今日3月19日は、幼児のころに両手・両足の切断というハンデにもかかわらず、自立した生活を送った女性として知られる中村久子(なかむら ひさこ)が、1968年に亡くなった日です。

1897年、今の岐阜県高山市に生まれた中村久子(幼名・ひさ)は、2歳の時に左足にできたしもやけが原因で、「突発性脱疽(だっそ)」という病気にかかってしまいました。この病気は、少しずつ手足の先から腐っていき、やがて命を落とすという恐ろしい病気です。激痛に昼夜泣き叫ぶ久子を見かねた両親は、手術を決断し、3歳で1度目の手術をし、闘病生活が始まりました。4歳の時の2度目の手術で、両腕はひじまで、両足はひざの関節まで失ってしまいました。

7歳の時、それまで人一倍可愛がってくれていた父が亡くなり、母は久子を連れて再婚します。久子の将来を心配した母は、障害があっても一人で生きていくすべを身につけなくてはと、厳しくしつけました。そのおかげで、久子は食事、トイレ、風呂といった身の回りのことはもちろん、口で文字を書くことや、口にハサミや針をくわえ、糸を結び、編み物まで出来るようになりました。しかし、当時の社会は、身障者に対する理解は薄く、手足のない久子を見る世間の目は、冷たいものがありました。

やがて1916年、20歳になった久子は地元高山を離れ、上京して横浜市などで一人暮らしを始めると、自ら見世物小屋に身を投じました。芸名を「だるま娘」とし、見世物小屋での芸人として働くようになったのです。口で裁縫や編み物を見せたり、太字は口に筆をくわえ、細字は右腕と頬にはさんで書いて見せました。興業は人気を呼び、日本全国から、朝鮮や台湾など海外にまでおよびます。

そんな中で、久子は2度結婚しますがともに夫と死別、3度目の夫とは家庭を顧みない相手にあいそをつかして離婚、4度目の夫中村敏雄と結婚してようやく安らかな家庭を持つことができ、夫にささえられながらも、生まれた2人の娘を育てながら、気丈に働き続けました。そして、見世物小屋で働き始めて以来、「恩恵にすがって生きれば甘えから抜け出せない」と決意し、生涯を通じて国の障害者制度による保障を受けることは一度もありませんでした。

1937年4月、41歳になった久子は、東京日比谷公会堂で目も見えず耳も聞こえず言葉も話せない三重苦のヘレン・ケラーと出会いました。久子は、そんな重障害を持ちながらも、世界中を回って障害のための福祉活動をしているヘレンに贈り物をしようと、口を使ってこしらえた日本人形をケラーに贈ることを思いついたのです。久子が両手足のないことを知ったケラーは、見えない目からはらはらと涙をこぼし「私より不幸な人、私より偉大な人」と久子を抱きしめたと伝えられています。

1942年ころ、久子は26年間も続けた見世物興業から引退しました。以後は請われるままに全国各地からの招きに応じ、夫や娘に背負われながら、婦人会、母の会、学校、刑務所、お寺などの講演活動、さまざまな施設慰問活動を始め、全国の身障者ばかりでなく健常者にも大きな生きる力と光を与えました。自分の奇異な生い立ちを語りながらも、自分の体について恨むどころか、「私にとって一番の良き師、良き友は、両手両足のないこの体でした」という言葉は、人々に大きな感動を与えたのでした。


「3月19日にあった主なできごと」

1813年 リビングストン誕生…文化の灯から閉ざされたアフリカ原住民たちへ深い愛を注いだ、イギリスの宣教師で探検家のリビングストンが生まれました。

1943年 藤島武二死去…明治末から昭和前期にかけて、日本の洋画界の指導的役割を果たしてきた藤島武二が亡くなりました。

1982年 フォークランド紛争…アルゼンチン軍が、イギリスと領有権を争うフォークランド諸島のジョージア島に上陸。果敢な航空攻撃でイギリス海軍艦に大きな損害を与えましたが、イギリス軍の逆上陸を阻止できず、約3か月後に降伏しました。