今日2月5日は、明治期に政論家・新聞記者・政治小説家・衆議院議員として多彩な活動をした末広鉄腸(すえひろ てっちょう)が、1896年に亡くなった日です。

1849年、伊予国宇和島藩(愛媛県)の勘定役の子として、城下に生まれた末広鉄腸(本名・重恭[シゲヤス])は、幼いころから優秀で、1861年藩校の『明倫館』に入って朱子学を修めると、わずか20歳で母校の教授になり、藩政にも参加しました。学問好きで、特に陽明学に傾倒するとその師を求めて東京や京都にのぼって、研究を深めました。

1874年に大蔵省へ出仕するものの、翌75年、自由民権運動の高まりのなかで決然と辞職、「東京曙新聞」の編集長になります。直後に公布された、讒謗律(ざんぼうりつ=名誉毀損に対する処罰)と新聞紙条例(新聞の反政府的言論活動を封ずる)が公布されるや、これらを非難する投書を掲載したことで、自宅禁錮2か月・罰金2000円をいいわたされ、最初の違反者となりました。

禁固後に「朝野新聞」の編集長となると、成島柳北社長のしゃれた諷刺と鉄腸の痛烈な論説が人気をよんで部数を伸ばしました。しかし1876年2月に、讒謗律・新聞紙条例の主導者である井上毅らを紙上で茶化したことで、成島は禁獄4か月と罰金100円、鉄腸は同8か月と150円の罰を受け、投獄されてしまいました。釈放後に鉄腸は、朝野新聞に『転獄新話』を載せたり、立憲政治を強調するなど、その論調には少しもいしゅくするものではありませんでした。

鉄腸のめざすものが政治家だったことから、政談演説会や討論会にも参加して、国会開設の啓蒙演説を続けたり、積極的に地方遊説を行うほどでした。1881年に国会設置が予告され、「自由党」が結党されると党に加わり、機関誌「自由新聞」の社説を執筆するほどでした。ところが板垣退助の外遊を批判したことで、幹部と意見がくい違い1883年に脱党、馬場辰猪らと「独立党」を結成するものの健康を害して政治活動ができなくなり、政治小説を書きはじめました。

1886年に『雪中梅』、翌87に『花間鶯(かかんおう)』を出版すると、政治の背景がわかりやすいとベストセラーとなって、文名を高めました。1888年にはこれらの印税を資金に欧米を旅行して翌年帰国すると、「大同新聞」にかかわりながら、大同団結運動を推進しました。1890年7月、大同新聞記者の肩書で第1回衆議院議員選挙に愛媛県から立候補し、当選します。ところが、所属した立憲自由党から脱党しその後の選挙に2度落選、1894年の選挙で返り咲いてその後の活躍が期待されましたが舌ガンにかかり、言論・政治・文学の各分野にわたって先覚者として多彩な活動をした48年の生涯を閉じてしまいました。


「2月5日にあった主なできごと」

664年 玄奘死去…中国・唐の時代の高僧で、中国の仏教を発展させた玄奘(げんじょう)が亡くなりました。玄奘三蔵の著した旅行記「大唐西域記」は、のちの民の時代に、三蔵法師が、孫悟空、猪八戒、沙悟浄をしたがえて、さまざまな苦難を乗り越えて天竺へ経を取りに行く物語『西遊記』として描かれ、世界的に有名になりました。

1597年 26聖人の殉死…豊臣秀吉の命令により、カトリック信徒二十六名が長崎で処刑されました。

1869年 小学校設置の奨励…明治政府は、小学校設置令を公布して小学校を設置するように全国に働きかけました。翌年に学制が発布され、1873年1月設置の東京師範学校附属小学校を皮切りに、1875年には約2万4千校の小学校が全国各地に設置されました。

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