今日8月24日は、左翼的作家・評論家として投獄されながらも独自の文学姿勢を貫き、戦後は民主主義文学運動に力をつくした中野重治(なかの しげはる)が、1979年に亡くなった日です。

1902年、今の福井県坂井市の農家に生まれた中野重治は、金沢の旧制四高で窪川鶴次郎らと知り合い、短歌や詩、小説を発表するようになりました。室生犀星と知りあったのもこのころのことでした。1924年に東京帝国大学独文科に入学すると、同人誌「驢馬」を窪川や堀辰雄らと発刊して革命的な詩や評論を発表、芥川龍之介にその才能を高く評価されました。いっぽう、1926年にマルクス主義文芸研究会(マル芸)を結成するなど、しだいに左翼的傾向を深めながら本格的な文学活動に入ります。

1927年、東大を卒業後に日本無産者芸術連盟(ナップ)を結成すると、ナップ内に中野対蔵原惟人の芸術大衆化論争がおき、中野は『芸術に関する走り書的覚え書』を著して「大衆の求めているのは芸術の芸術、諸王の王なのだ」と主張し、蔵原の二元論と対立するなど、評論を中心に健筆をふるいました。

1931年、共産党に入党しますが、翌1932年に「日本プロレタリア文化連盟」大弾圧で検挙投獄され、1934年に党の活動をしないことを条件に執行猶予で出所しました。当時の作品『村の家』には、思想を曲げなくてはならなかったことへの複雑な思いがつづられるなど、敗戦までの中野の文学的闘いは、「転向」した自己を見すえながら、戦争に流されていく現実のなかで、人間精神はどうあるべきかを追究しました。ただし、権力への抵抗姿勢をくずさず、ある機関士の回想『汽車の罐焚(かまた)き』、自伝的小説『歌のわかれ』、評論『斎藤茂吉ノート』『「暗夜行路」雑談』などを著しました。

敗戦後まもなくの1945年11月、共産党に再入党すると、新日本文学会を結成して民主主義文学運動の中心的存在となり、1947~50年には参議院議員として活躍しました。共産党の「50年分裂」の時は「国際派」の側にあって政治主義に対する文学運動を守りぬきましたが、1964年、党運営の官僚化を批判して除名されています。戦後の代表作には『朝鮮の細菌戦について』などの評論、『五勺の酒』などの短編、大学時代の自伝的長編青春小説『むらぎも』、幼いころの思い出を綴った長編小説『梨の花』があります。

また、抒情詩にはじまり、革命運動のなかでの自己の変革を経て燃え上る憤りを鋭い感性で歌いあげた詩を集大成した『中野重治詩集』を残しています。


「8月24日にあった主なできごと」

79年 ポンペイ最後の日…イタリアのナポリ近郊にあった都市ポンペイが、ベスビオ火山の噴火による火山灰で地中に埋もれました。

1594年 石川五右衛門刑死…豊臣秀吉が愛用する「千鳥の香炉」を盗もうとして捕えられた盗賊の石川五右衛門とその親族は、京都の三条河原で、当時の極刑である[釜ゆでの刑]に処せられました。これ以降、釜型の風呂のことを「五右衛門風呂」と呼ぶようになりました。

1897年 陸奥宗光死去…イギリスとの治外法権を撤廃、日清戦争後の下関条約締結の全権大使をつとめるなど、近代日本の外交を支えた陸奥宗光が亡くなりました。