児童英語・図書出版社 創業者のこだわりブログ

30歳で独立、31歳で出版社(いずみ書房)を創業。 取次店⇒書店という既成の流通に頼ることなく独自の販売手法を確立。 ユニークな編集ノウハウと教育理念を、そして今を綴る。

2005年06月

樫村社長に200万円を受領したことを報告し、月末までに残りいくら用意すればよいかとたずねると、あと500万円はほしいという。「ポケット絵本シリーズ」は、J・チェーン分として納品した以外に、いずみ書房の奥付分を各集3000セットほど制作していた。これは、以前、保育園を中心に予約をとった人たち用にとっておいた分であった。J・チェーンと取引を開始したころからは、新たな開拓をほとんどしなかった。というのも、私が開拓した園へJ・チェーンの加盟店が訪れることがよくあり、すでに入っているのを知った加盟店が本部に苦情をいうことが続いたからだ。また、5月に全巻完成したことを知った幼稚園への納入業者のいくつかは、当社と直接取引したいといってきたが、J・チェーンの加盟店に迷惑をかけてはいけないと、この申し出もすべてことわってきた。

しかし、もはやそんな悠長なことをいっている場合ではない。会社がなくなるかどうかの瀬戸際なのだから。待機中の2、3日間に、ある程度の打ち合わせを済ませておいた幼稚園納入業者のいくつかを訪問し、納品時に手形をもらえるなら取引しましょうと、強気に交渉した。3社ばかりが当方の提案に応じてくれ、それぞれの手形を入手したのは1976年8月29日のことだった。この手形をすぐに銀行に持込んで割引してもらい、まさにすべこみセーフ、破綻をまぬがれたのである。

近所に住む義姉から、「三鷹市が、こんど絵本館を作るっていうのを知ってるでしょ。いま、メンバーを募集しているから、応募してみない? 仕事ばかりでなく、少しは社会のために貢献することも必要よ」と、電話がかかってきた。義姉は、最近、三鷹市の介護委員会とかいう委員のひとりに採用され、先日、第1回目の会合に出席してきたのだという。両親と私の亡き妻の介護にここ10年以上もかかりきりになってきただけでなく、医学書の校正の仕事も20年以上つづけているから、医学や介護に関しては専門家の域に達している。おそらく、委員会でも、内容のある発言をしてきたのだろう。

「そういえば、広報で見たような気がする。清原慶子市長が、ご自身の体験から、人間形成の上で幼児期に絵本にふれあうことの大切さを、地元の絵本作家と対談しているのを読んで共感したこともある。三鷹市が、ブックスタートという制度をいち早く取り入れて、乳幼児を持つ母親全員に、何冊かの絵本をプレゼントしていることも聞いている。私も、絵本に関しては、専門家の部類かもしれない。いろいろ、提案できることもあるかもしれないから、応募してみるか」と答えた。
メンバーの募集要項を見ると、「市民と市が絵本館のビジョンを共有するために行います。絵本の作り手、子どもへの伝え手など、さまざまな立場の専門家をゲストスピーカーとして招く場合は、検討会議メンバー以外にも公開し、検討会議の内容は、随時ホームページ他でお知らせするなど、多くの方の声を聞きながら、約6ヶ月開催」という。

私は、公募の条件となる原稿「子どもと絵本のかかわりについて思うこと」を800字以内にまとめて、経歴書を添えて申し込みを済ませた。抽選で決まるようなので、まあ選ばれたらしっかり、生まれてはじめてのボランティア活動をしてみようかと思う。

不渡り手形の代償として、当方の弁済要求に対し、はじめのうちは不可能一点張りのJ・チェーンの幹部たちだったが、やがて心が通じだし、一両日のうちに入金の見込みがあるので待機してほしいという。私は、車の中で待っているからと伝えた。1976年8月下旬のこと、残暑が身にこたえたが弱音をはくわけにはいかない。

この待機している時間に、思わぬ縁にめぐまれることになった。茨城県で農業のかたわら加盟店をやっているというF氏との出会いである。J・チェーンの内部事情に詳しい好人物で、当社の童話シリーズはどの地区の誰々がどの程度売っているということを、実によく知っている。特に、栃木県、福島県、宮城県など北関東から南東北地区には、絵本シリーズを中心に営業活動を行って業績をあげている加盟店が何人もいて、その人たちが中心になってあちこちで売り方の勉強会が開かれ、順調に成果をあげているという。私にとってこの情報は実にうれしいものだった。というのも、J総業に絵本を納入してはいるが、現場で売れているかどうかが気がかりだった。絵本が、組織維持の材料としてだけ利用されているとしたら、先行きの希望はないからだ。

