今日1月30日は、全国3000もの村を歩き、「宮本民俗学」を打ち立てた民俗学者の宮本常一(みやもと つねいち)が、1981年に亡くなった日です。

1907年、山口県周防大島の貧しい農家の長男として生まれた宮本常一は、小学校を卒業すると父母に負担をかけまいと、中学校には進学せず小学校高等科へ行き、卒業後は郷里で農業を手伝いました。16歳で大阪に出ると、郵便局員として働きながら、天王寺師範学校(現・大阪教育大)第2部に学びました。

1929年卒業後、和泉市の小学校教師となるものの肺結核により休職、故郷の周防大島で療養をしました。その間、地元の古老からの聞き書きを開始し、研究論文を「旅と伝説」に投稿、柳田国男の目にとまって『周防大島』の発表がはじまりました。1932年に大阪の小学教師に復職すると、小旅行をしながら山野やさまざまな集落を訪ねました。1935年生涯の師となる渋沢敬三と出会い、1939年に教員を退職して上京、渋沢の推せんで「アチック・ミューゼアム」(のちの「日本常民文化研究所」)に入所して、全国民俗調査を開始します。

1939年出雲など中国地方調査、1940年下北半島イタコ調査、1941年土佐源氏調査というように、戦前から高度成長期まで、離島をふくむ日本各地の3000以上の村を訪ね、1200軒以上の民家に宿泊しながら、ぼう大な記録を残しました。

とくに1950年、「八学会連合(のちに九学会)」による対馬総合調査に民族班員として参加したことは、宮本の学問上に大きな刺激となりました。「ここには、中世社会が生きている」と大きな感銘を受け、離島研究を本格化させるきっかけとなりました。1952年に全国離島振興協会を設立させて初代事務局長になり、再発した肺結核に苦しみながらも、代議士や官僚に離島の現状を説明し、誤った認識を改めさせる努力をしました。こうして1953年、念願の離島振興法を成立させたことで「離島振興法の父」と慕われるようになりました。

1960年『忘れられた日本人』、同年完結させた『日本残酷物語』(全7巻)でいちやく脚光を浴び、1961年に東洋大から文学博士号を授与され、『日本の離島』は第9回日本エッセイスト・クラブ賞を贈られました。1965年に武蔵野美術大学教授に就任、1966年には日本観光文化研究所(現「旅の文化研究所」)の初代所長、1980年には故郷の周防大島に「周防大島郷土大学」を設立しています。

なお、宮本が残した調査記録の多くは、1967年から刊行されはじめた『宮本常一著作集』に収められています。宮本が、柳田国男とは異なり、漂泊民や被差別民、性などの問題を重視したことで、柳田民俗学派からは冷遇されましたが、没後の1990年代後半になって再評価の機運が高まり、益田勝実は「宮本民俗学は、柳田民俗学から出発しつつも、渋沢から学んだ民具という視点、文献史学の方法論を取り入れることで、柳田民俗学を超える」という評価をしています。


「1月30日にあった主なできごと」

1649年 チャールズ1世処刑…1628年、イングランド議会から国王チャールズ1世に対して出された「権利の請願」は、大憲章(マグナカルタ)・権利章典とともにイギリス国家における基本法として位置づけられていますが、チャールズ1世はこれを無視して議会と対立。3日前に公敵として死刑の宣告を受けた国王が、この日処刑されました。こうして議会が国政に参加する権利を確立した「清教徒(ピュリタン)革命」が終結しました。

1902年 日英同盟…清(中国)や韓国に進出しようとするロシアに対抗するため、この日ロンドンで「日英同盟」が結ばれました。イギリスの清の権益、日本の清や韓国の権益を相互に認め、一方が戦争になったときは中立を守り、そこに第三国が参入したときは援助しあうというものでした。当時のイギリスは、アフリカでの戦争に消耗しており、ロシアの南下をおさえる「憲兵」の役割を日本に期待したもので、日本は日露戦争への道を歩みはじめました。

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