今日8月5日は、「俳句」を通して、人間の生活や心理や考えを積極的に表現しようした俳人で教育者の中村草田男(なかむら くさたお)が、1983年に亡くなった日です。

1901年、今の中国福建省アモイに、清国領事の長男として生まれた中村草田男(本名・清一郎)は、4歳のとき父の郷里の松山へ帰り、この地で育ちました。松山中学時代に伊丹万作らと回覧同人誌を制作しますが、病のため1年間休学後に松山高校に入学します。ニーチェやストリンドベリ、チェーホフの作品を読みふけるいっぽう、神経衰弱に悩み続けました。1925年、一家で東京へ移転し、東京帝国大独文科に入学しますが、1927年に神経衰弱におちいって再び休学します。このころ斎藤茂吉の歌集を読んで詩歌にめざめ、俳句雑誌「ホトトギス」を参考にしながら句作を始めました。

1929年、郷里の大先輩高浜虚子に会い、復学したのち東大俳句会に入会。国文科に転じて水原秋桜子の指導を受け、「ホトトギス」に4句が入選すると自信がめばえ、1933年に32歳で卒業すると、成蹊学園に教師として務めながら、「ホトトギス」同人となって活躍しました。いっぽう、学生俳句連盟機関誌「成層圏」を指導しました。1936年に第1句集『長子』を発表すると、「降る雪や 明治は遠くなりにけり」など、みずみずしい叙情あふれる作風が評判になりました。

草田男は、無季(季語のない俳句)、連作(同主題のもとにいくつかの俳句を並べる) など、「新興俳句」の流れには批判的で、伝統を重んじながら、新しい俳句をめざし、石田波郷、加藤楸邨らとともに「人間探求派」と呼ばれるようになりました。

敗戦後の1946年、俳句雑誌「万緑(ばんりょく)」を創刊し、写生を基本に季題を守りながら人間の感情の内面に達する方針を貫いて、亡くなるまで主宰し続けました。1949年成蹊大学教授に就任して国文学を担当し、1959年に朝日俳壇選者、1960年には現代俳句協会幹事長となるものの、協会内の意見対立のため協会を辞し、1961年に「俳人協会」を設立して初代会長に就任します。また、戦後におこったは「第二芸術論争」(俳句は「老人や病人の余技」と桑原武夫が挑発) をはじめ、さまざまな俳句論争でも主導的な役割をはたしました。

戦後の句集には、『火の鳥』『万緑』『美田』などがあり、「万緑の中や吾子の歯生え初むる」「勇気こそ地の塩なれや梅真白」「葡萄食ふ一語一語の如くにて」などが、よく知られています。


「8月5日にあった主なできごと」

1864年 下関戦争…イギリス・フランス・オランダ・アメリカ4か国の連合艦隊が、長州藩(山口県)に戦争をいどみました。3日間の戦いの末に連合艦隊が完勝しました。攘夷の無謀さをはっきりと知った長州は、イギリスに接近し、欧米から新知識や技術を積極的に導入して、軍備を近代化していきました。同時期に近代化路線に転換した薩摩藩とともに、倒幕への道を一気に進むことになりました。

1895年 エンゲルス死去…マルクスと協力し、科学的社会主義を創始したドイツのエンゲルスが亡くなりました。