今日9月28日は、フィリピン共和国の大統領として、20年にわたる独裁政治行ったマルコスが、1989年に亡くなった日です。

1917年、アメリカ合衆国の植民地支配下にあったフィリピンのセブ島北イコロス州サラッドに、下院議員の長男として生まれたフェルディナンド・マルコスは、フィリピン大学法学部の学生だった1937年、父親と政治的に対立していた下院議員暗殺事件の容疑で起訴され、有罪判決を受けました。刑務所で裁判の準備と司法試験の勉強をして過ごし、翌年に最高裁判所判決で無罪を勝ち取り、1939年に同大学を卒業すると司法試験に主席で合格するほどの俊才でした。

太平洋戦争中は抗日ゲリラを指揮し、日本軍に敗れたバターン戦で捕虜になり「バターン死の行進」を体験しました(ただし、これは本人の言葉で真相は不明)。 戦後は、1949年にこれまでの最年少で北イコロス州の下院議員になると、以後は順調に政界を登りつめて、1959年に上院議員に転身、1961年からは上院議長を務めました。当時のフィリピンは、反米を掲げ社会改革をめざす共産党や、さまざまな社会運動がいっきに力をもたげはじめた時代でした。

1965年末の大統領選に、国内の地方開発と徴税機能の強化、在任中に強じんな経済を作り上げることを公約にして当選をはたすと、公約通り、失業率は1966年から1971年までに7.2%から5.2%に減少させたばかりか、国内産業の工業化と、アメリカや日本などの西側自由世界の貿易自由化を推進しました。歴代のアメリカ大統領、特にジョンソン、ニクソン、レーガンとは親密で、1966年10月にベトナム問題に関するSEATO首脳会議を主催し、アメリカに対する軍事的協力を目的に、南ベトナムにフィリピン軍を派兵しました。

1969年に再選をはたしたマルコスは、1970年1月から3月に学生運動に端を発した暴動の増加や、新人民軍の爆弾テロがおこると、共産主義者のしわざと断定し、1972年9月、フィリピン全土に戒厳令を布告し、みずから国軍最高司令官として立法・行政・司法権を掌握して独裁体制を築き上げました。

ところが1970年代に入ると経済が低迷しはじめ、累積債務の増大が顕著になったばかりか、マルコスとイメルダ夫人の血縁や取り巻きだけが官職を独占して経済的利益をあげる腐敗の構図に、国民の怒りがわきあがりました。そのためマルコスは、1981年に戒厳令を解除して形式的な選挙を実施し、1987年までの任期を得ました。しかし、1983年に政敵ベニグノ・アキノ暗殺事件で事態は一変、1986年に繰り上げ選挙が実施され、アキノ未亡人と大統領選挙を争うものの、「市民革命(エドゥサ革命)」がおこりました。マルコスは国外脱出を余儀なくされ、翌年、亡命先のハワイで失意のうちに病死したのでした。


「9月28日にあった主なできごと」

1895年 パスツール死去…狂犬病ワクチンを初めて人体に接種するなど、近代細菌学の開祖といわれるフランスの細菌学者・化学者パスツールが亡くなりました。

1970年 ナセル死去…スエズ運河の国有化、アスワン・ハイ・ダムの建設につとめ、第三世界(アジア、アフリカ、ラテンアメリカなどの発展途上国)の指導者として活躍したエジプトのナセルが亡くなりました。