今日8月29日は、江戸時代末期の医師・考証学者の渋江抽斎(しぶえ ちゅうさい)が、1858年に亡くなった日です。なお、渋江は、明治・大正時代の文豪・森鷗外の史伝小説により、一般の人たちに広く知られるようになった人物です。

1805年、弘前藩(青森県)の侍医の子として江戸の藩邸で生まれた渋江抽斎(幼名・恒吉)は、儒学を考証家・市野迷庵に学び、迷庵の没後は狩谷棭斎(えきさい)に学び、医学を伊沢蘭軒から学びました。さらに多くの儒者や国学者、医者と親交をもちました。やがて家督をつぎ、津軽順承に医官として仕え、1844年には幕府の管轄する医学校の講師となっています。

本業の医学に関する著書『護痘要法』のほか、当代並ぶ者なしといわれた考証学の分野では、森立之との共著で中国古典の解題書『経籍訪古志』は、特に優れたものといわれています。蔵書家としても知られ、その蔵書数は三万五千点といわれていましたが、家人の金策や貸し出し本の未返却などでその多くが散逸しました。生涯で4人の妻を持ち、最後の妻である五百(いお)は、抽斎没後の渋江家を守りつづけました。

鷗外が渋江抽斎の存在を知ったのは、江戸時代の大名家の名簿のような「武鑑(ぶかん)」を蒐集していたときでした。そのなかの多くの書に「抽斎」という蔵書印が押されてあったため、鷗外はその人物に興味を覚えたことがことがきっかけでした。詳しく調べるうち、抽斎の娘で長唄の師匠をしている陸(くが)と、文筆家の息子保の生存を知り、二人から話を聞くうち、抽斎が医者として考証家として、誠実で強靭な精神をもち、心やさしい人物であることを知りました。貧しい病人からは診察料はとらず、逆に生活費を与えたりするような行動を知るにつけ、ますますほれこみ、鷗外自身が考証家のような姿勢で、淡々と抽斎のこと、そして抽斎の回りの人について事実を細大漏らさず調べあげ、この本を書き上げたのでした。「抽斎は医者であった。そして官吏であった。そして経書や諸子のような哲学方面の書をも読み、歴史をも読み、詩文集のような文芸方面の書をも読んだ。其跡が頗るわたしと相似ている」と記述しています。

『渋江抽斎』は119章から成る大著ですが、抽斎は半分の62章あたりで亡くなり、そのあとは4番目の妻五百と子どもたちの話が中心になっています。家に三人の侍が金目当てで押し入ったとき、ちょうど沐浴をしていた五百は匕首(あいくち)を片手に腰巻ひとつで飛出してきて侍を追い出した話など、五百があまりに魅力的に書かれているので、鷗外は抽斎に名を借りて、ほんとうは五百の話が書きたかったのではないかという人がいるのも興味深いところです。

作家の永井荷風は、1959年に市川の自宅で亡くなりましたが、机上には鷗外の『渋江抽斎』が置かれ、文学の最高傑作と知人に話していたそうです。荷風にとって鷗外は師弟をこえた親以上の存在で、ケチで有名だった荷風は、鷗外記念館設立にあたっては惜しげもなく5万円(当時3千円で家が一軒買えた)を出すほどのほれこみようでした。

なお、鷗外の『渋江抽斎』は、オンライン図書館「青空文庫」で読むことができます。


「8月29日にあった主なできごと」

1708年 シドッチ屋久島へ上陸…イタリア人宣教師シドッチが屋久島に上陸。鎖国中だったため捕えられて江戸に送られ、新井白石の訊問を受け幽閉されましたが、このときのやりとりは後に『西洋紀聞』にまとめられました。

1862年 メーテルリンク誕生…『青い鳥』など劇作家、エッセイスト、詩人として活躍し、ノーベル文学賞を受賞したメーテルリンクが生まれました。

1929年 ツェッペリング号世界一周…全長236mものドイツの飛行船ツェッペリング号は、約12日間かけて世界一周に成功しました。しかし飛行船は、実用的には飛行機にかなわず、現在では、遅い速度や人目につきやすい特長をいかして、広告宣伝用として使われています。