今日5月20日は、飛鳥時代の政治家で、敏達(びたつ)・用明・崇峻(すしゅん)・推古の4代の天皇に仕え、54年の長期にわたって権勢をふるった蘇我馬子(そがの うまこ)が、626年に亡くなった日です。

大和朝廷の最高位である大臣(おおおみ)だった豪族・蘇我稲目の子として生まれた蘇我馬子ですが、成年になるまでの詳細は不明です。敏達天皇が572年に即位したとき、父の後を受けて大臣となり、以前から対立関係にあった大連(おおむらじ)の物部(もののべ)守屋とともに国政に参加しました。馬子は、渡来人を使って外交を推し進め、天皇が直接おさめる屯倉(みやけ)を経営したり、戸籍調査を綿密に行って人民支配するなど、進歩的な人物だったようです。

538年に渡来した仏教はまだ蘇我氏や渡来人たちに信仰されている程度でしたが、馬子は自分の屋敷に仏殿をつくるなど仏教を積極的に広めました。そのころ、疫病が流行しはじめると、物部守屋は蘇我氏の仏像礼拝するのが原因と、仏像を破壊するなどの行動に出ると、587年に敏達天皇のあとをうけた用明天皇が亡くなったのを機に、馬子は物部氏へ兵をあげると、激しい闘いのすえ、物部守屋を殺して一族を滅ぼし、親戚関係にある崇峻天皇をたてました。

こうして国政の主導権を握った馬子は、いっそう仏教を広めようと、わが国初の本格的寺院である飛鳥寺(法興寺)を建立しました。その後、崇峻天皇が取りまきの家臣とともに蘇我氏の行為に異をとなえはじめるや、592年に天皇を殺害させ、姪にあたる初の女帝推古天皇をたて、天皇の摂政となった聖徳太子とともに、本格的国家の基礎づくりをはじめました。

馬子は聖徳太子と合議しながら政治を運営し、仏教を奨励し、冠位十二階や十七条憲法を定めて中央集権化を進め、遣隋使を派遣して隋の社会制度や学問を輸入したことはよく知られています。620年には太子とともに『天皇記』『国記』などの歴史書の編さんにつとめたとされていますが、現存はしていません。

622年に聖徳太子が亡くなると、馬子は再び皇室以上の力をふるいだし、その勢力は亡くなったあとも子の蝦夷(えみし)に引き継がれました。なお、馬子の墓は奈良県明日香村にある「石舞台古墳」、同古墳の西にある「島庄遺跡」は邸宅の一部だったといわれ、そのぼう大な権力をうかがわせます。


「5月20日にあった主なできごと」

1498年 バスコ・ダ・ガマ新航路発見…ポルトガル国王にインド航路を開拓するよう求められていたバスコ・ダ・ガマは、アフリカ南端の喜望峰を経て、この日インドのカリカットに到達しました。リスボンを出発からおよそ10か月でした。この航路発見により、ヨーロッパとアジアは船で行き来できるようになり、ポルトガルはアジアへ植民地を広げていきました。

1506年 コロンブス死去…スペインのイザベラ女王の援助を得て、ヨーロッパ人として最初にアメリカ海域へ到達したイタリア出身の探検家・航海者のコロンブスが亡くなりました。

1799年 バルザック誕生…『ゴリオ爺さん』『谷間の百合』『従妹ベット』など、90数編に及ぶぼう大な小説を書き上げ、その小説群を「人間喜劇」と総称したフランスの文豪バルザックが生まれました。

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