今日2月10日は、明治・大正から戦前・戦後にわたって女性解放運動・婦人運動の指導者として活躍した平塚雷鳥(らいちょう)が、1886年に生まれた日です。

東京麹町に、高級官吏を父に3人姉妹の末娘として生まれた平塚雷鳥(本名・明[はる])は、1887年から1年半欧米を視察旅行した父の影響で、ハイカラで自由な環境で育ちました。ところが小学校に入学したころから、父は一転して「女子には女学校以上の学問は必要ない」といった考え方をするようになりました。

しかし、父を説得し日本女子大学に入学しますが、日露戦争が始まると、国粋主義的な考えを押しつける講義に幻滅し、宗教書や哲学書を読むことに没頭、禅の修業にはげんだりしました。卒業後、ゲーテの『若きウェルテルの悩み』を読んだことがきっかけになって文学に目覚め、女性の文学会に入って、夏目漱石門下の新進作家・森田草平と知りあいます。処女小説『愛の末日』を書き上げると、それを森田が高く評価したことから、二人は恋仲になりました。ところが、まもなく「塩原事件」といわれる心中未遂事件を起こしたため、明は一夜にしてスキャンダラスな存在となりました。

明は、この事件を機に、性差別や男尊女卑の社会で、抑圧された女性の自我の解放に関心を持つようになっていきました。そして1911年に青鞜(せいとう)社をおこし、日本で最初の女性による女性のための文芸雑誌『青鞜』を創刊します。明は「元始、女性は太陽であった…」という有名な創刊の辞を書くことになり、初めて「雷鳥」というペンネームを使用しました。

『青鞜』は、男女間で両極端の反響をまき起こしました。女性の大きな支持に対し、男性や新聞は冷淡で、青鞜社や平塚家に石が投げこまれるほどでした。でもそれにもひるまず、封建的家族制度反対、婦人参政権の獲得などを主張しました。さらに、青鞜社に集まる女性たちを「新しい女」と非難されると、雷鳥は、1913年の『中央公論』に「私は新しい女である」と書き、古い道徳や慣習をぶちこわすと宣言して、同年の『青鞜』の全ての号に、付録として「婦人問題特集」を組みこみました。その付録に、ある著者が「恋愛も結婚も自然に自由になりましょう」と書いたことが「安寧秩序を害すもの」として発禁に処せられると、5歳年下の画家志望の青年奥村博史と共同生活をはじめました。雷鳥は、そのてんまつを『青鞜』の編集後記で読者に報告しています。

『青鞜』は、1916年に財政難のために解散しますが、雷鳥は、その後も婦人問題の評論家として活躍を続け、1918年に 与謝野晶子 と母性保護論争をおこしたことは、よく知られています。雷鳥が「国家は母性を保護すべきである」と主張したのに対し、晶子は、それは女性の依頼主義であるとして真っ向から対立したものです。

この論争のさ中、雷鳥は愛知県の繊維工場を視察し、その女性労働者の惨状に衝撃を受けて、帰途に婦人運動の団体設立の構想をします。市川房枝、奥むめおらに協力をもとめ、1920年に日本で初めての婦人運動団体「新婦人協会」を設立。婦人参政権運動と母性の保護を要求し、女性の政治的・社会的自由を確立させることを目的としました。特に「治安警察法」第5条改正(女性の集会・結社の権利獲得)に力を入れ、1922年に改正を成功させますが、運動は長続きせず、翌年末に解散、雷鳥は文筆生活に入りました。

第2次世界大戦後は、平和運動に取り組み、終生婦人運動と反戦・平和運動に献身、1971年に亡くなる直前まで積極的な活動を続けました。


「2月10日にあった主なできごと」

1657年 新井白石誕生…江戸時代中期に活躍した旗本・政治家であり、歴史、文学、言語学、政治、地理、兵法、考古学、民俗学などに通じる博学の学者だった 新井白石 が生まれました。

1763年 イギリスがカナダを獲得…イギリスとフランスとの間で争われた植民地7年戦争が終わり、パリ条約が結ばれて、フランスはカナダをはじめ、ミシシッピー川以東のルイジアナをイギリスに譲渡し、北アメリカの領土を失いました。英国はすでにインドのフランス植民地も得て、いわゆる「太陽の没しない大帝国」を築き上げました。

1851年 水野忠邦死去…江戸時代の末期に「天保の改革」を指導したことで知られる 水野忠邦 が亡くなりました。

1904年 日露戦争勃発…中国東北部の満州と朝鮮半島の支配権をめぐって紛糾した両国でしたが、日本政府はこの日、大国ロシアに対し宣戦布告をしました。