今日2月1日は、明治・大正時代に政治家を兼ねながら、陸軍の最高実力者として活躍した山県有朋(やまがた ありとも)が、1922年に亡くなった日です。

1838年、「卒族」という足軽よりも低い身分の下級士族の長男として長州藩(山口県)の萩城下に生まれた山県有朋は、子どものころから槍術の修業にはげみました。吉田松陰 の松下村塾に入り、やがて 高杉晋作伊藤博文 らと尊王攘夷運動に参加するようになります。1863年、高杉が中心となって、下級武士や町人、農民を集めて組織した「奇兵隊」という軍隊を組織すると、山県は軍監となって、軍をまとめることに力をそそぎました。翌年の第1次長州戦争(江戸幕府による長州征伐)で、藩の首脳が屈辱的条件で降伏したのを怒り、奇兵隊が長州藩の主導権をにぎって、明治維新の立役者となります。

維新後の山県は、1869年にヨーロッパにわたって、各国の軍制の調査や研究にあたり、翌年帰国後は陸・海軍の軍制の改革につとめ、1873年には「徴兵令」を制定して近代軍制の基礎を築きました。同年に陸軍卿、1870年には参議となって、明治政府の中心の地位をかちとり、「佐賀の乱」や「西南戦争」など、不平士族による反乱を鎮め、1878年には新設されたばかりの参謀本部長となって、陸軍を統率する地位に上りつめました。以後、陸軍大将・元帥に昇進するなど、亡くなるまで、陸軍の最高実力者の地位を保ちつづけました。

1882年には「軍人勅諭」を定めて、天皇制軍隊の精神的基礎を固め、市町村制をはじめとする戦前の地方制度の基礎を築きました。いっぽう、自由民権運動(国会開設を求め、民主主義をめざす反政府運動)には徹底的に対抗し、保安条例を公布して、大隈重信 らを政府外に追放するなどの弾圧を加えました。

1889年には総理大臣となって山県内閣を組織し、「教育勅語」を発布しました。また「治安警察法」を制定して労働運動や社会主義運動の台頭に備えました。「日清戦争」(1894-95年)では、第1軍を率いて出征し、参謀本部を掌握しました。1898年には2度目の総理大臣となって、日清戦争後の戦後経済を立て直しました。1901年桂太郎内閣が成立すると背後から援助して「日英同盟」を締結させ、「日露戦争」(1904-05年)では参謀総長として大本営に列し、勝利させました。

1909年に伊藤博文が暗殺されると、陸軍大将・元帥として最長老の地位を強め、内政に外交に絶大な力を発揮しだしました。しかし大正期に入り民衆運動が高揚し、政党の力が強まるにつれてその影響力もしだいに弱まり、1918年の「米騒動」(米価の値上がりに対する民衆の暴動)では大きな衝撃を受け、山県の政治指導の限界がみえはじめてきました。さらに、皇太子妃選定問題に失敗し、失意のうちに亡くなったのでした。


「2月1日にあった主なできごと」

1874年 佐賀の乱…前参議の江藤新平をリーダーとする明治新政府に不満を持つ佐賀県の士族が、政商の小野組を襲い「佐賀の乱」を起こしました。

1953年 テレビ放送開始…NHKは、日本初のテレビ本放送を開始しました。当時のテレビは値段が高かったため、契約者はわずか866名でした。