児童英語・図書出版社 創業者のこだわりブログ

30歳で独立、31歳で出版社(いずみ書房)を創業。 取次店⇒書店という既成の流通に頼ることなく独自の販売手法を確立。 ユニークな編集ノウハウと教育理念を、そして今を綴る。

2005年08月



科学図書館
こども科学図書館」の編集にたずさわっていた1977年頃のこと。私の二人の男の子の上が5歳、下が3歳だった。初秋のある日、子どもたちと近所を散歩していると、都会ではめずらしく赤トンボが何十匹となく空を舞っている。子どもたちは、キャッキャといいながら追いかけまわしていたが、そのうち「お父さんつかまえて」というので、悪戦苦闘しながら1匹をつかまえてあげると、もう下の子は大喜び。おっかなびっくり羽根をつかみ、下からながめ、こんどはひっくりかえしながめまわしている。



私はさらに、上の子のためにトンボを追いかけ、ようやくつかまえてもどってみると、何と下の子が持っていた赤トンボの羽根がなくなっている。「だめじゃないか。生きものを大事にしなくちゃ」としかりつけたら、「だって羽根をつけてやろうと思ったんだもん!」と、目にいっぱい涙をためてふくれている。私はそれを見てハッとした。



普通、おとながものを考える時は言葉を使う。意識をしていなくても、頭の中であれをこうしてああしてと、さまざまな言葉を思いのまま使って考えをまとめあげる。ところが、幼児はまだ言葉を自由にあやつることができないので、行動が先になりがちなのだ。この時の、子どもの心の動きを想像すると、おそらくこんなことだったはずだ。



赤トンボを手にした時は、(わあ、空をとびまわっていた赤トンボが、いまボクの手の中にいる、うれしいな)と、ながめすがめつしているうちに、「どうして空をとべるんだろう。この羽根があるからだろうか?」と思い、羽根をとったらどうなるかと考える前に、いきなり羽根をとる、という行動をとった。そのうち動かなくなってしまったトンボをみて、いっしょうけんめい羽根をくっつけようとした。



このような日常のちょっとした子どもの行為の中にも、「関心」「疑問」「実験」という、科学の基本的な姿勢があらわれていて興味深い。空を飛んでいる赤トンボに対する「関心」、なぜ空を飛ぶんだろうという「疑問」、羽根をとってみるという「実験」である。ほんらい科学というのは、実験によって法則を知り、法則にしたがって次の考えを展開する過程をたどりながら進歩してきた学問だ。



日常生活の中で、雨や雪、空の色や雲の流れなどの自然現象、動植物に対する興味、自分のからだのはたらきなどについて、驚き、喜び、疑問を感じることは、2歳過ぎころから、ほとんどすべての子どもに見られる。いいかえるなら、すべての子どもが「科学好き」といってよいかもしれない。この「科学への芽ばえ」や子どもの心の動きをしっかり育ててやれるか、反対につみとってしまうかは、紙一重なのだ。



先の赤トンボの例でいうなら、いきなり「生きものを大切にしなくちゃだめじゃないか!」としかりつけてはいけなかった。赤トンボが動かなくなったのを見て、生きものは合体する超合金のおもちゃのように取りはずしのきかないものだと気づき、子ども心にも失敗したと思っていた。だから、しかられたことに対する精一杯の抵抗の涙だったに違いない。





科学図書館
これまで、いずみ書房の創業期の、まさに生きるか死ぬかの大苦戦物語を記述してきた。そして、独自のフランチャイズシステムによる販売組織を少しずつ作り上げることができ、以来およそ10年もの長い間、試行錯誤しながらもこのシステムの恩恵を受けながら、多くの出版物を刊行することができた。



せかい童話図書館」(全40巻)に続く、「ポケット絵本シリーズ」の第2弾は、1978年5月に完成した「こども科学図書館」(全40巻)だった。1977年の中頃までの私の収入は当てにならぬどころか持ち出しばかりの体たらくで、妻の収入に依存していたことは、以前記述した通りであるが、1977年7月に妻は社会思想社を退社して、JR巣鴨駅、都営三田線千石駅に近い「いずみ書房」の事務所で、いっしょに仕事をはじめるようになった。ようやく、先の見通しに明るさがみえはじめた頃ではあったが、まだ人を雇い入れるほどの余裕がなかったことも事実である。私たちは、がむしゃらに働き続けた。



これから何回かに分けて、この「こども科学図書館」の制作意図がどんなところにあったかを記述することにしよう。



「いずみ通販こどもカタログ」2005年秋冬号が完成した。今回の目玉は、携帯電話のショッピングサイトをオープンさせたことである。これまでも携帯電話を使用して、QRコードという1.5cm平方の図形を撮影すると、「セサミえいごワールド」の資料請求ができるシステムをこしらえてはいた。そして、インターネットからの請求者の半数近くが、このシステムを利用していることがわかった。

