今日6月17日は、倒産寸前だった王子製紙を再建し、巨大製紙企業につくりあげた実業家で、政界、教育界にも力を尽くした藤原銀次郎(ふじわら ぎんじろう)が、1869年に生まれた日です。

現在の長野市に、藍問屋を営む豊かな農家に生まれた藤原銀次郎は、16歳のとき医者になることを条件に上京しました。しかし、医学の道には進まず慶応義塾に入って1889年に卒業後、島根県の地方紙「松江新報」の新聞記者になりました。ところが社が経営不振におちいったことで、藤原は社を引き受けて社長兼主筆となったものの、用紙の入手にてこずって再建に失敗し、帰京しました。

1895年三井銀行に入社すると、大津支店を皮切りに東京深川出張所長となるうち、「三井中興の祖」といわれた中上川彦次郎にその経営能力を評価され、1897年に三井グループが経営する富岡製糸場支配人となると、工員の賃金を出来高払いにして生産効率を高めました。1898年には同グループの王子製紙で、経営陣の対立からストライキが起こると、臨時支配人に就任してストライキを収め、翌1899年に三井物産に移って上海支店長、木材部長などで活躍しました。

1911年、経営不振で倒産寸前に陥った王子製紙の専務に就任すると、優秀な人材を抜てきして起用、苫小牧の新工場建設計画を機に、徹底した合理化につとめました。第一次世界大戦のぼっ発による紙不足と値上がり、需要の伸びもあって再建に成功すると、海外から技術顧問を招いたり、自ら欧米の最新技術の導入に積極的に取り組みました。そうした努力が実って、1933年には王子製紙・富士製紙・樺太工業の3社合併を実現させ、日本国内市場の占有率8割以上という巨大製紙企業をつくりあげました。藤原が「製紙王」といわれたのは、新生した王子製紙の社長に就任した、このころのことです。

1938年、社長職を譲って会長になると、理想的な実践技術を重視する工業大学の設立を決意。私財800万円を投じて横浜に藤原工業大学(のちの慶応大学工学部)を、70歳の誕生日にあたる1939年6月17日に開校しました。

いっぽう政界にも進出し、1940年に米内光政内閣の商工大臣、1943年東條英機内閣の国務大臣、1944年小磯国昭内閣の軍需大臣に就任しています。そのため戦後は、連合国軍最高司令部 (GHQ) よりA級戦犯容疑で出頭命令を受け、巣鴨刑務所に収監されましたが、まもなく不起訴となっています。晩年は、製紙により長年にわたって森林伐採をしてきたことへの償いのために、植林運動を奨励し、1960年90歳で亡くなりましたが、前年に藤原科学財団を設立し、同財団に1億円を寄付しています。


「6月17日にあった主なできごと」

1869年 版籍奉還…明治新政府は、藩の土地(版)と人民(籍)をこれまで治めていた藩から、天皇に返す「版籍奉還」を開始しました。

1877年 モース来日…アメリカの動物学者のモースが来日し、縄文時代の貝塚「大森貝塚」を発掘したことがきっかけとなって、日本に近代科学としての考古学がスタートしました。

1972年 ウォーターゲート事件…ワシントンのウォーターゲートビルにあるアメリカ民主党本部に、盗聴器をしかけようとしていた5人組が逮捕されました。共和党のニクソン大統領が、次の大統領選に有利にするため、相手方の様子を知ろうとしたためとされ、1975年8月、ニクソンは大統領辞職に追いこまれました。