「おもしろ古典落語」の127回目は、『千両(せんりょう)みかん』というお笑いの一席をお楽しみください。

江戸日本橋にある大きな呉服屋の若だんなが、きゅうに病にかかってしまいました。たいせつなあと取り息子なので、両親はたいそう心配して、いろいろな医者にみてもらったところ、「これは気の病で、なにか心に思っていることがかないさえすれば、きっと全快する」というばかりです。ところが、両親がわけをたずねても、若だんなは恥かしがっていおうとしません。

そこで、だんなは、番頭さんを呼びました。「おまえさんは、あれが小さいときから遊んでくれてよくなついてたから、おまえさんになら胸のうちをいうような気がするんだ。すまないが、何とか聞き出してはくれまいか」「へい、かしこまりました、わたくしでお役に立ちますかどうか。じゃ、ちょっと行ってまいります」

「えー、若だんな、入ります。聞きましたよ、あなた。欲しいものがあるんでしょ、このあたしにいってごらんなさい」「番頭さん、よくきてくれました。おまえの親切は、死んでも忘れないよ」「えんぎの悪いことは、いうもんじゃありません。若だんな、先生のお話だと、なにか思いつめていらっしゃるということじゃありませんか」「このことだけはね、いっても、かなえられない望みなんだよ。いっても不孝、いわなくても不孝、同じ不孝なら、あたしの胸のうちにしまったままで、あの世へ行こうと」「バカなこといわず、とにかくあたしにおっしゃい。なにが望みなんです?」「じつはね。あのつやつやして、ふっくらとして……」「へぇ、わかりました、みなまでおっしゃるな。さっそく話をつけてまいります」「なにをいうんだい。あたしがいってるのは女の人のことじゃないよ」「じゃ、なんなんです?」「みかん」「み・か・ん?」「そう、みかんが食べたいんだ」「そんなものくらいで若だんなの病気がなおるんなら、この部屋をみかんいっぱいにしてさしあげますよ」「番頭さん、本当かい? みかんを買ってきてくれるんだね。みかんが食べられると思っただけで、気分がよくなってきた」

「だんな、うかがってまいりました。つやつやして、ふっくらとした…」「そうか、いつまでも子どもだと思っていたが、で、相手はどこの娘さんだい?」「いえ、それが相手は、みかんなのだそうです。この思いがかなえば、病もなおるっていうんで、そんなことなら座敷中みかんでうめてあげますと、うけあってきました」「なんだと? この暑いさなかに、どこにみかんがある?」「あっ、そうでしたな。これは、とんでもないことをうけあいました」「せがれは、おまえの言葉でよろこんだ。みかんがないことがわかったら、がっかりして死んでしまうよ。そうなると、おまえは、あるじ殺し。町内引き回しの上、はりつけだ」「だんな、それはお許しください」「あたしが許したって、お上が許しませんよ。さあ、それがいやなら、みかんを探しておいで」

「ああ、えらいこと引き受けちゃったなぁ。あつい、ああ、暑い。もう何軒まわったろう。とにかく、この店に入ってみるか。あのーっ、みかん、ありますか?」「みかん? 夏みかんで?」「いや、ふつうの、みかん」「この陽気で、気でもおかしくなったんじゃねぇか。ちょっと、あんた、このすいかあげるから、そっちの日陰でゆっくり食って頭でも冷しな」

番頭さん、その後も江戸の街をあてどもなくさまよいつづけ、とうとう日も暮れようかというころに、一軒の大きな果物問屋に行き当たりました。ここがだめだったら、もうどうにでもなれと案内をこうと、「みかん、あるかもしれません。ちょっとごいっしょにきていただけますか。これ、だれか、みかんの蔵をあけますよ。したくなさい。さ、こちらへ」「へぇぇぇー、み、み、みかんがありますんで」「いや、ちゃんとしたのがあるかどうかは、しらべてみなくては分かりません」

