今日10月23日は、江戸時代前期のころ、蝦夷地(今の北海道)日高地方に勢力を誇っていたアイヌ民族の首長シャクシャインが松前藩へ蜂起し、1669年に亡くなった日です。

江戸時代、アイヌ民族が多く住む蝦夷地は、松前藩に治められていました。特に日高地方は、比較的早くから和人が入り込んでいた地域で、シベチャリ(今の静内川下流地方)のアイヌと、ハエ(今の沙流川下流地方)のアイヌが漁業権をめぐり勢力争いをしていました。

1650年代になると、シブチャリの首長はシャクシャインが握り、ハエの首長オニビシと今の新冠町から白老町方面にかけての領分を巡って対立しました。両者は松前藩の仲介によって講和をしますが、松前藩のねらいは両者の対立を利用して支配を強めようとするもので、裏からオニビシを支援したため1661年に対立が再燃、1668年4月、シャクシャインがオニビシを殺害しました。

シベチャリへの報復のため、ハエは松前藩に武器の援助を申し出ますが拒否され、さらに使者が帰路に急死すると、使者は松前藩に毒殺されたという風説が広まり、皮肉にも対立していたシベチャリとハエを一つにまとめことになりました。

シャクシャインは蝦夷地全域のアイヌ民族へ、松前藩への戦いを呼びかけました。こうして1669年6月、シャクシャインの指導するアイヌ軍は、松前藩へ蜂起しました。これが「シャクシャインの戦い」です。東は釧路に近い白糠(しらぬか)から、西は留萌に近い増毛(ましけ)まで、アイヌ民族がいっせいに立ち上がり、砂金掘りや交易に訪れた船舶19隻などを攻撃し、和人を殺傷しました。7月末には今の長万部(おしゃまんべ)町クンヌイまで攻め進みましたが、松前藩から急報を受けた徳川幕府は、津軽藩へ松前藩に対する援軍や鉄砲・兵糧の供与を命じました。

クンヌイでの戦いは8月上旬まで続きましたが、やがてシャクシャイン側は鉄砲と毒矢で武装した松前軍に押されて劣勢となり、シャクシャイン軍はクンヌイからの敗退を余儀なくされました。さらにこの日、シャクシャインは松前藩による講和の宴会に招待され、今の新冠町にあった松前藩陣営でだまし討ちにされました。

こうして指導者を失ったアイヌ軍は、戦いがはじまってから4か月後に松前軍に降伏(最終的には1671年)。これにより、松前藩のアイヌ民族への政治的経済的支配は、いっそう厳しいものになりました。


「10月23日にあった主なできごと」

1849年 西園寺公望誕生…自由主義思想を支持し、2度総理大臣になり、晩年は「最後の元老」として後継者首相を天皇に進言した政治家の西園寺公望が生れました。

1873年 征韓論争勃発…朝鮮への派兵をめぐって、この日政府内に激しい論争がおこりました。西郷隆盛や板垣退助らは鎖国を続ける朝鮮を武力で開国させようと主張したのに対し、岩倉具視や大久保利通らが内政を優先させることが先決とこれに反対しました。結局、西郷と板垣らは論争に敗れて、翌日要職を辞任して政府を離れました。

1973年 オイルショック…10月はじめに第四次中東戦争が勃発。石油輸出国機構(OPEC)に加盟しているペルシア湾岸産油6か国は、原油公示価格の21%引き上げ、原油生産の削減とイスラエル支援国への禁輸をこの日に発表、第1次オイルショックの引き金となりました。日本では、原油価格と直接関係のないトイレットペーパーや洗剤などの買占め騒動がおきたり、デパートのエスカレータの運転中止などの社会現象も発生するなど、高度成長にストップがかかる事態に陥りました。