今日8月8日は、「子どもの幸せと平和」をテーマに、にじみやぼかしを生かした水彩画を描きつづけた画家・絵本作家のいわさきちひろが、1974年に亡くなった日です。

1918年、福井県武生市(現・越前市)に生まれたちひろ(本名・知弘)は、翌年東京に移り住みました。幼少のころから絵を描くのが得意で、小学校の学芸会では舞台の上で即興で絵を描くほどでした。東京府立第六高等女学校(現・三田高校)2年在学中に、岡田三郎助にデッサンや油絵を学びました。卒業後は小田周洋に師事して書を習いはじめ、書でも、ちひろはその才能を発揮して小田の代理として教えることもあるほどでした。

1939年、ちひろは結婚して夫の勤務地である満州に渡ったものの、夫の自殺という不幸な結果により帰国。1944年には女子開拓団に同行して再び満州に渡るものの戦況悪化のためまもなく帰国しました。翌年には空襲で東京の家を焼かれ、母の実家である長野県松本市に疎開、ここで終戦を迎えました。ちひろはこの時初めて戦争の実態を知り、自分の無知を痛感したということです。

1946年、宮沢賢治のヒューマニズム思想に強い共感を抱いていたちひろは、戦前、戦中期から一貫して戦争反対を貫いてきた日本共産党の理念に深く感銘して入党。上京して新聞記者として働きながら、丸木俊に師事してデッサンを学びました。その頃から数々の絵の仕事を手がけるようになり、1949年に発表した紙芝居『お母さんの話』をきっかけに、画家として自立する決心をしました。

こうして画家・絵本作家としての多忙な日々を送っていたちひろでしたが、1949年、党支部会議で演説する22歳の松本善明と出会って1950年に結婚、翌年長男猛を出産しました。ちひろは弁護士をめざす夫を、絵を描くことで生活を支え、1952年には練馬の下石神井に自宅兼アトリエを建てるまでになりました。

当時の日本では、絵本というと、文が主体で絵はあくまでそえものにすぎないと考えられていました。至光社社長の武市八十雄は、欧米の絵本のような「絵で展開する絵本」の制作をしたいと、ちひろに呼びかけ、1968年『あめのひのおるすばん』にはじまり、それ以降ほぼ毎年のように新しいスタイルの絵本を制作しました。その努力が実り、1972年『ことりのくるひ』がボローニャ国際児童図書展でグラフィック賞を受賞、国際的に高い評価を得ることになりました。ところが、1973年秋に肝臓ガンが見つかり、翌年、55年の生涯を閉じてしまいました。

生涯に描いた作品は9000点にものぼり、絵本の代表作には上記以外に『おふろでちゃぷちゃぷ』『戦火のなかの子どもたち』などがあります。夫の松本善明と一人息子の猛は、ちひろの足跡を残すために、1977年、下石神井の自宅跡地にちひろの個人美術館を開館。さらに1997年には、長野県に広い公園を併設した「安曇野ちひろ美術館」を開館させています。


「8月8日にあった主なできごと」

1506年 雪舟死去…日本水墨画の大成者として知られる室町時代の画僧・雪舟が亡くなりました。

1962年 柳田国男死去… 『遠野物語』『雪国の春』『海南小記』などを著し、日本民俗学を樹立した柳田国男が亡くなりました。

1973年 金大中事件…韓国の政治家で、後に第15代韓国大統領となる金大中が、宿泊している東京のホテルから拉致される事件がおこりました。5日後、ソウル市内の自宅前で発見されました。