最近の携帯電話の伸びは半端なものではなく、7000万台とか8000万台ともいわれ、未就学児を除くと国民の誰もが手にしているほど普及していることになる。ある子ども向商品を取り扱う通販会社では、携帯からの受注件数が50%を超えたといわれほどで、世の中はITの時代に急速に突入した感がある。

このたび当社も、おくればせながら携帯受注システムの構築に多額の資金を投入して、商品番号を入力するだけで注文ができる仕組みをこしらえたわけである。

DMの配布を終える9月10日ごろまでには、新システムを開始いたしますので、ご期待ください。

今、手元に1977年4月発売号の「月刊・セールス」(ダイヤモンド社刊)に掲載の1ページ広告がある。全国42支社の募集とあるから、わずか2ヶ月で18地区が決定し、全国29地区と、一気に販売組織が拡大している様子が見てとれる。

ただし、どの地区も順調にいったわけでなく、大半が意気込みだけで終わってしまった。F商事が茨城支社の契約を交わしたが、業績が伴わずにやがて脱落していったように、どのような業種でも似たようなものだとは思うが、よほど真剣に仕事に取り組まない限り、軌道に乗せるのは至難のわざなのだ。

もちろんその頃から、またその後に支社長となった人も含め、しっかり地盤を築きあげた支社がいくつか出てきた。中でも、栃木県、長野県を筆頭に、岩手県、神奈川県、山口県では、それぞれの地域にあった営業方法や研修方法を工夫し、順調に売り上げを伸ばし、経営も安定しだした。そこで、今後は新たな支社を募集するより、ノウハウを確立した支社が隣接する県に出店していくというやり方が最も効率がよいことがわかり、それを推進する方向に切り替えていった。

特にその組織づくりに成功したのは、Y氏の率いる長野支社だった。茅野市(後に諏訪市)に支社を構え、県内に長野市、松本市、上田市、飯田市などに営業所を置き、地域に密着したきめの細かな営業活動で、着々と成果をあげていった。特にY氏の蓼科湖畔の元旅館だった住まいの大広間を研修所にし、泊り込みの研修体制は見事に機能しだし、人材の育成は他の支社のどこにも負けない、独自のノウハウを築きあげていった。そして、長野県内をうまく組織化したY氏は、隣接する新潟県、静岡県に組織を拡大していくのである。

その後の「いずみ書房の歩み」については、後日改めて記述したいと思う。まずは、本日をもって、53回にわたる「いずみ書房」の創業期のドラマを終了することにする。長い間のご愛顧に感謝!(ペコリ)

私は1972年、まだ社会思想社に勤務していた頃、将来の居住を目的に、妻と共同で80坪ほどの土地を購入していた。当時、千葉県流山市が「南流山再開発地区分譲」ということで、新聞に大々的に広告をしていた。今後これほど安い物件は、首都圏では出ないといううわさもあり、資料を請求して検討してみた。多くの区画の分譲があったが、将来開通する予定の武蔵野線「南流山駅」から徒歩1分、80坪、1100万円の分譲地は価値ありと判断し申し込んでみた。公開で当選者を選ぶそうで、流山市の公会堂へ出向いた。選んだ土地は、一番人気の分譲地だったようで競争率は17倍だという。当たったら儲けものという軽い気持ちだったが、1番くじははずれ、次候補になった。

運がなかったと思っていたところ、後日連絡があり、当選者が資金不足で辞退したため、当方に順番がまわってきた。私も妻も倹約家タイプだったのが幸いし、定期預金をすべて解約して、なんとか1100万円のこの土地を契約することができたのである。

しかし、契約はしたものの、流山市に問い合わせてみると2、3年のうちに開発するといっていた計画は大幅に遅れ、5年先になるか10年先になるか見通しが立っていないという。そのため、土地の権利書が手に入らない。権利書がないことには、銀行もこれを担保に融資するということは出来ないという。

仕方なく、権利書がなくても1000万円程度で買い取ってくれる人を探し始めた。親類から、友人、知人、さまざまな人に声をかけた。ところが、私の身近な人たちの中には、1000万円を用意できる人は、ひとりもいなかった。結局、妻の知り合いの三鷹市にあるTという不動産屋の社長が、当方の窮状を理解してくれ、流山市に問い合わせるなどして物件の確証を得て、1000万円での売却を了承してくれた。

早速、この資金を使って、入札前に「ポケット絵本」の買戻しを実現できたのであるが、何とも割り切れない、苦い思い出である。

ややっ! 昨日開業した、秋葉原とつくばを結ぶ通勤新線「つくばエクスプレス」の駅に、「南流山」があるではないか。急に、口惜しさが増してきたゾ。

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