今日4月13日は、明治・大正・昭和初期に活躍したユニークな行政官・政治家の後藤新平が、1929年に亡くなった日です。

1857年、現在の岩手県奥州市に生まれた新平は、伊達家水沢藩に仕える臣下で、一族には蘭学者の高野長英もいる名門でしたが、明治維新の際に藩が賊軍となったために貧しく、幼いころから本を読むのが好きでも、買うのもままならないほどでした。しかし、才気と行動力のあるのが幸いして、13歳で盛岡に出て県庁の給仕となって働きながら学んだのち、15歳で上京しました。

ある役人の雑用係をしながら、貧しいながらも誠実に勉強する新平に手をさしのべる人があらわれ、17歳で須賀川医学校に入学することができました。優秀な成績で卒業すると、愛知県医学校(現・名古屋大学医学部)で医者になり、さらにめざましく昇進して、24歳で学校長兼病院長となりました。この時後藤に転機が訪れました。岐阜で遊説中に暴漢に刺され負傷した板垣退助を、真っ先にかけつけて、適切な手当をしたおかげで板垣は一命をとりとめました。そして、これが新平の栄達するきっかけになったのですから、人生というのは先がわからないものです。

1883年内務省に採用され、1890年にドイツに留学して帰国後に衛生局長、1898年から10年間は台湾総督府の民政長官として台湾の近代化に尽力、さらに南満州鉄道(満鉄)の初代総裁として満州の植民地経営の基礎を築いただけでなく、1908年には桂内閣逓信大臣をつとめ、寺内内閣では内務大臣、さらに外務大臣となり、シベリア出兵を推し進めました。その後東京市長に就任し、市政改革に努めるとともに、東京改造計画をまとめました。1923年9月1日におきた関東大震災の直後に発足した山本内閣では、内務大臣と帝都復興院総裁を兼任して大震災の復興をはかる計画案を固め、その翌年いまの日本放送協会(NHK)の前身となる東京放送局の初代総裁に就任するなど、めざましい活躍をしています。

新平の行政官、政治家としての業績は多方面にわたっていて、どれも異彩を放つものでした。就任する先々で調査部を新設して科学的調査の実施を命じたために、「科学的政治家」と評されました。人々の常識を越える多額の資金の投資を求めるものだったため、「大風呂敷の後藤」といわれて、世間になかなか素直に受け入れられませんでした。しかし、後世になってからは、その先見の明と構想力は評価されています。

「貧乏は不名誉ではない。貧乏を恥じるこころが不名誉である。古来の偉人英雄を見よ、貧乏から立身出世しているではないか」「金を残して死ぬ者は下だ。仕事を残して死ぬ者は中だ。人を残して死ぬ者は上だ。よく覚えておけ」「人は日本の歴史に50ページ書いてもらうより、 世界の歴史に1ページ書いてもらうことを心掛けねばならぬ」など、遺した言葉にも含蓄があふれています。

なお新平は、日本のボーイスカウト活動に深い関わりを持って、ボーイスカウト日本連盟の初代総長を勤めていることでも知られています。


「4月13日にあった主なできごと」

1592年 文禄の役…1590年に全国統一をはたした豊臣秀吉は、中国の「民」を支配下におこうと、第1次出兵として加藤清正や小西行長らの率いる兵16万人を釜山に上陸させました。これは「文禄の役」といわれ、その後ソウルを陥落させましたが攻めあぐね、よく年休戦をしました。

1612年 巌流島の決闘…宮本武蔵と佐々木小次郎が、山口県の巌流島で決闘を行ないました。武蔵は、約束の時間に遅れて小次郎をいらだたせ、「小次郎敗れたり」と叫んで相手の動揺を誘い、舟の櫓で一撃のもとに小次郎をたたきのめしたといわれています。この有名なシーンは、小説、映画、テレビドラマなどでおなじみです。

1743年 ジェファソン誕生…第3代アメリカ合衆国大統領で、イギリスからの独立宣言文を書いたジェファソンが生まれました。

1818年 伊能忠敬死去…江戸時代後期の測量家で、16年もかけて日本全土の実測地図「大日本沿海輿地(よち)全図」を完成させた伊能忠敬が亡くなりました。

1912年 石川啄木死去…「はたらけど はたらけど なおわがくらし 楽にならざり じっと手をみる」などたくさんの短歌や詩、評論を残し、民衆歌人、天才詩人といわれた石川啄木が亡くなりました。