「加盟店の人たちにポケット絵本シリーズの評判がいいのは、予約をしてくれた家へ毎月届けにいくため、お客さんと親密になれることです。子どもが一番楽しみにしていますといわれると、この仕事の苦労もいっぺんに吹き飛んでしまいますからね」とF氏はにこやかな笑顔でこう語り、当方の事情もわかってくれて、J・チェーンの幹部たちに助言することも約束してくれた。

翌日の午後2時頃のこと、会議室の隣にある個室へくるように呼ばれ、私はY社長と面談した。あの迫力に満ちた演説をした同一人物とは思えないほど疲れきった様子で、「迷惑をかけて申し訳ない。お申し出の額とはほど遠いが200万円だけ用意できました。これが当方の精いっぱいの誠意だと思ってください」と札束をテーブルの上に置いた。他の人に見られないようにすぐにカバンにしまって、領収書は後日送っておいて下さいとだけいうと、部屋を出て行った。私は、Y社長の表情から、J・チェーンもそう長くは持たないに違いないと直感した。

1976年8月20日、ついに運命の日を迎えた。手形の決済というのは、同一地域の金融機関が手形交換所に手形や小切手など有価証券を持ち寄り、お互いに提示しあって決済する仕組みになっている。通常、午後3時頃までにこれが行われるため、3時半すぎに銀行に問い合わせると結果を教えてもらえた。この日もその時間に電話してみる。まだ決済されていない。4時、まだだめ。4時半、5時、6時・・・。もう、あきらめざるを得ない。この時ほど、時間が長く感じられたことはなかった。ちょうどこの日は、樫村社長(当時)の新築居宅の引渡し日でもあったが、何という不運だろう。当日はお互いに口を開く気力もなく、憔悴のうちに帰宅した。翌日、J・チェーンからJ総業が不渡手形を出したこと、債権者会議がグループの研修所(群馬・伊勢崎市)で行われるとの知らせがFAXで送られてきた。J総業は不渡りを出したが、J・チェーンは健在というのがせめてもの救いではあったが。

月末が当社の振出手形の決済日に当たり、8月末は1000万円ほどあった。当然、8月20日の1700万円の入金をあてにしていたのが駄目になってしまったわけだから、他で補う以外に方法はない。このままでは連鎖倒産ということになる。「もう、あきらめようよ」と樫村社長はいう。だが、銀行から融資を受けて手にした社長の自宅も取り上げられてしまうことになりかねないし、退職金をつぎこんで協力してくれたなけなしの資金も反故になってしまう。苦労して立ち上げたせっかくの出版社は絶対つぶしたくない、この一念は不思議な力を発揮するものだ。私は樫村社長に「Y社長に直談判して資金を手にするまで帰りません」といいおいて、車を走らせ、J・グループの幹部たちのいる伊勢崎市へむかった。そして、会議室にとじこもるY社長はじめ、幹部たちが部屋を出入りする瞬間をつかまえては当社の窮状を訴えた。

1976年3月4日、NHKテレビの報道を忘れることは出来ない。J・チェーン本部が加盟店から訴訟を起こされたというニュースである。このニュースはすぐに新聞各紙にも載った。訴訟をおこされたことよりも、J・チェーンが「マルチ商法」という部分が強調されていたのにはこたえた。すでに「ポケット絵本シリーズ」全10集のうち、第9集までは納品済み、最終の10集目を残すのみだった。

報道があった翌日、B印刷の社長が血相を変えて飛んできて、製紙会社や製本業者らから、J・チェーンは大丈夫か、今後の支払いは手形から現金にするといわれたので、当社との取引も現金にしてくれという。なんとかなだめて当方の支払いは従来通り手形としてもらったが、こちらも内心は冷や汗もので、以来、毎月20日の決済日は祈るような気持ですごしたものだった。

5月のはじめに、念願の「童話シリーズ」全10集・40巻を完成させることができたが、お祝いをする気持ちにもなれなかった。不安いっぱいのうちに、6月20日、7月20日と、なんとか無事に手形は決済されたが、その後、J・チェーン他「マルチ商法」と名指しされた何社かの社長が、国会に呼び出され、事情聴取された。この頃になると報道も加熱気味、加盟店もJ・チェーンを名乗るだけで顧客からなじられたり無視されたり、営業どころではないという状況になって、磐石にみえた組織も急速にほころびを見せはじめたのだ。このときまでの売掛残は、8月20日決済分1700万円、9月20日決済分1000万円、計2700万円にものぼっていた。9月分はともかく、当面の8月20日を乗り切れなくては前途に望みはない。

↑このページのトップヘ