今日2月8日は、ロシアの革命家、アナキズム(無政府主義)の理論家の一人で地理学者のクロポトキンが、1921年に亡くなった日です。

ピョートル・クロポトキンは、その一生を貧しく虐げられた人々の幸福のためにささげましたが、自身は1842年、代々宮廷での要職をになってきた名門貴族の3男としてモスクワに生まれました。父は、ロシア・トルコ戦争で成果をあげた軍人で、1200人もの農奴を有する大地主でした。父は、子どもたちや使用人たちに乱暴だったのに対し、母は知性のある教養人で、使用人たちや子どもたちにとても誠実でした。しかし、幼い時に亡くなってしまったため、クロポトキンら兄弟は、使用人たちの手によって養育されました。

1862年、中央幼年学校を卒業後、士官としてアムール・コサック軍に勤務し、1864年から66年にかけてロシア地理学協会の北東アジア探検隊に参加しました。アムール河流域や東部シベリアの研究を行なう過程で、重要な地理上の発見をするほど有能な地理学者でした。

1872年にスイスを訪れ、この地でアナキズムの指導者バクーニンと知り合って共鳴し、第一インターナショナルのバクーニン派に加わって社会運動家(自身のことばでいえば「革命家」)となります。ロシアに帰ると革命家の集りだったチャイコフスキー団に加わって、首都ペテルブルグの労働者の間で宣伝活動を行ったところ、逮捕、投獄されてしまいました。しかし、監獄病院から脱出してイギリスに亡命、1877年にジュネーブに移り、ヨーロッパ無政府主義の機関紙『革命』を発行しました。

1881年にスイスを追放されたクロポトキンは、フランスのリヨンで禁錮5年の判決を受けましたが、フランス世論の支持で釈放されました。1886年にはイギリスに渡り、ロンドン郊外に住んでアナキズム的共産主義の運動を推進しました。大杉栄 の翻訳した『青年に訴ふ』や『パンの略取』『無政府―その哲学と理想』『相互扶助論、進化の一要因』など多くの著書を刊行しました。学者としての長年の考証的学術研究に基づき、当時一世を風びした ダーウィン の主張する社会進化論や マルクス 主義にも批判を加え、社会運動ばかりでなく、文学にも大きな影響を与えました。

1917年ロシア革命の最中に帰国し、十月革命以後のソビエト政権に対しては、そのプロレタリアート独裁の考えに反対しながら、79年の生涯を閉じました。

「新しい社会には大きな国家権力はいらない。人民が自主的にやっていけばよい。地方自治が社会の根本だ。そして、工業と農業が結びつき、大都会と農村との対立はやめなくてはならない。その社会では、万人はすべて平等で、自分の個性を最大限に伸ばすことができる。国家、法律、軍隊、政党などは、みんななくなってしまうのだ」──このようなクロポトキンの考えは、アナキズム(無政府主義)とよばれ、今では実現不可能といわれています。しかし、愛に基づくビジョンは、人類が忘れ去ってはならない「理想の灯」なのではないでしょうか。


「2月8日にあった主なできごと」

1725年 ピョートル大帝死去…ロシアをヨーロッパ列強の一員とし、バルト海交易ルートを確保した ピョートル大帝 が亡くなりました。

1828年 ベルヌ誕生… 『80日間世界一周』 『海底2万マイル』 『地底探検』 『十五少年漂流記』 などを著し、ウェルズとともにSFの開祖として知られるフランスの作家 ベルヌ が生まれました。