「おもしろ古典落語」の34回目は、『夏の医者』というお笑いの一席をお楽しみください。

夏の真っ盛り。辺ぴな山村で病人が出ると、医者のいる隣村まで迎えに行かなくてはなりません。鹿島村の勘太が患って食欲がなく、いつもは飯を茶碗7、8杯も食うのに2、3杯しか食えない。年だし、もうだめかとせがれが思っていると、見舞いに来たおじさんが、隣村の玄伯先生に往診してもらえばよかんべと、いいます。隣村といても山裾をまわっていくと、およそ6里、急いでも4、5時間はかかります。

「やぁ、先生さま」「はい、はい…誰だ? なに、鹿島村から?」「とっつまのあんべぇが悪いで、ちょっくら見舞ってもらてぇがね」「おう、病人か、ちょっと待ちなせぇ。今たんぼの草を取ってるで、あと2坪ぐれぇで草しまうから、そけぇ掛けて一服やってなせぇ」越中ふんどし一つの素っ裸の医者は、田からあがって、おもむろに支度をはじめます。「ああ、えかく待たしたな、それじゃ、行くべぇ。ああ、そこに薬籠(やくろう)があんべ、薬箱だ、それ、おめぇすまねぇが、しょってくれ」と、二人は出かけますが、山裾をまわったんでは、時間がかかりすぎる。山越えの方が近道だと先生がいうので、あえぎあえぎ山道を登りましたが、頂上まで来ると二人とも滝を浴びたように汗びっしょり。休憩して汗が引っこんだところで、さあ出かけようと立ったとたん、何か変です。

「先生、先生」「はいはい、ここだよ」「あんだか…か、えらく暗くなったでねえか」「うーん、はてなぁ、いっぺんに日が暮れたわけじゃあんめぇが、こりゃどうしただべぇ」「あんだか、先生、えかくぬくいでねぇか」両手で手探りして先生、はたと思い当たりました。「あっ、こりゃいかねえ。この山に年古く住むうわばみがいるてぇことは聞いちゃいたが、こりゃ、のまれたな」「どうするだ、先生」「どうするだっちって、こうしていると、じわじわ溶けていくべぇ」刀を忘れてきたため、腹を裂いて出ることもできません。先生しばらく思案して、せがれに預けた薬籠の中から下剤を出させ、それをまいてみると、効果はてきめんです。うわばみは七転八倒。苦しがってあっちへばたり、こっとへばたりと左右に揺れます。

「薬効いてきたなこりゃ。向こうに灯が見えべえ。尻の穴に違えねえから、もちっとだ」ようやく二人は下されて、草の中に放り出され、転がるように山を下って、先生は勘太を診察すると、ただの食あたりとわかりました。「なんぞ、えかく食ったじゃねえけ?」「あ、そうだ。チシャの胡麻よごし食いました。とっつぁま、えかく好物だで」「それはいかねえ。夏のチシャは腹へ障(さわ)ることあるだで」薬を調合しようとすると、薬籠はうわばみの腹の中に忘れてきたことを思い出しました。

困った先生、もう一度うわばみに呑まれて取ってこようと、再び山の上へ行きます。うわばみは、いきなり下剤をかけられたためにすっかり弱って頬の肉がこけ、松の大木に首をだらんとかけてあえいでいます。「あんたに呑まれた医者だがな、腹ん中へ忘れ物をしたで、もういっぺん呑んでもれえてえがな」

「いやぁ、もういやだ。夏の医者は腹へ障る」


「8月10日にあった主なできごと」

1232年 御成敗(貞永)式目制定…鎌倉時代の執権 北条泰時 は、武士の権利、義務、罰則などを51か条に定めた日本で初めての武士の法律『御成敗式目』を制定しました。その後長い間、武家社会に関するとり決めるときのお手本となりました。

1693年 井原西鶴死去…江戸時代に「浮世草子」とよばれる庶民のための小説を数多く著した 井原西鶴 が亡くなりました。

1830年 大久保利通誕生…明治維新をおしすすめた西郷隆盛、木戸孝允とともに「維新の三傑」とよばれ、明治新政府の土台をささえた指導者 大久保利通 が生まれました。