今日9月20日は、江戸時代に活躍した浮世絵師・喜多川歌麿(きたがわ うたまろ)が、1806年に亡くなった日です。

江戸時代に日本画のひとつとして興った浮世絵は、江戸時代のなかばをすぎたころから、あざやかな色を使った版画によって印刷した「錦絵」とよばれるものが、喜ばれるようになってきました。歌麿は、その錦絵に美人を描いて名をとどろかせた浮世絵師です。

歌麿は、江戸幕府ができてちょうど150年目の1753年に生まれました。生れは、武州(埼玉県)とも江戸ともいわれています。幼いころのことは不明ですが、少年時代は虫と遊ぶことと絵をかくことが、大好きでした。そして、おそらく少年時代の終わりころから、狩野派の日本画家鳥山石燕(せきえん)の弟子になって、花や鳥など自然に関する絵の勉強を始めました。

志をつらぬいて画家になった歌麿は、初めは、本の表紙絵や、物語のなかのさし絵を多く描きましたが、30歳のころからは、美人画を描くようになりました。やがて、それまでの美人画にはみられなかった大胆な絵を発表して、江戸じゅうの人びとの目を見はらせました。それは「美人大首絵」とよばれた絵です。ほかの絵師の美人画は、生活のなかの女性のすがた全体を描いたものがほとんどでしたが、歌麿は、顔や上半身だけを大きく描きました。からだの美しい形よりも、からだのなかからにじみでている女性の真の美しさや、顔に表われている心を表現しようとしたのです。人まねが嫌いだったという歌麿は、自分だけにしかできない理想の美人画を完成させようとしたのでしょう。歌麿によって、美人画に生きた血を通わせた浮世絵は、すぐれた芸術へと高められました。

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ところが、51歳になったときのことです。太閤豊臣秀吉が京都の東山へでかけて遊んだときのようすを、錦絵に描いたことが、幕府にとがめられて3日のあいだ牢につながれ、50日のあいだ手鎖の刑に処せられてしまいました。当時、北の政所や淀君、その他側室に囲まれて花見酒にふける秀吉の姿が、将軍・徳川家斉をからかったものとされたようです。出所後の歌麿は、浮世絵がすっかり描けなくなったまま、2年後、53歳の生涯をさみしく終えてしまいました。

歌麿と同じころ活躍した浮世絵師に、東洲斎写楽という人がいました。この写楽も、大首絵をえがいて有名になった画家です。でも、美人画ではなく、多くは、歌舞伎役者の顔をえがいたものでした。歌麿の大首絵と写楽の大首絵は、人物画の傑作として、ゴッホら西ヨーロッパのたくさんの画家たちに愛されました。


「9月20日にあった主なできごと」

1943年 鈴木梅太郎死去…ビタミンB1が脚気の治療に効果があることをつきとめ、糠から「オリザニン」を取りだすことに成功し、脚気の不安から人びとを救った農芸化学者 鈴木梅太郎 が亡くなりました。

1945年 墨ぬり教科書…敗戦後のこの日、文部省は新しい教科書の印刷が間に合わないため、戦時中につくられた教科書で、軍国主義的内容を削除するように通達しました。そのため先生は、生徒に削除する部分を墨でぬりつぶさせました。