今日8月28日は、わが国最古の和歌集で日本文学史上第一級の史料とされる『万葉集』を編さんした奈良時代の歌人・大伴家持(おおともの やかもち)が、785年に亡くなった日です。

718年ころ、のちに大納言の位にまでのぼり歌人としてもすぐれていた大伴旅人の子として生まれた家持は、10歳のころ、大宰帥(だざいのそつ)に任命された父といっしょに、筑紫(北九州)の大宰府へくだりました。筑紫には、やはり都からくだってきていた山上憶良をはじめ、何人もの名高い歌人がいました。家持は、父や心美しい歌人たちに囲まれ、のどかな筑紫の野を眺めながら、和歌をよむ心を育てていきました。家持には、生涯のうちでこのときが、いちばん幸福だったのかもしれません。

数年ののちに都へもどると、まもなく父を失い、やがて、父のあとをついで朝廷へ仕えるようになりました。貴公子の家持は、多くの女性にしたわれ、また自分も燃えるような恋をして、たくさんの恋の歌を作りました。

28歳のころ、越中守に任命されて北陸へくだりました。都を遠くはなれた雪深い越中(富山県)での暮らしは、さみしいものでした。でも、この越中での5年間が、家持を歌人として大きく成長させました。さみしさに打ちかつために、柿本人麻呂や山上憶良らの歌を学びながら、歌日記をつけ、越中の美しい自然と都をしのぶ自分の心を深くみつめた和歌をよみつづけました。

751年、家持は都へもどってきました。ところが、越中で夢にまで見た都は、藤原氏だけが栄えて、大伴氏の一族が出世できる道は何も残されてはいませんでした。家持は、大伴氏がとだえていくことをなげき、人間の悲しみや苦しみを歌にして、自分をなぐさめました。

このとき家持が都にとどまったのは、7年たらずでした。そののちの家持は、因幡国(鳥取県)、薩摩国(鹿児島県)、相模国(神奈川県)などの国守をつとめ、最後は、蝦夷をおさめる鎮守府の将軍として東北へおもむき、785年に、その東北の地でさみしく生涯を終えてしまいました。しかも、死後になって、長岡京をつくる指揮をしていた藤原種継が暗殺された事件にかかわっていたと疑われ、官位を取りあげられてしまいました。

衰えつつある大伴氏のなかで、いくつもの困難に出会った家持は、貴族としてはたいへん不幸でした。しかし『万葉集』には、480首ちかくの歌が収められ、歌人として名を残しました。この『万葉集』の編さんには、家持が重要な役割をはたしたといわれています。

なお、オンライン和歌集「千人万首」では、家持の作品約100首を、解釈付きで読むことができます。


「8月28日にあった主なできごと」

1583年 大坂城完成…豊臣秀吉が「大坂(大阪)城」を築きました。1598年の秀吉死後は、遺児・豊臣秀頼が城に留まりましたが、1615年の大坂夏の陣で落城、豊臣氏は滅亡します。

1749年 ゲーテ誕生…『若きウェルテルの悩み』『ファウスト』など数多くの名作を生みだし、シラーと共にドイツ古典主義文学の全盛期を築いた文豪ゲーテが生れました。

1953年 民放テレビ開始…日本初の民放テレビとして「日本テレビ」が放送を開始しました。当時は受像機の台数が少なく、人気番組のプロレス中継・ボクシング中継・大相撲中継には、街頭テレビに観衆が殺到し、黒山のような人だかりになりました。