇒書店という既成の流通に頼ることなく独自の販売手法を確立。 ユニークな編集ノウハウと教育理念を、そして今を綴る。

2005年08月

J・チェーンの倒産により、これまで制作に協力してくれていた印刷、製本業者とのつながりは絶つことになったが、「捨てる神あれば、拾う神あり」のことわざ通り、新たな協力業者がほどなく現れた。絵本の製版を手がけてくれていた静岡市のN社の社長に、窮状を嘆いたところ、気の毒に思ってくれたのだろう。地元の印刷業者を連れて上京してくれた。私は、当社の経営状態は決して楽ではないことを正直に打ち明けた。しかし、新たな販売組織が出来はじめていることも、具体例をあげて説明し、熱意をこめて協力を要請したのだった。以来、当社の絵本シリーズの製版はすべてN社にお願いしてきた。そして、今も「いずみ通販カタログ」の製版はN社に発注している。そのおつきあいは30年近くになるが、時代時代にあわせた設備投資をしながら、その製版技術はいつも超一流であることに感心すると共に、リーズナブルな見積りに助けられている。

W氏は、私が同行させてもらってから1週間もたたないうちに、それまで扱っていた出版社のセールス・マネージャーを辞め、当社ひと筋でセールスをすることを決断してくれた。フランチャイズ方式による販売組織の話をすると、すぐに乗ってきて、神奈川県すべてをやらせてほしいという。神奈川県は人口が多いので、3地区分の保証金が必要だといっても、1地区の月間ノルマが30セット程度なら、3地区分なぞひとりだってこなせる数字だという。

最終的に認可することになったが、実は、J・チェーンの横浜市内在住の加盟店候補にK・I氏がいた。本音をいえば、W氏には川崎地区の支社長を、K・I氏に横浜地区の一部をと思ったが、この販売組織をこしらえるキッカケを作ってくれたW氏をないがしろにするわけにはいかない。結果的にW氏は神奈川県全域を、K・I氏は、転居して千葉県木更津市に東千葉支社を開設することになったが、フランチャイズ制をとることによるメリットとデメリットがあること、本部が行司役をしっかり行わないと、組織に亀裂がおこるということを、わずかの期間で体験することとなった。

こうして、1976年の年末までに、いずみ書房独自のフランチャイズ販売組織は、K氏の栃木支社、Y氏の長野支社、W氏の神奈川支社、K・I氏の東千葉支社でうぶ声をあげ、少しずつ業績を伸ばしていくことになる。

本日より、8月16日まで、自主的にお盆休みに入らせてもらいます。従いまして、ブログも休刊となりますので、あしからずご了承ください。
ただし、会社の夏休みは、8月15日と16日だけです。

1976年11月1日J・チェーンは手形の不渡りを出して倒産してしまった。J総業の倒産後、交渉によりJ・チェーンが振出元になって書き換えられ、毎月100万ずつ25ヶ月分(25枚・総額2500万円分)の手形を入手していた。これらの肩代わりしてもらった手形も、1度も決済されることなく、紙きれ同然となってしまったのである。予想していたとはいえ、1年ほど前、京都国際会館を借り切って、1000名もの加盟店の人たちが集い、Y社長の気力あふれる演説に、元気よく呼応していたあの磐石にみえた組織が消滅してしまったことが、大きなショックではあった。

しかし、安閑としてはいられない。倒産を知った債権者が、損害を出来るだけ少なくするために、倉庫へ押しかけ、在庫品をわれ先に持ち出すことが良くあると聞いたからだ。私はすぐに、J・チェーングループのある伊勢崎市へ車を走らせた。すでに、J・チェーンの倒産を聞きつけた債権者や加盟店だった人たちが、大勢押しかけてきていた。そして、いくつかある倉庫のひとつでは、ガードマンらしき人を押しのけて、中にある在庫を引き上げている人たちがいた。怒号、罵声をあげながらの小競り合いがしばらく続いていたが、やがておさまり、在庫を収納していたと思われる倉庫はすべてしっかりロックされたことを見届けた。当社にとって、J・チェーンに納品していた「ポケット絵本」が盗まれたりして市場に流れ、バッタ売りでもされることを一番恐れたからだ。そうなっては、販売組織を作るどころの話ではなくなってしまう。

