今日8月7日は、教皇グレゴリウス7世との叙任権闘争に敗れて破門されるものの、教皇を追放したドイツ王で神聖ローマ皇帝のハインリヒ4世が、1106年に亡くなった日です。

中世の西ヨーロッパは、広大な荘園を所有するローマ教皇と、神聖ローマを中心とする世俗権力が対立していました。1050年、ドイツ王で神聖ローマ皇帝ハインリヒ3世の長男として生まれたハインリヒは、父が急死したためにわずか6歳で即位し、母が摂政として政治を行ったことで、王の権力が弱まりつつありました。

16歳となって、自らの政治を開始したハインリヒ4世でしたが、東ドイツ南部のザクセン公の反乱をまねくなど、頭を悩ます問題が次々におこりました。王権の強化につとめようと、都市に自治権を与えることで市民の支持を得て、ドイツ諸侯の力をおさえることに成功したかにみえました。しかし、その当時の神聖ローマ皇帝の地位は、ドイツ諸侯と教皇の支持という、微妙なバランスの上に成り立つ不安定なものでした。

1075年に入るとハインリヒ4世は、教皇の意向を無視して叙任権を行使し、自らの意思に沿う司教を任命しはじめると、教皇グレゴリウス7世はこれに抗議しました。これが紛糾して「皇帝と教皇の争い」(叙任権闘争)がおこりましたが、ザクセン公らドイツ諸侯が反旗を掲げたことで、ハインリヒ4世の旗色が悪くなっていきました。

教皇によるハインリヒ4世への「破門」が実施されると、ハインリヒ4世は教皇と直談判しようと考えました。1077年、諸侯に招かれてアウクスブルクへ向かっていたグレゴリウス7世は、ハインリヒ4世の動きを知ると身の危険を感じて北イタリアのカノッサ城に避難したため、ハインリヒ4世は許しを乞うて破門の解除を願いました。これが「カノッサの屈辱」といわれる事件です。(雪が降る中3日間、カノッサ城門にて裸足のまま断食と祈りを続けたというエピソードは、後世の創作)

忠誠を誓ったハインリヒ4世に対し、グレゴリウス7世は破門を解きましたが、その後勢力を立て直したハインリヒ4世は、教皇に対する敵対行動を再開すると、1084年にローマを包囲し、グレゴリウス7世を追放したのでした。

しかし、ドイツ諸侯の反乱はなおも続き、グレゴリウス7世の後を継いだウィクトル3世、ウルバヌス2世もハインリヒ4世との対決姿勢を崩さず、長男のコンラートや次男のハインリヒ5世にもそむかれて、失意のうちに亡くなりました。


「8月7日にあった主なできごと」

1831年 十返舎一九死去…弥次郎兵衛と喜多八(やじさん・きたさん)の旅行記『東海道中膝栗毛』などで知られる江戸時代後期の戯作者・十返舎一九が亡くなりました。

1941年 タゴール死去…『ギーターンジャリ』の詩でアジア初のノーベル文学賞を受賞し、東洋最大の詩人と讃えられたタゴールが亡くなりました。

1942年 ガダルカナル島の戦い…アメリカ軍の海兵隊が西太平洋ソロモン諸島のガダルカナル島とツラギ島に上陸し、日本軍との戦いがはじまりました。激しい闘いのすえ日本軍は21日までにほぼ壊滅し、ミッドウェー海戦とともに、太平洋戦争における攻守の転換点となった戦闘といわれています。