手代やらでっちやらが戸口に貼られた目張りをはがし、やがてギリギリと音を立てて扉が開くと、蔵の中からひんやりとした風とともにみかんの香りが漂ってきました。ところが、番頭さんの前で開かれた木箱の中にぎっしり詰まったみかんは、どれもくさっています。「次のはどうだい、ああ、これもだめか」開ける・くさってる、開ける・くさってるのくりかえしで、とうとう最後の一箱になってしまいました。「ご覧のように、これが最後です。これがだめなら今年はみかんはありません。ほう、これはいくらか形になってますな。どれ、わたしが見てみましょう。おお、これは、あ、お尻が腐ってる。これもだめだ。あっこれは、箱の隅に、たった一個だけ、無傷のみかんが見つかりました」

お店にもどった番頭さん、主人に報告します。「だんな、みかんがございました」「おお、あったかい」「ございましたが、わたしの考えでは、とても手がとどかない大金がかかります」「ふーん、いくらだい」「だんな、驚いちゃいけませんよ。多町の果物問屋では、みかんの出盛りに、蔵いっぱいみかんをぎっしりつめてしまいまして、時期はずれに注文があると、蔵の中から出すんだそうですが、満足なのはひとつだけでした。そのため、千両でなければ売らないっていうんです。みかんひとつが、千両でございますよ」「うーん、安いねぇ」「えっ、安い?」「せがれの命が、たった千両でたすかると思えば、安いものだ。いま、大八車を用意するから、千両箱を持って、みかんを受け取りにいっておくれ」

「ああ、なにがなんだか分からない。みかん一個に千両、その千両が安いだなんて…、だんな、行ってまいりました」「おぉっ! これがそのみかんかい。ありがとう、番頭さん。昼間は、あるじ殺しだなんて、おどかして悪かったね。子どもかわいさに、親はすぐにバカになる。許しておくれ。これはおまえさんのお手柄だ。さ、せがれにみかんをとどけてやっておくれ」「番頭さん、みかんが手に入ったんだって? ああ、これがみかん、夢にまで見たみかんだ」「若だんな、親ごさんのご恩を忘れなさんなよ。これいくらしたと思います? せ、千両ですよ、千両」「ああ、そうだろうね」「ありゃ、驚いてんのはあたしだけか。皮をむきますか? この皮だって二、三十両はするんだろうなぁ。いくら入ってます? 十房、ひと房百両だ。ああ、食べますか、百両、二百両、ああ…、七百両食べちゃった」「うるさいねぇ、番頭さん。でも、きょうは本当にご苦労さん、大変だったろう。ここに三房のみかんがある。ひとつはおとっつぁん、ひとつはおっかさんに上げておくれ。それからもうひとつは、番頭さん、おまえさんにあげるよ」「ええっ、こんな高価なものを、わたくしにもいただけるんですか? ぐすっ、ありがとうございます、いただきます」

番頭さん、おぼんにみかんをささげ持ち、部屋から出て考えました。「ああ、みかんが三房、一房百両だから、三房で三百両だよ。みかんが千両、三房が三百両だぁ。あぁ、思いおこせば、おれがこの店に奉公にきたのが十四の年だった。あれからもう四十年になる。来年には年(ねん)があける。そしたら、暖簾(のれん)分けで、ごくろうさまって渡されるのがせいぜい四十両そこそこだ。まちがっても五十両にはなるまい。三百両。今、おれの手の中に三百両が…二度と手の上に乗らない三百両…ああ、だんな、申しわけございません。よーし、このまま……」

三房のみかんをもったまま、番頭さん、店を逃げ出してしまいました。


「8月9日にあった主なできごと」

1192年 源実朝誕生…鎌倉幕府第3代将軍で、歌人としても著名な源実朝が生まれました。

1945年 長崎へ原爆投下…8月6日の広島に続き、長崎に原爆が投下されました。広島の原爆はウラン爆弾だったのに対し、プルトニウム爆弾という広島より強力なものでした。しかし平地の広島に比べて長崎の地形が複雑なため、被害は浦上地区に集中しました。それでもこの原爆で数か月以内に7万人が亡くなり、その後に亡くなった人を入れると、15万人ほどの人が命を落としました。


* 12日から夏季休暇のため、次回は19日となります。