もうひとつ頭を悩ます問題が発生していた。最大の取引先が倒産したことで、銀行の対応が一段と厳しくなったことに加え、印刷業者や製本業者など下請けとして協力してくれた会社が、軒並み支払い条件の変更を求めてきた。これまで月末締、翌月末振出90日後決済の手形だったのが、半手半金(現金と手形が2分の1)、中には前金(発注時に現金支払)を要求するのである。まさに、泣き面に蜂状態に陥ってしまった。

F商事の事務所で、運命的出会いをしてから何日かたった頃、長野県を手がけたいといったY氏から電話がかかってきた。F商事の社長は、いずみ書房の「発売元」になったというようなことをいっているが、事実なのかという問い合わせである。私は、次のように回答した。

F商事には、みんなに会う機会をつくってくれたことで感謝しているが、当社は金銭的なバックアップは一切受けていない。組織はできる限り単純なものが良いと考えているので、本社と支社の間に余計なものは挟みたくない。F商事が茨城県やその他の地域をやりたいというなら、Y氏の長野県、K氏の栃木県と同列の「支社」という立場でお願いするつもりである……と。

Y氏は、「よくわかりました。F商事が発売元というのなら、今回の件は辞退しようかとまで悩みました。J・チェーンがおかしくなったのは、販売力がなくても組織の上位になった者が、その立場を利用して、下位者のうわまえをはねてしまう仕組みが原因だと私は分析しています。私は生来「ずるい」のが大嫌いでして、ビジネスの上でも公明正大、堂々と戦いたいので、いずみ書房さんの組織は、ぜひそれを貫いてもらいたい。J・チェーンの二の舞だけはしてほしくないですから。近いうちに保証金30万を持って、本社へ契約にうかがいます」と、快活に電話を切った。

間もなくF商事から連絡があり、J・チェーンの加盟店で「ポケット絵本」の販売に力をそそいでくれている方々に声をかけたところ、数人が応じてくれたという。約束の土曜日の夕方、F商事の事務所でみんなに初めて面談することになる。ほとんどはすでに顔なじみのようで、私が到着した頃はかなり話が盛り上がっていた。その点J・チェーンの組織というのは、横のつながりが実に密なものがあることを実感した。と同時に、もうすでにJ・チェーンの破綻後の仕事をどうするか、真剣に頭を悩ませていることがわかった。

私はすぐに構想している販売組織のこと、全巻一括納品、信販会社との口座の作り方、取引方法、W氏のセールス法についてと、ポイントをかいつまんで話をしてみた。特にW氏のセールス法には、みんなびっくりした様子だったが、半信半疑のような顔をしている。私はおもむろに、同行した時のテープを聞かせた。すぐに、私の言っていることが事実であることを理解してくれた。そして私は最後に、保証金の話をしてみた。

「J・チェーンでやられて、在庫かかえて参ってる」「もうビタ一文残ってない」「F商事さん、金貸してくれないかね」「冗談じゃない、こちら1000万もすってしまったみたいなもんだ」「米を売れば、すぐに数千万でしょ。30万くらい、はした金じゃないの……」何とも、にぎやかな会話が続いていた。

やがて、栃木県宇都宮市のK氏が声をあげた。「私に、栃木県をやらせてください。W氏のテープを聴いて、私にもやれるような気がします」という。K氏は、J・チェーンの加盟店をはじめる前は日光にある旅館の番頭さんだったそうで、J・チェーン加盟店の中でも業績はAクラスだという。40歳前後のいかにも人当たりの良いタイプの人だった。

そしてもう一人、長野県茅野市からやってきたY氏は、長野県に挑戦したいという。Y氏は蓼科湖の湖畔の住まい。旅館を経営していた父親の病死後に旅館を閉鎖、近くのホテルの従業員向宿舎として住まいの一部を貸しているという。大学で経営学を学び、卒業後すぐに証券会社に勤務、体調を崩して退職し、その後J・チェーン加盟店となったという。開始して間がなかったようで業績といえるほどのものはないが、弁舌さわやかな演説には定評があり、将来はJ・チェーンの幹部になるだろうと噂されていたという。もうすぐ30歳という若さで、前をしっかり見据えた経営者タイプの風貌をしていた。

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