今日8月25日は、人を愛し敬う心を大切にし、母に孝養をつくして 「近江聖人」 とその徳望が慕われた江戸時代の儒学者・中江藤樹(なかえ とうじゅ)が、1868年に亡くなった日です。

中江藤樹は、江戸幕府が開かれてから5年後の1608年に、近江国(滋賀県)で生まれました。父は農民でしたが、藤樹は8歳で、武士の祖父のもとへ養子としてひきとられました。そして、6年ののちに祖父が亡くなると、祖父にかわって、伊予(愛媛県)の大洲藩につかえるようになりました。

藤樹は、子どものころから学問が好きでした。10歳をすぎたころから、中国の孔子の教えを説いた儒学を学び、人間が守らなければならない道を、深く考えるようになりました。学問の力がみとめられて、わずか18歳で村の政治や裁判をつかさどる郡奉行にとりたてられたとき、藤樹の前にでたものは、だれもうそがつけなかったということです。

ところが1634年、26歳の藤樹は大洲藩をしりぞいて、生まれ故郷の近江へ帰ってしまいました。父はすでに亡くなり、近江には母がいました。藤樹は、母へ孝行をつくすために近江へ帰りたいという願いを、藩へだしたのです。でも、藩は、藤樹の才能を惜しんで、その願いを許しませんでした。そこで、ひそかに藩をぬけだして、母のもとへ帰ってしまいました。 しかし、ほんとうは、このとき藤樹は、学問をあまり重くみない武士の生活が、いやになっていたのだろうといわれています。

武士を捨てた藤樹は、家で酒を売って母をやしないながら、塾を開いて、村の人びとに学問を教え始めました。

藤樹は、だれにも親切に、人間の正しい生きかたを説き聞かせました。そして、自分は、秩序正しい社会をきずくための人の道を教える朱子学を学んだのち「人の道は、知るだけではいけない。正しいことを知ったら、すぐ実行しなければいけない」と説く陽明学へ進み、やがては日本の陽明学をうちたてました。

藤樹の名は広まり、たくさんの弟子が集まりました。のちに陽明学の大家になった熊沢蕃山も、そのひとりでした。蕃山が弟子入りにきたとき、藤樹は、自分は田舎ものの学者にすぎないことを告げて、ことわりました。でも、蕃山は、ひと晩じゅう外にすわったまま立ち去ろうとせず、ついに藤樹は、その熱心さに心をうたれて入門を許したということです。

藤樹は、『翁問答』『鑑草』などおおくの本を残して、40歳で亡くなりました。 弟子を大切にした教育者でした。


「8月25日にあった主なできごと」

1543年 鉄砲伝来…ポルトガル人二人をふくむ100人以上も乗せた大きな船が九州の種子島に漂着し、日本に鉄砲を伝えました。(2008.8.25 ブログ参照) 

1830年 ベルギー独立革命…ベルギーの中心都市ブリュッセルの劇場で演じられていたナポリの独立闘争のオペラに刺激されて、ベルギーのオランダからの独立革命がおこりました。たちまち各地に運動が飛び火して10月に独立宣言がなされ、年末までにオランダをのぞくヨーロッパの列強は、ベルギーの独立を認めました。

1944年 連合軍のパリ解放…北フランスのノルマンディー上陸に成功した連合国は、ドイツ軍と激しくたたかいフランスの首都パリに入るとドイツ軍は降伏、パリは解放されました。解放運動の指導者 ド・ゴール が凱旋門に現われると、パリ市民は熱狂的な歓声で迎え、パリは4年ぶりにパリ市民の手にもどりました。