今日6月20日は、1935年に100m10秒3の「世界タイ記録」を達成し、戦後はコーチとして飯島秀雄や依田郁子らを育てた吉岡隆徳(よしおか たかよし)が、1909年に生まれた日です。

いまの島根県出雲市に神官の子として生まれた隆徳は、小学校卒業後に吉岡家の養子となりました。杵築(きつき)中学(今の大社高校)時代に、駅まで4kmの距離を走って通学するなどの努力が実り、1925年の山陰陸上選手権の100m走で11秒6を記録しました。このころから、人見絹枝選手を育てたことで知られる谷三三五(ささご)の指導を受けながら本格的な訓練を開始すると、たちまち日本を代表するスプリンターに成長しました。

そして、高等師範学校(今の筑波大学)に在学中の1932年8月、第10回「ロサンゼルスオリンピック」で、1位とわずか0秒3差の10秒6を記録、東洋人初の100mで6位入賞を果たしました。特にスタートダッシュの速さは素晴しく、新聞記者から「暁の超特急」と呼ばれて有名になりました。

さらに、1935年6月の「関東近畿フィリピン対抗陸上競技大会」と「日比対抗戦」では、10秒3の世界タイ記録を2度にわたって達成する快挙をなしとげました。これは、1964年に飯島秀雄が破るまで29年間も「日本記録」でした。

1941年に現役を退くと、広島高等師範学校に招かれて教授に就任し、戦後は広島県庁保健体育課長となって、1950年の国民体育大会広島開催に尽力するなど体育行政にたずさわり、1952年には、広島カープの初代トレーナーとなって当地のスポーツ界に功績を残しました。1963年にリッカーミシン陸上部監督として陸上の現場に復帰すると、飯島秀雄や依田郁子らを指導し、飯島は1964年の西ベルリン国際陸上大会で10秒1の日本新記録を、依田は同年の東京オリンピック80mハードルで5位入賞をはたしました。

その後の吉岡は、学習院や東京女子体育大学で教職につきますが、生涯にわたって100mを走ることにこだわり、1984年に亡くなるまで走り続けたといわれています。


「6月20日にあった主なできごと」

1751年 徳川吉宗死去…江戸幕府第8代将軍で、「享保の改革」という幕政改革を断行した徳川吉宗が亡くなりました。

1837年 ビクトリア女王即位…イギリス史上65年という最長の王となり「大英帝国」の絶頂期を築いたビクトリア女王が即位しました。